36話 デボラという少女4

 



 私は長い夢の中で夢を見る。

 二重に夢を見るなんて、よく考えたらおかしな話ね。


 でも幼い私は夢でも見ないと、辛い現実に耐えられなかった。

 自分は幸せであると錯覚しないと、とても生きてはいけなかった。


 それは私の願望が作り出した夢。

 眠っている間だけ現れる、素敵で心躍る幻。


『デボラ姉様、ウィルフォード学園の入学、おめでとう!』

『デボラ、お前は我が家の誇りだ。子爵家を継ぐために、しっかり勉強してくるんだぞ』

『お友達ができたら、お茶会に招待しましょう。ミュミエール洋菓子店のケーキも用意しておくわね』

『はい、叔父様、叔母様、私頑張ります!』


 夢の中の私は憧れのウィルフォードの制服を着て、嬉しそうにくるくる踊っている。

 セシルはいつものように愛らしく、叔父様は私を殴ることもない。

 いつも事態を傍観しているだけの叔母様も、私に対しとても優しい。


 それはデボラ=マーティソンが欲しがっていた、理想の家族の姿だ。

 むしろ叔父やセシルに虐げられていた生活のほうが夢。


 ――そうよ、あれは悪夢。

 実際のことじゃないんだわ。


 夢の中で私はそう自分を慰めていた。

 幸せな生活を妄想しているだけで、心の傷が癒えるような気がした。



 あの火傷事件をきっかけにして、私は自分の記憶を改ざんする術を覚えたのだと思う。



 でも誰がそんな私を責められるだろう?

 誰がそんな私をあざ笑えるだろう?


 だって誰も私を助けてはくれなかった。

 だって誰も私を振り向いてはくれなかった。


 だから私は自分を守るために、心に重い鎧を着せただけ。

 自分自身に対して、嘘をついただけ。


 そう、私は何も……悪くない……。








「姉様……、デボラ姉様、ごめんなさいっ! どうか僕を許して。本当はこんなことするつもりじゃなかったんだ。僕はデボラ姉様が大好きなんだ。だからどうか僕を許して……っ!」

「……」


 長い長い昏睡状態から目覚めた時、最初に視界に入ってきたのはセシルのみっともない泣き顔だった。

 背中に大火傷を負った私は、奇跡的に命を取り留めた。さすがに私に死なれては困るのか、叔父も色々手を尽くしてくれたようだ。私をこんな目に遭わせた当人であるセシルは、表面上はとても反省しているようだった。


「セ、シル……」

「よかった、もう大丈夫だね、姉様。僕これからいい子になるよ。もう絶対姉様を傷つけたりしない!」

「うん……」


 私は枕元で泣きじゃくるセシルに手を伸ばし、柔らかな金の髪を優しく撫でた。

 もちろんこんなこと言っているけれど、セシルがまたすぐに元のセシルに戻ってしまうことは、わかっていた。

 

 おそらくこの子の本質は、一生変わらない。

 自分だけが可愛くて、自分だけが大事。

 そのための踏み台として、これからも私を虐げ続けるだろう。


 でも大丈夫。どんなに辛くても耐えられるわ。

 だってこれは夢だもの。

 いたずらな神様が私に見せる、残酷な夢。


 そう自分に言い聞かせながら、私はまたゆっくりと目を閉じる。


 まるで深くて冷たい水底にいるようだ。

 コールタールのように濁った泥水は私の体に染み込み、全ての自由を奪っていく。

 粘り気のある泥水はやがて決して溶けない固い氷となり、私の心を覆い隠していった。

 

 




 そうして時は過ぎていく。


 ゆっくりと――あるいは光の速さで。


 私は17歳になっていた。


 だけど叔父一家と暮らし始めてからの9年間、マーティソン子爵家から一歩も外に出ることはなく。


 ――囚われている。


 ずっと、ずっと、囚われている。


 だけど私をこの地に留めるのは、本当は叔父一家ではなく。


 全てを諦めて立ち止まってしまった……私自身かもしれなかった。















「さあさ、今日は沢山お客様がお見えになりますからね。粗相がないようにしてくださいね!」

「はい、奥様」

「……はい、叔母様」


 近年、マーティソン家では、度々茶会やパーティーが開かれるようになった。

 叔父が子爵を名乗るようになってからしばらくして、我が子爵家の家計は傾き、生活が苦しい時期があった。そのため使用人の数が減り、私は料理、洗濯、掃除、ありとあらゆる雑用を押し付けられるようになったから、よく覚えている。

 おそらくは叔父は自分の道楽のために、父が私のために残していた資産さえ使い果たしてしまったのだろう。普通ならば破産して自滅するのが関の山だ。


 でもある時から、マーティソン家の家計は持ち直した。

 それがなぜかはよく知らない。

 元々社交術だけには秀でていた叔父が、投資か何かに成功したのかもしれない。


 とにもかくにも。

 そんなわけでマーティソン家は子爵の家柄ながら、そこそこ栄えていた。

 一カ月に一度は親しい貴族や友人を招いてパーティーを開くのも、もはや定番になっていた。

 

「あ、デボラ。あなたはいいわ。メインホールには近寄らず、別棟の裏で洗濯でもしててちょうだい」

「……はい、叔母様……」


 パーティーが開かれる際は、ほぼ間違いなく私は本宅から遠ざけられた。

 本来この家の娘である私にウロチョロされては、色々都合が悪かったのだろう。

 歯向かってもいいことは何一つないので、私はそっと裏手へと出る。


「はぁ……」


 その日はどんよりとした曇り空で、洗濯には全く向いていなかった。

 だけど言いつけられた仕事をきちんとこなさないと、それを理由にまた叔父の暴力が始まってしまう。

 私は仕方なく井戸の端にしゃがみ込み、籠に入れられた大量の洗濯物を素手で洗い始めた。この異世界に、洗濯機なんて便利なものはない。地道に一つ一つ石鹸で洗い流していくしかないのだ。


観自在かんじーざい菩薩ぼーさつ 行深ぎょうじん般若はんにゃ波羅蜜はーらーみー多時たーじー……」


 私は黙々と洗濯しながら、心を無にしてお経を唱える。

 そう……遠い昔、誰かが言っていたような気がするのだ。

 

『辛くて悲しいことがあっても、お経を唱えれば心が落ち着くよ』

『××も、ひいばあちゃんと一緒に読経してみる?』

『おやおや、××はお経を覚えるのが早いね。ご褒美におやつをあげようね』


 それはこの世界にはありえない優しい記憶。

 あまりに朧気すぎて、いつもの夢の続きかと疑ってしまうほどに儚く……そして何よりも尊い思い出。

 

 どこの誰なのかわからなくても、ひ孫として可愛がられた記憶の断片は、孤独だった私を慰めてくれた。


 だから辛くない。

 ああ、とうとうぽつぽつと雨が降ってきたわね。

 でも辛くない。


 私はただ延々とお経を唱え、無表情で洗濯するだけの機械と化していた。

 すると、その時――



「――なぜ洗濯を続ける?」

「……?」



 雨が降り出したのに……と言う声が、突然背後から聞こえた。

 私はのろのろと振り返り、刹那、目を見開く。

 


 ――王子様だ。

 童話に登場するような素敵な王子様が、なぜか目の前にいた。



 私に話しかけてきたその人は、真っ白なロココ調スーツに身を包み、眩い金髪を風になびかせていた。繊細な刺繍が施された衣装も見事で、襟や袖口を飾るフリルが上品さを醸し出している。

 何より顔がいい。

 この王子様、超絶イケメンだ。

 しかも瞳の色まで、お日様のような金色。

 まさに頭のてっぺんから爪先まで、キラキラと輝く眩しい存在だった。


「どうした。やはりこの格好、おかしいか?」

「……っ」


 王子様は両手を広げ、自分の服装をまじまじと見つめている。

 私は慌ててかぶりを振った。


 いいえ、とてもよくお似合いです。


 そう言いたいのに、声帯が竦んで、うまく声を出せない。

 よくよく考えたら叔父一家や使用人以外と直接話すなんて、何年ぶりのことだろう?

 血の気のなかった私の肌はわずかに紅潮し、人らしい体温が戻ってきた。


「いや、おかしい。おかしいんだ、この格好は。くそ、ルイの奴め。よりにもよってなぜこんな派手で目立つ服を……」

「……ルイ?」

「いや、何でもない。こっちの話だ」


 何やらぶつぶつと独り言を言う王子様は、自分の衣装がお気に召さない様子だ。

 だけどその仏頂面さえかっこいい。

 私はあんぐりと口を開け、背の高い王子様を見上げた。


 おそらくこの方は、今日パーティーにいらしたお客様のうちの一人なのだろう。

 トイレにでも行こうとして、道に迷ったのかしら?

 私は慌てて立ち上がり、濡れた手をエプロンで拭きながら本宅を指さした。


「お客様、メインホールはあちらです。ここは使用人が住む別棟です」

「お前は参加しないのか?」

「……え?」

「お前はパーティーに参加しないのか? この家の娘なのだろう?」

「――」


 しかもなぜか王子様は、私がマーティソン家の令嬢だと知っていた。

 思いがけない質問に、私の体が震えだす。


「ど、どうして……」

「タチアナという名前に、聞き覚えはあるか?」

「……」

「タチアナがおまえのことを心配している。頼まれて、様子を見に来てはみた、が……」


 王子様の口からタチアナの名が出て、幼い頃の記憶が蘇った。

 ああ、タチアナ、懐かしい。

 9年前に別れたきりだけど、あなたは私のことを忘れていなかったのね。

 今にして思えば、あなたが早い段階でこの家から逃げ出せて本当に良かったと思う。

 私が胸に手を当てながら感慨に耽っていると、王子様は、ふぅ、と重いため息をついた。


「予想以上に……ひどいな」

「………」

「タチアナに何か伝言はあるか? あるなら必ず伝えるが」

「………」


 王子様の嬉しい申し出に、私の凍っていた心がほんの少し温かくなったような気がした。

 だけどすぐに笑みは消える。

 タチアナに伝えたいことなんて何もない。

 私に関わったら、またろくでもない目に遭ってしまうだろうから。

 私はぎゅっと目を閉じ、静かに首を横に振った。

 お心遣いだけいただきます。タチアナにどうぞよろしくお伝え下さいませ……と。

 けれど王子様は、私の返答に納得がいかないようだった。


「お前は本当にそれでいいのか?」

「………」

「お前は本当に今のままでいいのか?」

「………」


 二度、同じ質問を畳みかけられる。


 いいわけなんてない。

 だけどもうだいぶ昔に私は諦めてしまったのだ。

 この運命に抗うことも。

 この暮らしから逃げ出すことも。


 それにこれは夢だもの。

 夜になれば神様がまた私を幸せな現実の世界へと戻してくれる。

 だからきっと……大丈夫。

 大丈夫よ、デボラ。


「これで……いいのです」

「………」

「今のままで……いいのです。私は幸せです。叔父や弟達に愛されて、大事にされて」

「……………」


 この頃の私は長く虐待を受けていたせいで、かなり精神を病んでいたのだと思う。

 辛い現実を夢だと思い込み、私を愛してくれる夢の中の叔父やセシルこそが本物だと信じ切っていた。


 いわゆる記憶の置換と言うやつだ。

 自分の心を守ろうとする防御本能が、私の認知を激しく歪めていた。

 そしてそんな私の矛盾を王子様は容赦なく指摘する。


「ならばなぜ泣いている?」

「え?」

「気づいてないのか。さっきからお前はずっと……泣いている」

「――」


 泣いている? 私が?

 それは涙ではなく、空から降ってくる雨粒の間違いでしょう。

 そう反論しようとするけれど、なぜか私の唇は空回る。

 

 しとしとと雨が降る中、視界が一気に白くぼやけていった。

 呼吸が荒くなって、鼻の奥がつんとする。

 熱いものが急に喉元からせり上がり、私はそれを堪えるために深く俯いた。


「うっ……、う、ぅうう…っ」

「……」

「……っ、うっ。うううう~~……っ!」

「………」


 突然決壊した涙の堰は、私の負の感情を溢れさせた。

 深く潜り込んだ地盤を跳ね上げようとする大地のように、累積し続けた悲しみは鮮烈な叫びとなって迸ってしまう。


「う、あ……あぁぁぁーーーっ!!」

「……っ」


 私は泣いた。

 雨の中、声をあげて激しく泣いた。

 それは号泣という表現がふさわしいほどの泣きっぷり。

 


 そんな私の姿を、王子様は雨に濡れながら、じっと……。

 ただじっと、静かに見守っていた。





 

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