理想世界

 自分は何が欲しいのか、そして願いとは、望みとは、何なのか。


 二ノ宮君に、本当は分かっているんでしょ? と、言われた時の言葉が胸に痛い。

 胸に何かずしりと重い物が覆い被さる感覚。

 その圧迫感は、気分の良い物では……ない。

 願いが本当に無いのなら、私は今、自分を苦しめているその感情を、味わう事は無かった筈。

 だから、何か願う事はあるのよ……ね?

 ……大切な友達の為に戦うという気持ちは本当だ。 けれど、その戦いの果てに、私も迷宮を攻略するという結果は、私に願いを叶える事を選択肢を与える。

 そこに本当は何か願いがある筈なのだからこそ、それを二ノ宮君に指摘されて心が痛むのだ。

 それを自覚しているのか、と、言われたならば、私は認めるしかない。 それを自覚して居なかった事を認めなければならない自分を。

 中途半端に、願いを叶えるられるなら叶えたい派、などと言う曖昧な発言で以前は濁したが、欲求は人様々だろうが、何も望まないで生きている人間が存在する事はあり得るか?

 本当に何も欲しくは無い人間は、存在し得るか?

 私は、この世界に来てから、最終的な願いを、望みを、何か口にした事はあったか?

 いや。 それこそ、思った事さえあったか?

 ……自分の事だから良く分かる。

 一度も無かった。


『なら、私の望みって、何なのよ。』


 自分が自分に問い掛けた疑問に対して、何故か自分の過去の記憶が私の頭の中を巡り出した。

 私の願う物は、自分の過去を見つめ直さなければ見つけられないという事なのだろうか。

 それとも、心が安寧を求めた為かはわからないが、私の中にある一番古い記憶が蘇って来た。


 ◇


 セピア色の世界が、私の最初の記憶として蘇る。

 それは夕日だったろうか、朝日だったろうか、どちらかは分からないが、海に照らされた赤い太陽を見て、世界の美しさを初めて知った。

 それに続く記憶は、とても……幸せな物だったと言える。

 まだお父さんとお祖父ちゃんが生きていた時、私は自分が世界の中心だとでも思っていた――――その頃の記憶。


 ◇


 港に帰ってきた漁船の船の上で、二人は良く捕れたての魚を捌いてくれた。 小さい頃から魚は大好きだったが、それはその時に食べた魚の味を自分の舌がずっと追い求めて居るからなのかもしれない。

 あんなに美味しい魚は、二人が居たからこそ食べられたのだが、当時の私はそれが当たり前だと思って居て、二人が港に帰って来るのを、眠い目を擦りながらもほぼ毎朝早く起きて待っていた。

 果てには夕食をあまり食べずに寝て、朝日が昇るよりも早く起きて、わざとお腹を空かせて港に行った時もあった。

 それでも誰も怒りもせず、『加奈は仕方ないなぁ。』と、皆笑って私の頭を撫でてくれた。

 港に行く時は、お母さんは漬物と、おかずが入ったタッパ、それから味噌汁が入ったポットを持ち、私はお櫃に入った白いご飯を手押し車に乗せて持って行った。

 普通の人なら、温かいご飯の方が良いというのだろうが、お父さんもお祖父ちゃんも、親子揃って偏屈な人で、そのお櫃に入った固めに炊かれた冷や飯が大のお気に入りだった。 それと、温かい味噌汁と捕れたての魚の刺し身が良く合うのだ、と、二人で豪快に笑って話していたっけ。

 そんな二人に影響されたせいか、小さい頃の私もその固い冷や飯が大好きだった。


 ああ。 朝焼けに照らし出されたお父さんとお祖父ちゃんの船、『ほまれ丸』が、誇らしげに大漁旗を掲げて、帰って来るの光景が、今でも目に焼き付いて居る。


 そこで、プツン、と、一旦記憶が途切れる。

 そんな幸せな時間は、それでお仕舞い、と、言わんばかりに。


 ◇


 その日は、蒸し暑い、太陽がまるで地面を焦がす様に照り付けている日だった。

 お母さんが、玄関で、お父さんの知り合いの漁師と、警察に聞かされた話に、泣き崩れた。

 その後、私は、お母さんのスカートの裾を引っ張って、『どうしたの? どこか痛いの?』と、的外れな事を必死に言っていたのだけは覚えて居る。

 勝手なもので、既に母は、お父さんとお祖父ちゃんが帰って来ない事を、私に伝えて居たのだが、私はそれを理解しようとしなかったのだ。


 大好きだった父と祖父が、ほまれ丸と共に、母と幼い私を残して逝ってしまった。

 それを自分が悲しいと初めて認識したのは、母の涙でも、葬式の時に親戚から掛けられた同情的な言葉でも無い。

 もっと……利己的な物だった。

 勿論、お父さんとお祖父ちゃんにもう会えないというのは悲しかったが、幼い私にとって、現実感が無かったのだろう。

 近所の漁師のおじさん達やおばさん達は、私とお母さんを不憫だと思ったのか、新鮮な魚を家に届けてくれて、私はそれを冷や飯で食べて居た。

 その新鮮な魚を食べていたからかどうかは分からないが、お父さんとお祖父ちゃんに会えないのは、一時的な物だと勝手に想像していたのだろう。

 ほまれ丸じゃない、金色の船にでも乗って、いつか帰って来るんじゃないのかな、と。


 初めて父と祖父がもう居ないのだ、と、現実感を私に味合わせたのは、あの時家族が住んでいた家を出て行かなければならなかった時の事だ。

 あの家の事は、今でも良く覚えて居る。

 海の側に建てられた、白い壁の、赤い屋根の家だった。 漁師にしては『お洒落』な家だとお母さんは照れ臭そうに言っていたが、お父さんは私にこっそり、お母さんが好きなデザインにしたんだよ、と、言っていた。

 その時私も、子供ながらにその家を可愛いと思って居た。 そして、その家の二階には、海に面したベランダが付いた部屋が二つあり、そのうちの一つが――――小学校に上がったら私の部屋になる筈だった。

 それは父と私との約束だった。

 私がお手伝いをして、勉強をして、頑張って居たら、その部屋をくれるという約束。


 しかし、その約束が果たされる事は結局無かった。


 あの家が建てられた時、私は三歳。 物心付いた時からずっと言い聞かされたその約束は――――きっと違う誰かの物になったのだろう。

 どこの誰があの家を買ったのか、そしてどんな人物が現在その部屋に住んで居るのか、私は知らない。

 また、知りたくも無い。 私の物では無く、誰かの物になった、その現実を知りたく無いのが理由で、14歳になった今でさえ、昔の家があった付近には、出て行った時から近づいた事が無い。

 物欲という物をあまり持ち合わせて居ない私だが、今思い返せば、あの家を失った時に私は諦めるという事を学んだのかもしれない。

 それは良い事か? それとも悪い事か。 そんな事は私にも分からない。


 頭の中に、ザザッ、というノイズが入る。


 欲しい物を欲しいと言わないで、我慢する。 そんな日々があった事だけは覚えて居る。

 それが憤りとなって今その記憶を邂逅しているという事は、嬉しいという感情の反対側にある事だけは確実に言えるだろう。


『何それ。 本当に要るの?』


 ずきん、と、頭の中に響くお母さんの口癖。

 我慢をする私は、良い子。 偉い子。 実際にうちは貧乏だったし、我慢を受け入れるのが、その良い子の証明。

 ただ――――お母さんのその口癖が、私のお母さんへの愛情と呼ぶべき感情を霞ませる。


 あの家を失って、私は幼いながらにも諦めるという事を覚えた筈。

 だから問題は無い。 無い筈だ。

 お小遣いが無くても問題無い。

 その小遣いを強請らない私は、良い子。

 ある物で我慢する私は、良い子。

 ノートパソコンや、テレビは使っても良い。 だって、それはある物だから。

 本当に必要な物、文房具や生理用品、歯磨き粉やシャンプーは、安い物を選べと言われた。 それは私も同意したし、安い物が悪い物だと限らないというのは私の信条でもある。

 だが、何故今になって、それを疑問に思おうとしているのだ?


 メガネが必要になった小学校六年生の時は、舌打ちと共に―――――――ザザッ、と、頭の中にまたノイズが入る。

 そう言えば、私は下着を上下三枚しか持って居ない。 ジュニアサイズなのでカップの入ったタンクトップが上半身の下着なのだが、肩口の縫い目が解れて来た時は、お母さんに言われなくても自分で縫って直した。

 流石にショーツはの修理は難しいので、履けなくなるまで履いて、それでどんな安物でも良いから買ってくれというと、シミが取れなくなった下着や、ゴムが伸び切ってすぐにずり落ちて来そうな物、はたまた破けた物でも、お母さんは私がもう使えないと申告した物を自分の手に取って、伸ばしたり、態々ひっくり返したりして、状態を確かめてからもう一度私に問いかける。


『もう使えなくしたの? 勿体無い。 ……本当にもう使えないの?』


 と。 何故そんな母の口癖が始まったのか、それとも、ずっと前からそうだったのかは覚えては居ない。

 心の中にモヤが掛かった様に、思い出せないのだ。

 ――――だが何故、私は、それを疑問にさえも抱かなかったのだろう。

 私を育てる為に、お母さんは必死に働いてくれた。 そんなお母さん。 私の、お母さん。

 そうだ。 お母さんのが働いて稼いだお金なんだから、無駄使いは出来ない。

 ――――当たり前だ。

 それに、お母さんの事は嫌いじゃない。 むしろ好きだ。 でも、こういうのって…………

 ……また思考が深い闇に暗転する。

 私は、本当の意味で、育てられて居たのか? それとも、ただ、生かされて居たんだろうか。

 私が母と自分の食事を作るのは、私も食べるからというルール。 掃除をするのも、洗濯するのも、私が住まわせて貰っている義務として、働いているお母さんを手伝っているから行って来たというルールだったよね。


『子供ってそういうものなのかしら? 本当に、そうなのかしら?』


 心の中の誰かが、私に問いかける。

 でも、大丈夫だよ。 と、私は言い返す。


『――――ちょっと待って。 何が大丈夫なの? 何でそんな事を考えるの?』


 更に、もう一人の私が私に問い掛けた。

 え? お母さんの事? 好きだよ? だから、別に大丈夫だよね?


『……大丈夫って、それで良いって事?』


 良いんじゃないの? ダメなの? 普通の親子って、違うの?


『知ってるでしょ。 違う。 違うんだって。』


 でも――――だって――――ほら、お味噌汁美味しい。 お母さんの。


『嘘。 最後にお母さんのその味噌汁を飲んだの、いつなの?』


 もう一人の私と、私が、ぐるぐると、ぐるぐる、と、駆け巡る記憶に疑問を投げ付け、回答する。

 それを何度繰り返したか――――

 ぷつり。 と、糸が途切れる様に、思考が止まった。

 脳の一部が、勝手にその記憶の事を考える事をやめろと唐突に命令したのだろうか、私の心の風景からお母さんの姿は消え――――次の瞬間、思考は現実へと引き戻って来る。


 ◇


 ここは、最高級キャンプセットの中の部屋。

 その部屋の大理石に似た艶やかな床の上に、私は立っている。

 俯いて冷や汗をかいた私の姿が、その床の上に歪みながらも反射して見えていた。

 

 ここは私が居た世界とは違う世界で、望みが叶うかもしれない世界。

 

 欲しい物は何か。 私の望みは何なのか。

 それを私に言えという二ノ宮君。 俯いた顔を上げると、彼の視線が、私に向いていた。

 彼は、自分の母親を同級生に殺されて、その同級生を私怨で殺したという人物。

 そんな熾烈な人生を歩んできた彼に、私は今、逆に質問したくなった。


「なんで……二ノ宮君は、前の世界に帰りたいの?」

「え……? 織部さんは、帰りたく、ないの?」


 それがまるでおかしい事の様に言う、二ノ宮君。

 そもそも、何で私は彼にそんな事を聞いたのだ?

 ばっ、と、三島さんの顔も見てみると、彼女も、私の言葉を不思議な物であるかの様に見ていた。

 彼女も、帰りたいと願って居るのだろう。

 でも、帰るという願いを、私は何故……疑って居るのだ?

 

「わ……私……は…………。」


 おかしいな。 昨日は帰りたいって思って居た筈なのに……。

 今は、帰りたく…………無い。

 ぞわり、と、身体に悪寒が走る。

 私は……なんで……帰りたく無いんだ?


 ◇


 ああ。 ダメだ。 これを思い出してはダメだ。 認識してはダメだ。

 ずっと仕舞っておかなくてはダメだ。 人に言ってはダメだ。

 知られてはダメだ。 ダメだ。 ダメだ。 ダメだ――――――――


 けれど、そうやって何重に自分の意志で壁を作ったとしても、私の記憶という名の器の底から既に沸き上がり始めている泥水は、私の意志の壁をぬるりと容易く乗り越えて、記憶の断片を私の意識に広げて行く。

 その断片は、音、言葉、匂い、感触、視覚、痛み、をそれぞれ有しており、本来バラバラに仕舞って置かなくてはならない物の筈。

 しかし今、その断片は重なり合い、遂に本来の形を取り戻し、記憶という名の悪夢を呼び覚ましてしまう。

 まるで古い映画を見ているかの様に、脳裏で再生され始める私の本当の記憶。


『私のお母さんは、頑張り屋さん―――――――お弁当屋さんで、いつも頑張って―――――――お仕事をしています。

 私には――――もうお父さんは居ないけれども、そんなお母さんを――――お父さんの代わりに私が手伝ってあげたいと思います。』


 ザザッ。 ザザッ。 と、ノイズ混じりに再生される私の記録。

 小学校低学年の時、自分で書いた作文を、皆の前で読み上げている記憶から再生された。

 その作文は先生に褒められ、おともだちにも褒められ、そして母にも泣いて喜ばれた。

 その時から、私は疑いも無く、母を助ける事は善行であると信じ、また、その母を助けるという行為を実際に続け、やがてそれが自分が生きる意味と言えるまでに昇華させた。


 宿題をやり、予習をし、お部屋の掃除をして、トイレ掃除をして、お風呂掃除をする。

 小学生にしては異常と言える行動ではあるがそれは全て母に褒めて貰いたいが為。


『お母さん、何かして欲しい事なぁい?』


 更に、時間が空けば、しつこいと言われても、そうやって私はお母さんに聞き続けた。

 今なら分かるが、私は母の時間を随分と食い潰して居たと思う。 お母さんがテレビを見ていても、メールを打って居ても、パソコンを触って居ても、私が最優先なのだから、と、母に纏わり付いていたのだから。


『もう十分よ。 有難う、加奈。』


 ようやく母の嫌気が差してそう言われるまで、私は日常的に母に尽くして居た。

 対して、私の『お願い』を早く終わらせようと考えた母は、大丈夫だ、もう十分だ、と、頃合いを見て私に言って来た。

 しかし、早めに出すお母さんの『十分だ』を、私は認めなかったのだ。

 就寝前の九時近くまで私は母に纏わり付き、何かして欲しい事が無いかを強請り、ようやく聞き出した『十分』という言葉と、自分が何をしたかを比べて満足すると、ようやく私は至福を覚え、眠りに付くという日常を繰り返して居た。

  

 親と子の一つの形として、それは良い話で終わる場合もある。

 多くの場合が多分そうだと思う。

 親と子の、愛情の物語、と。

 だが、否定的に思い出して居る記憶の様に、私と母の場合――――そういった単純な物語にはならなかった。

 

 ◇


 母の名前は、みのりという。

 織部穂おりべみのり。 それが母の名前で、織部の姓は、死んだ父の物を受け継いだ物だ。

 お母さんは、私のお母さんで、お父さんの、お嫁さん。

 それが不変であると信じきって居た私。


 私は、母が母であるという存在以外に、違う存在となり得る可能性がある事を考えた事は無かった。

 私のお母さんは、いつまでも、いつまでも、私のお母さんだ、と。


 私が、母が女として再出発出来る可能性の芽を摘んでしまうまで、私はそう、信じて、居た。


 摘んでしまったのは結果だけれど、それに対しては少し言い訳をしたい。

 誰があの事に、嫌悪感を感じないで居られるだろうか。

 小学校四年生の夏の終わり頃、たまたま先生の都合で授業が早く終わり、予定より一時間早く帰った時の事だった。

 家で一人で溜まった洗濯物や、家事をして、余った時間でたまの休日で身体を休めて居る筈のお母さんは薄暗い部屋の中で…………私の知らない男の人と、身体を重ねていた。

 そんな自分の母親の情事を見て、嫌悪感を感じない子供が居るだろうか。

 まだ33という年齢の母は、世間的一般的には『女』の年齢であり、母は組み敷かれて居た相手の男の人とやり直す、と、そういう類の約束を交わして居て、後は私に話すだけ、というタイミングだった。

 だった、が、私はその情事を目撃してしまい――――


 ――――全てを拒絶した。


 真っ黒な、どろどろな、ねっとりとした、醜悪な塊を、お母さんから感じた。

 白くて、ふわふわで、暖かくて、優しい私のお母さんは、その時私の目前には居なかった。

 

 自分にそんな事が出来るなんて思って居なかった程に、私は荒れ狂った。

 まず、背中に背負ったランドセルを降ろすと、裸になってお母さんを組み敷いて居た男を殴りつけた。 何かを叫びながら殴りつけた。 『お母さんを離せ!』だっただろうか。 どの様な台詞を吐いたのかは覚えて居ないが、支離滅裂な事を言いながら殴りつけたのだけは覚えて居る。

 さて、何故支離滅裂になっているのかと判断出来たかと言うと、私は理解していたのだ。 自分の母親が、男と何をしていたのかを。

 10歳という年齢で、それを知っているのが早熟であるか否かは分からないが、ただ、私は知っていたのだ。 その行為が、男と女が、愛を確かめ合う行為で、同時に、子供を作る行為だという事を。

 だから、私の攻撃は男だけでなく、私よりも男を取ったという嫉妬心からか、自分の母親にも向けられた。 ランドセルを買ってくれた相手を、我武者羅にそのランドセルで殴り付けた。

 10歳の子供の力とは言え、何度も、何度も、重くて硬い道具で殴りつけられたならば、笑い事では済まされまい。 それとも、攻撃が母へと向かった事に対して、男として怒ったのかもしれない。

 遂に男は、憤慨した。

 私の両の手は遂に男の右手――――硬くて、太くて、じっとりと汗で湿った手に掴まれ、今まで味わった事が無い圧倒的な暴力によって部屋の隅へと私の身体は放り投げられた。

 手首が取れてしまいそうに締め付けられるような感覚の後、腕が私自身の肩を引っ張り、肩の筋肉が千切れそうな痛みを覚える。 その痛みとほぼ同時に、土足で踏みしめていた畳から両足が浮いたと思った刹那――――背中に衝撃が走り、べきゃり、と、何かが折れる音がした。

 幸い自分の背骨が折れる音では無かったが、押入れの襖には私の背中の形に穴が開き、その穴を中心に襖はくの字に折れて居た。 背中への衝撃に、一瞬息が止まった私だが、その壊れた襖がクッションになったお陰で大事には至らなかったらしい。

 もしもっと固い物に身体を叩き付けられて居たら、私は生きて居なかったと思う。

 必死で咳き込む様にして呼吸を取り戻し、這い蹲って男から逃げようとしたのを覚えて居る。

 恐怖で小便を垂れ流しながら逃げた私は、玄関のすぐ隣にある、台所の方へと向かった。


 ――――遂に、私は記憶の扉を開く。


 何重にも鍵を掛けた筈の、その記憶の扉を。

 きっと、前の世界にそのまま居たら、絶対に思い出す事をしてはならなかった、その記憶を。


 日常的に刃物を使っている人物が、それを凶器に使う事が多いのは、それが一番使い慣れたモノだから、だと、私の経験からは言える。

 『猫さんのほうちょう』と、呼んで居た、包丁の柄に猫のイラストが掘られて居た私の包丁は、台所のシンクの下の扉の内側の刃物入れの、一番手前に入っていた。

 その包丁は、私の手によって武器となり、男へと向かった。

 もし、授業が普通通り終わって居たら、私は母と男の情事を知らず、いつか話される告白に、頷いて居たかもしれない。

 もし、私がランドセルで攻撃せず、男が私を襖に投げ飛ばさければ、私は危機感を覚える事は無かった。

 もし、『猫さんのほうちょう』がいつものところに入って居なければ、私はそれを掴む事は無かった。

 もし、男が裸で無かったならば、私の手から繰り出された攻撃は、服が僅かながらの防御となり、簡単な切り傷で済んだのかもしれない。


 部屋の中で、真っ黒な、水が飛び散った。

 締め切られたカーテンの中、本来赤い筈の液体は、そう見えた。

 その時、私は何度あの男を刺したのか、覚えて居ない。

 その何度目かに、母は私を羽交い締めにして、男から遠ざけた。

 それでも、私はそれに抗って、母の腕も斬った。

 母の『あっ! つっ!』という悲鳴が上がり、そしてようやく、我に帰った私。

 真っ黒に染まった凶器が、同じく真っ黒に染まった自分の手の中にあった。

 震える指先は、その凶器を床に落とす。

 さくり、と、畳の上にその凶器は刺さり、部屋の中に沈黙が訪れ、むわりと血の匂いが漂い始めた。

 胃の奥から酸っぱい物が込み上げて来て、私はそれを畳の上にぶち撒ける。

 母は、腕を切られた痛みのせいか、それとも惨状のせいか、咽び泣いて居た。


 ◇


 結果的に、男の命は助かった。 全治二ヶ月という大怪我と引き換えに。

 警察は、動かなかった。 被害者である男は、私に刺されたとは言わなかったのと、警察もある程度察して居て、大事にはしなかったのだと思う。

 男の心情としては、唯一の家族である母親の情事を目撃し、混乱してランドセルで叩いて来た小学生の手首を、掴んで投げ飛ばしたという負い目もあったのかもしれないが、多分同情が大きな割合を占めて居たのだと思う。

 結局、男は卑劣でも無ければ、鬼畜でも無い、普通の人間だったと、包帯だらけの身体で松葉杖を付いて堂々と謝りに来た時に分かった。

 母の居ない時に部屋を訪れて来た男に、『ヒィ!』という悲鳴を上げた私に、必死に頭を下げて居た彼。

 小学生の私に、45度に曲げた腰で、今だ自由にならない両手を必死に伸ばし、私を怖がらせない様に距離を置いて、謝った。

 お母さんの事を黙っていた事、ごめんね、と。 あの時、吃驚させてごめんね、と。 そして、それでも、加奈ちゃんの新しいお父さんに、自分はなれないかな? と、男は私に尋ねた。

 その男に、私は震える声で一言だけ言った。


『もう、二度と私に顔を見せないで。』


 と。

 

 ◇


 それから、母と私の日常は戻り、私はまたお母さんと二人で助け合って行きて行けるのだと思って居た。

 けれど、母が失った相手は、私が想像する以上に、彼女にとって大きい存在だった様だ。

 母だけならともかく、私も含めて受け入れてくれる男は、そこら辺に転がって居るのだろうか?


 ある雨の日の朝、アパートの扉から出て傘を広げるのと同時に私に呟いたお母さんの言葉が頭に響く。


『……加奈があんな事しなきゃ、もう仕事に行かなくても良かったかもしれないのになぁ。』


 つい言ってしまった、と、すぐに口を抑えた母だったが、その時、私は女としての彼女の未来を、完全に潰してしまっていたのだと理解した。

 大人の事情は当時の私には良く分からなかったが、後になって酒に酔った母にさり気なく聞いて見たならば、溜息と共に、再婚したならもう仕事をしなくても良い。 家の事や、子供の世話、つまり私の世話をして幸せな家庭を築いて欲しい、と、言われて居たのだそうだ。

 多分、相手の男にはそれなりの稼ぎか、彼女がもう働かなくても良い財産なりがあったのだろう。

 結局、私は母の未来だけでは無く、自分の可能性をも、消してしまったのだった。

 真実を知った時、勿論私は後悔した。

 もし、あの時、男の返事に頷いて居たならば、謝罪を受け入れて居たならば、私も母も、その時とは違う人生を歩んで居たかもしれないのだから。

 

 ◇


 その時の、私。 そして、母。

 表面上では仲の良い親子なのだが、あの事件があって以降、一度割れてしまった硝子の様に、完全に元の状態に戻る事は無かった。

 まるで、割れた窓にセロハンテープを貼って取り繕った様な関係とでも言えば良いのだろうか。

 母は、私が望んだ結果だ、と、言わんばかりに全ての家事を私に一手に任せ、私はそれが、自分がした事に対する贖罪だと受け入れ、自分の罪と共にあの事件を――――無かった事にした。


 母の仕事がある日の私の日課は、まず最初にまだ寝ている母の為に、朝御飯を食卓に用意するという事から始まる。 そして、母と一緒に自分も食事を摂り、食器の洗い物をし、ゴミ捨てをして、学校に向かう。

 学校から家に帰ると、まず、冷蔵庫を開ける。 その日の夕食と、次の日の朝に足りない食材を買う為だ。

 二週間の間、同じ献立を作る事は許されない。 朝晩、メインのおかずに、小鉢を一つと、漬物。 これが絶対のルールだった。 何故そんなルールが出来たのかは覚えて居ないが、母がそう決めたという事だけは事実として覚えて居る。

 

 夕食を作る為、いつも小銭しか入っていない財布を持って、近所のスーパーに買い出しに向かう。

 例えば、二人分の肉を買うとすれば、その時点で400円、野菜が300円、漬物が200円となり、その時点で900円以上財布に入っていなければ、私は色々と頭を使わなくてはならない。

 しかも、同時に朝の献立も考えねばならず、こういった計算事も、私の仕事の一つとして母から与えられた。

 食費をギリギリにまで切り詰めて、生活していた事の厳しさを、母は私に突き付けたかったのだろうか。

 それは今でも分からないが、私はなんとか頑張って、それをこなして来た。

 

 買い出しの後は、母が食べ終えてシンクに放置して行った朝食時の食器を洗い、私と母の洗濯物を洗う為、アパートの玄関の隣にある洗濯機に持って行く。

 こまめに洗わないと、干す場所が無いのと、洗濯機が古くて、あまり物を入れすぎると回らなくなるので、これもほぼ毎日行う。 一応二槽式ではなく、一槽式の全自動洗濯機なのは救いだったが。

 そして、洗濯機が回って居る間、夕食の下ごしらえをし、お米を研いで炊飯ジャーのタイマーをセットし、洗濯機が止まった後に、洗濯物を部屋干しする。

 本当は外に干したいのだが、アパートの窓は通りから丸見えなので、女二人のその洗濯物をベランダの物干し竿に干してはいけないルールになっているのだ。

 寝室にある部屋干し用の竿に洗濯物を掛けた後、食べ物の匂いが移らない様に、寝室と食事用のテーブルのある部屋との仕切り用の襖を締める。

 これで大体五時半となる。 自分のお腹は空いているが、まだ私は作り始めてはならない。

 母が帰宅する七時きっかりに、夕食を提供せねばならないからだ。

 その空いている時間で、最初はトイレ掃除と風呂掃除をしていたが、自分の時間が無くなってしまうので、私は自分がトイレやお風呂を使うついでに掃除をする事を学んだ。

 お風呂は食事を食べた後、だいたい一時間後くらいに入るのが日課で、先にお母さんが入り、私は後に入り、そのついでに掃除をする。

 トイレの掃除は、夜寝る前にトイレに行った時に同時に行う。

 ちなみに宿題は既に学校でやり終えて居るので、学業は一切家庭に持って来ない事になっていた。


 五年生の頃は、家事に不慣れで時間を余す事は無かったが、六年生になってからは時間が空く様になった。 その空いている時間で、パソコンで動画を見たりしていたが、六年生の後半くらいからネットゲームにはまって居た。 自分が現実逃避出来る、至福の時間である。

 何がきっかけだったのかは覚えて居ないが、ブラウザーのバナーをクリックして、トップページを見て、何気に面白そうだなぁ、とでも思って始めたのだろう。

 私は専らソロでそのゲームを遊んで居たが、ひょんな事からあるグループに誘われて、そのグループに在籍していた時が一番楽しかった。 ゲームによっては色々そのグループの読み方は違うだろうが、大体クランとかギルドとか呼ぶグループだ。

 そのグループの仲間達は、決まった時間にログインして、またログアウトする私を勝手に主婦だと思い込んで居たらしく、私のあだ名は『奥さん』だった。

 大人扱いされるのは嬉しいが、あまり年上に見られるのも実は内心ちょっと嫌だった私は、ある日、ちょっと口を滑らせてしまった。 自分が女子小学生である事をチャットで喋ってしまったのだ。

 それからというもの、ある社会人のメンバーからしつこくリアルで会わないかと誘われて、下心丸出しのその申し出に嫌気が差してグループを抜けるまでは、そのネットゲームを結構楽しんで居た。

 グループを抜けても、自分の集めていた装備が名残惜しくて、同じサーバーに違う名前で同じ職種のキャラクターを作り、またLV1からやり直して、メインのキャラクターに追い付いて、自分のバカらしさに呆れて本当に辞めたくらいはそのゲームに時間を費やしたと思う。


 その現実逃避の為のゲームは、その様にしてもうやらなくなってしまった。

 結局、何が一番馬鹿らしかったかと言えば、実はサブキャラがメインのキャラクターに追い付いても、一人ソロだと、冒険に行ける場所が限られて居たからだ。

 毎日毎日、同じ場所で狩りをして、数%の経験値を稼ぐ毎日と、リスクはあるが誰かと一緒に遊ぶ喜びを比べれば、当然後者の方が楽しかったのである。

 そう考えると、グループのメンバーにしつこく言い寄られても、軽く冗談でも言って返して、メインのキャラクターで遊んで居れば、ずっと楽しめたのかもしれないが、当時の私は子供過ぎて、そんな返しも浮かばなかったのだ。 気付いた時には、もう後の祭りである。

 引退宣言してグループを抜けた私は、寂しくてのこのこと舞い戻る程、厚顔無恥じゃないなんて無いと意地を張って居たが……本当は戻る勇気が無かっただけなのかもしれない。


 私の母の話に戻ろう。 夕食を七時に食べると、ビールや焼酎を飲み出す彼女。

 その時、大体彼女の視線の中に私は居ない。 ただテレビを見たり、友人と携帯でメールをしたり、自分のしたい事をしたい様にする。

 その母に、私が何か言う事など有り得ない。

 私は、10歳のあの時まで、母の時間を独り占めにしていて、尚且つ、母の人生を台無しにしたという負い目があったからだ。

 私は寝室の方にノートパソコンを持って行って、ネットゲームを辞める前はそれを、辞めて以降は、一人で動画を見たり、ネットを見たりして過ごして居た。


 休日はどう過ごして居るのかと言うと、家事をすれば私は自由なのだが、先立つ物が無いので、特別な事は何一つ出来ない。

 家に居ると、暖房費などの光熱費が掛かるので、ノートパソコンを無料のインターネットが使える街の公共施設に自分で作ったおにぎりと一緒に持って行き、無料のお茶お水で喉を潤しながら、夕食の準備の時間まで過ごす。

 その施設には図書もあったので、パソコンで音楽を聞きながら本も読めた。

 またあの子か、と、言われるくらいその施設に居たので、その施設で働いていたおばちゃんからこっそりお菓子を貰ったりもした。

 自宅以外では、あの場所が一番安らげる場所だったのかもしれない。


 さて、母の休日はどうかと言えば、休みの前の日の夜は、必ず家に居ない。

 一応夕食は一緒に摂り、それから母は、派手な化粧をして出掛けて行く。

 彼女が、どこで何をしているのか、私は聞かないし、母も何も言わない。

 ただ、お酒臭い息で朝方近くに帰って来て、それから昼頃まで寝ている事が多い。

  

 そういった生活を重ねて居て、果たしてお母さんが、私を愛して居ないのかと言えば、そうではない。

 彼女が通常私に抱いて居た感情は、一つの愛の形として、一応確立されていたのではないかと私は思う。

 例えば、私の長い髪に執着心があり、毎朝ブラシで梳かしてくれ、三つ編みにしてくれるのは母だ。

 何でも、容姿は殆ど母に似たのだが、髪の毛の質と肌の色は父親に似たらしい。 だから、私の長い髪を愛でるのは、既に天国に居る父を思い出しての事なのかもしれない。

 他には、結果的に母は私を捨ててあの男の所に行かなかった事だ。

 私は、自分がした事の顛末に、母を失う可能性も考えて居た。

 そして、その事に怯えて泣いていた。 その私を慰めたのは他でも無い母であり、泣き疲れて寝てしまい、起きた時には母の膝の上だった。

 表面上、母と娘の確執など何も見えなかったと思う。

 当の本人の私が、今の今まで、母との関係に疑問を抱く事さえしなかったのだから。

 

 だから、私とお母さんの関係は、端から見れば仲睦ましく見えた事だろう。

 働き者の母と、家事を一手にこなす娘が、手を取り合って生きている、と。


 だが、その光景を、違う世界に来てしまった私が、自分の罪を思い出し、改めて自分達を内側から見てみると、歪みが分かる。

 私は母を、母として見てはいるが、同時に女の個として見ていて、母も私の事を娘として見ていながら、同じ女の個として見ていたのだと思う。

 10歳の時の事件を境に、私と母の親子の物語は、歪んでしまっていたのだ。

 

 何故その歪んだ物語が続いたのかは、単純な話だ。 それ以外に選択肢は無かったからである。

 女としてお互いを見て居ながらも、親子として生きる以外に、選択肢は無かったのだ。

 だから、外からは互いが仲良く見える様に、絶妙なバランスを保ちながら、生きて来たのだ。


 仲良く山奥の温泉に行って、道に迷った話は、本当の話だ。

 その様に本当に仲良くしている様に見えたのだろうし、私も母と仲が良いんだと、思い込む様にして居た。

 その温泉に行くきっかけが、母がその前の日に、私がボイラーの温度を間違えて高く設定しすぎてしまい、そのボイラーを壊してしまった私を『折檻しすぎたから』、という少し歪んだ物だとしても、思い出の補正はボイラーが壊れた事と、温泉に行って道に迷って仲良く泣いた事だけに焦点を合わせ、それ以外はぼやかしてしまう。


 母が私に絶対に触れて欲しく無い事に、私は触れない。

 休みの前の日の夜に、母が何をしているのか、どこに行って居るのか、私は絶対に触れない。

 あの男に会っていた可能性もあるし、他の男と酒を飲んで遊んで居たのかもしれない。 だが、私は絶対にそれに触れない。

 洗濯する時に、母の下着がどの様な形で汚れているのが判ろうが、私は絶対に触れない。


 母は、私が仕出かした事件に関して、一切口に出さない。

 そして、私が約束通り家事をこなして居る限り、一切手を上げないし、口にも出さない。

 私の趣味にも、お金を掛けない限り口を出さない。

 学校でイジメられようが、成績が悪かろうが、それは私の責任なので、私は助けを求めないし、その徴候が母から見えても、彼女は口に出さない。


 そうやって、お互いに見えないフリをして、仲の良い親子になる。

 それは演技だと言えば演技だろうし、事実だと言えば事実だ。

 

 さて、その全て踏まえて、もう一度自分に聞いてみようか。


『私は……あの歪んだ母子おやこの世界に、本当に帰りたいの?』


 と。


 ◇


 また、プツン、と、記憶が途切れる。

 額から垂れた冷や汗が頬に伝う。


「織部さん…………顔色悪いけど大丈夫? もしかして、望みって……聞いたら……拙かった?」

「ううん。 大丈夫。 何の問題も無いよ。」


 二ノ宮君が、不安そうな顔で私の顔を覗き込み、私は手を横に振りながら答えた。


「大丈夫って……そういう顔、してないと思いますけど。」


 そんな事を言う三島さん。


「いや……うん。 どうかな……参ったな。 はは。」


 空返事をして、頬を指先で掻く私。

 だって……本当に参った。


「わ、私は……………。」


 お、おかしいな。 泣くつもりなんて無い。

 それなのに、止めどない涙が、俯いた私の両目から溢れて行ってしまうのだ。

 その涙の滴は眼鏡に付いてしまい、私はその眼鏡を取って、折りたたむと、左手に握りしめ、空いた右手で、溢れる涙を拭い始める。


 先ほどまで自分の記憶を辿ったのは、今、私が結論を出すために必要な工程だったのだろう。

 同級生を何人も殺して、尚且つ更に人を餌と称して殺そうとしている今の私。

 その私が、自分の記憶を辿って、二ノ宮君の質問対して出した答えとは――――


「私は……お母さんの所には…………帰りたく無いみたい。」


 そう、二人の前で、俯きながらもはっきりと言う私。

 その言葉を口にしたこの時、私は、母子の子と言う定義から抜け出して、個として羽を広げて生きる事を選択したのだと自分で理解した。

 あの世界にそのまま居たとしたら、絶対に辿り着けなかった場所が、今、ここに在り、私はそれを選ぶ。

 そう自分が選択出来た事は……何故か嬉しくて……でも、同時に悲しかった。


 ――――そうか。 私は羽を広げて飛び立ったけれど、逆に、私には、もう、帰る場所は無いんだ。


 その喪失感と、虚無感が、涙を呼び寄せるのか、と、理解する私。


「でも、そう決めたら、何だか空っぽになっちゃった……。」


 空虚な世界に、白い地図を持った私が居る。

 右を見ても、左を見ても、何も無い。

 地図にも、何も書かれて居ない。

 

 その空虚な世界に居る私は今、何を求めて居るのだろうか。

 答えは――――。

 私は顔を上げて、二ノ宮君と、三島さんの顔を見つめた。

 すすり泣いて居た私が、いきなり真剣な顔を見せたせいか、二人は唖然とする。

 だけど、私は二人を見つめ続けた。


 どれだけ長い間一緒に居たかが、人との結び付きを計る尺度だと思っている人は居る。

 例えば家族という繋がりがあり、それを暖めて居る人の様に。

 私はそれを悪いとは思わないし、その愛を確かめられるからこそ、繋がりを保てるのだろう。


 だけど、私には、そういうモノはもう無い。

 だから、今度は自分から、見つけるしか無い。

 もっと大切なモノを。 もっと欲しいモノを。


 私には、夢があった。

 例えば、世界が崩壊する寸前の、その世界を助けて、英雄になるという夢が。

 世界で誰よりも私を愛してくれる王子様に、見つけて貰うという夢が。

 その果て無き夢の根本には、私は誰かに必要とされて…………その誰かの為になりたい。

 そういう願望が根付いて居た。

 私は、誰かの為に生きて、その誰かの為に、死にたい。

 誰かの、特別な人に……なりたい。


 私の真っ白な地図には、その願望が思いとして描き出され、自分の涙で滲む二人の姿を見ながら、その二人の名前を特別な人という欄に記した。


 たった二日間。 それが、この世界で私と二ノ宮君と三島さんが共に過ごした来た時間だ。

 でも、その二日間で、怒り、悲しみ、そして喜び、憎しみ、全てを分かち合って生き延びて来た二人の仲間が、私には一番…………。


「私の欲しいモノ、ね。 わかったよ。」

「織部……さん……。」


 私は、欲しいモノが何かまではその時言わなかった。

 けれど、三島さんは、私の右手を優しく握って、自分の方に私を引き寄せながら、私の名を呼んでくれた。

 私は三島さんの座っているベッドの上、彼女の隣に、手を握りながら腰を下ろした。

 二ノ宮君も私達の側に来ると、戸惑いながらも、何も言わずに私の横に拳二つ分の距離を開けて腰を下ろし、自身の右手を一瞬見つめた後、その手を私に伸ばし、背中を優しく撫でた。

 びくり、と、身体が震えるが、下心など微塵も感じない、むしろ優しさを感じる彼の手の温もり、その心地よさに私は身を委ねると、再び涙が込み上げて来る。

 でも、今回の涙は、何かを失った悲しい涙じゃなかった。

 二人の優しさを、心の中に、感じる事が出来たから。

 私は、自分が欲しかったモノが、既にこの手の中にある事が、分かったから。


『大切な友達が戦うって言うんだよ。 私も、手を取り合って一緒に戦いたい。』


 自分でそう言った様に、もう既に答えは出ていたのだ。

 それが私の、欲しい物の答えで、もう手元にある物だったのだ。


「私……ね。 きっと仲間が欲しかったんだ。 私は一人じゃないよって言ってくれる仲間が。」

「そっか……。」

「同じモノを追いかけて、同じモノから逃げて、同じ敵に抗う、仲間。 そういうの、最高じゃない?」


 私が紡いだ言葉は、飾らない私の本心だった。 その言葉に、優しく相槌を打ってくれる二ノ宮君。


「あの……さ。 織部さんは、自分の過去に何があったのか、僕達に聞いて欲しい?」


 そして、察しの良い二ノ宮君は、真っ直ぐな目を私に向けて、そう聞いてきた。


「ううん。 話しても話さなくてもきっと一緒だから、言わない。」


 覚悟を決めた私は、涙ながらも微笑みながら答えた。


「そっか。 一緒か。」

「うん。 大事なのはもう、ここにあるから。 前の世界の事を考えるのはもう、いいや。」

「なら、織部さんの願いはどうするんですか?」


 いつの間にか、三島さんも涙を流して居た。 その彼女の言葉は、願いが勿体無いから使わないのかという意味では無く、その願いを使う必要が無い私に、一つくらい我侭を言ってみたらどうかと言う意味なのだろう。

 

「もう、叶っちゃったからなぁ。 何かの予備として一個取って置くとか。」

「……駅前の、プティモンドって店、知ってます?」

「知らないよ。 そんなお洒落っぽい名前の店なんて行った事無いから。」

「そこのパフェが美味しいんですよ。 織部さんは一年間、その店の物を食べ放題って願って、毎日行きましょうよ。 私は、この足を治して、歩いて行く。 例えば……そういう願いは、どうですか?」


 三島さんの声が、私の心にじんわりと染みわたる。

 止めどない涙が溢れ、私は三島さんの手を握りしめ、


「もし、もし……この先、前の世界に帰れたとして、二人共……それでも私の仲間で居てくれるの?」


 二ノ宮君と彼女を交互に見ながら、やがて懇願する様に、目を伏せる私。


「織部さん……自分の事を僕達が裏切らないと、証明して欲しいんだね。 なら、少し狡い事を言おうか。」


 私の泣きながらの訴えに対し、『裏切る』という心に痛い言葉も使って、叱咤する様に私に言い返す二ノ宮君。

 顔を上げて彼の顔を見ると、彼の目にも涙が滲んで居るのが見えた。


「僕達は、共犯者だよ。 しかも、お互いが実行犯だ。 そんな殺人犯が、互いを裏切れる訳が無いじゃないか。 そして、お互いを監視する必要がある、でしょ?」

「そういう言い方は狡いな。 ほんと……。」

「素直な言い方をしても信じない癖に。」


 それもそうなので、一旦押し黙るが、悔しいので、三島さんの手を握りしめて居た右手を離して、二ノ宮君のおでこにデコピンをする私。


「いった!」


 ペツン! と、物凄い音を響かせて私のデコピンが放たれた。 筋力が上がっているせいか、威力がもの凄い事になっているらしい。


「ご、ごめん! そんなに強くするつもりじゃなかったの!」

「……良いよ。 狡い事言った僕が悪いからね。」


 はは、と、痛みからなのか、それとも違う何かなのか、目に涙を浮かべながら笑って言う二ノ宮君。


「……そうだ。 指切りしませんか? 子供の頃みたいに、約束して、指切りするんです。」


 と、右手の小指を差し出す三島さん。

 私は、差し出した彼女の小指に、自分の右手の小指を震えながら近づけて行った。

 と、私の左手に、二ノ宮君の左手の小指が差し出された。

 私は自分が左手に持っている眼鏡をどうしようか、と、手を見ると、二ノ宮君が空いた右手で、私の赤縁の眼鏡をそっと持ってくれた。


「どんな約束に……するの?」


 両手の小指は、それぞれ三島さんと二ノ宮君に繋がれ、もう拭えなくなった涙は、私の頬を伝い、タイトローブのスカートに落ちて行く。


「三人は一人のために、一人は三人のために、とか?」

「なんかありきたり。 で、かっこわるい。」


 二ノ宮君の少し震えて言った言葉に、泣き笑いを浮かべながら、なんかかっこ悪いと言う私。


「ひどっ!」


 怒った様な口調で言うが、口元は笑っている二ノ宮君。


「良い傾向ですよ。 そういう我侭を、もっと織部さんは言うべきだと思うんです。」

「私は十分我侭だと思うけどな。」 

「私から見たら、全然、です。」

「そうかな。」

「そうですよ。」


 そんな事無いと思うんだけどな。 そう言うならそうなのだろうか。


「……そうだ。 死が三人を分かつまで、互いを支えあい、慈しみ合うというのはどうでしょう?」


 なら、何処らへんまでが我侭なのかと考えて居たら、三島さんがそんな事を言い出した。


「なにそれ。 結婚式?」


 三島さんの提案に、悔し紛れにツッコミを入れる私に、力強さは無い。

 だって、本当は、そんな事を言われて、嬉しくて、涙が止まらないのだから。

 

「良いですよ。 足が治ったら、私が織部さんのお嫁さんになってあげます。」

「なんか壮大な話になってきたんだけど。」

「だって、織部さんが結婚式とか言うものですから……。」

「まあ、でも、丁度良いや。 あっちの世界に帰っても、多分帰る家が無いんだよね……私。」

「えっ……。」


 驚く様な表情を一瞬見せる三島さんだが、先程の私の様子を思い出してか、


「なら、うちに来ますか?」


 そう笑いながら言ってくれる彼女。 


「三島さん。 ふつつか者ですが、宜しくお願いします。」

「って、嫁同士の設定でどうするんですか。」

「えっと、じゃあ僕は……。」

「二ノ宮君も私のお嫁さんにしてあげるよ。」

「えっ。」

「それとも、二人の旦那になりたいの? 流石殺人鬼。 言う事も違うよね。」

「ふっ……あははははっ!! それ、織部さんが言うんだ? ……良いよ、じゃあ、僕もお嫁さんで。」


 小憎らしい言い方に加え、皮肉まで言う私に、まるで褒める様な口調で言う二ノ宮君。

 二人は、私の小指をきゅっと握り、


「指切りげんまん。」

「嘘ついたら――――。」


 と、歌い始めた。 まるで本当に小さい子供がするみたいに、小指を握り、上下に振りながら。


「身体を爆発さーせる。 はい、指切った。」


 その私の言葉に、呆気にとられる二人。 が、すぐに笑い出す。

 最後は茶化さないと、なんだか私は自分が二人に負けた気になったのだ。

 ちなみに魔法で人を爆発させられるのはこの中では私だけなので、私が一方的に罰を与える約束をした事になる。


「「指切った。」」


 でも、二人はそう言って、私と指切りを交わしたのだった。


「でも、嘘ついても、ほんとにはやらないよ? 多分死ぬし。」

「それ言ったらダメじゃないですか! 台無しですよ!」

「だって子供みたいで恥ずかしい。」


 私が言った後、三人で笑い合う。

 これで、私の話はお仕舞い。

 母子の物語は、娘が勝手に巣立ち、母は私が居ない世界で新しい人生を多分歩む、という結末で終わった。

 これからは、私と仲間が紡ぐ、生き残る為、願いを叶える為の物語。

 だからもう、私は後ろを振り向く事は無いだろう。

 

「あのLV50とかの人達も、いつかは殺すんですね。」


 微笑みながら、物騒な事を言う三島さん。

 でも、私達の間では、そんな物騒な事も、もう当たり前の行動なのだ。 私も二ノ宮君も、顔色一つ変えずに、話を続ける。


「勝手に三人にまで減ってくれてたら共闘もアリかな?」


 と、二ノ宮君。 私は、


「無いなぁ。 あの人達とは絶対に、殺しあう事になると思うよ。」


 手を顔の前で横に振って、有り得ないと伝える。


「まあ、そうか。 そうだよね。」

「そうそう。 そいつらもいつかは殺して、私達だけで、願いを叶えようよ。」


 心の中に湧き上がる闘志。 そして私は、まるで燃える様な眼差しを二人に向けた。

 二ノ宮君に、冷たい殺気が宿り、三島さんの冷酷な微笑が浮かぶ。

 そうだ。 この三人なら、きっと……やれる筈だ。


「……織部さんがそんなにやる気になったっていうのは、相手にとって一番最悪な事だろうね。」

「またそんな私にプレッシャー与える様な事言う。 結構メンタル弱いんだよ? 私。」

「織部さんのメンタルが弱いんだったら、誰が精神的に強いって言うんですか……。」


 そう言われても困るのだが、否定する言葉は出ないので、苦笑いを返す私だった。

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