【閑話】その男、朴念仁につき。【ノアレ視点】
「……全くひどいもんですよ」
声に怒りを滲ませて、瑞花宮の責任者――ノアレは、隣に立つカインに向かって呟いた。
ノアレの雇い主であるカインは、このところ瑞花宮に通い詰めだ。妻のデボラがマルクに攫われ、不覚にもグレイス・コピーの急性中毒になってしまったのが主な原因。
現在デボラは、ノアレの監視下にいる。おそらく過去の悪夢に魘されているのだろう。ここ数日意識は戻らず、時折苦しそうに唸ったり、呼吸が荒くなったり、危険で不安定な状態が続いていた。
「何がひどいと?」
「………」
対するカインは苦しむデボラを見下ろしながらも、相変わらずの無表情だ。
……うわー、この人、相変わらず肝心な時に表情筋が死んでるわー……。
ノアレは生暖かい目で、カインを見つめる。
実際、ノアレに対するカインはいつもこんなものだ。
無表情・無感動、自分の興味のあること以外には無関心。
実際領主としては優秀だが、明らかに人間味に欠けている。
それがカイン=キール=デボビッチと言う男の唯一の欠点だと、ノアレは常日頃から冷静に分析していた。
だがここ最近、そんなカインに大きな変化が見られるようになった。
その最たる理由は言わずもがな、デボラの存在だ。
いつも通り形ばかりの妻を迎えたのか……と思いきや、意外にもカインはデボラがらみで様々な表情を見せるようになったのだ。
ノアレには、それがとても衝撃的だった。
ぶっちゃけこの頑固な男は生涯変わらず、どうせ新しい妻と離婚した後は、また独身を貫くのだろうと思っていた。
それほどまでに、この男は女心がわからない朴念仁――
いや、恋愛不適合者である……と言うのがノアレの見立てだった。
それがどうだろう。
デボラがアストレーにやってきた初日、カインは玄関ホールで大笑いしたという。
………え? 本当に? そもそも笑えたの? あの男。
不躾ながら、情報を初めて耳にした時のノアレの率直な感想が、それである。
そして瑞花宮に次々と流れてくる奇妙な噂を耳にして、俄かに期待した。
もしかしたらデボラと言う少女は今までとは違い、デボビッチ家に新しい風を興す特別な存在になるのではないか……と。
「それで何がひどいって? マルクのしたことか」
おっと、閑話休題。
カインに睨まれて、ノアレは自分の思考を軌道修正した。
確かにマルクとか言う小悪党がしたこともひどいと思う。だが医者として許せないことがもう一つ。
「デボラ様の背中の火傷の痕」
「あ?」
「ひどいもんです。かなりの古傷のようですが、この傷を負った時の痛みは相当だったでしょうね。大の大人でもまず耐えられません。これほどの深手を負いながら、むしろよく生き延びられたものです」
「………」
ノアレの言葉を聞いて、無表情だったカインに変化が起きた。
きつく眉宇を寄せ、悔しそうに下唇を噛む。
本人は無意識だろうが、なかなか面白い反応だ。デボラの置かれていた環境に感情が揺れるということは、それだけ彼女の心に寄り添おうとしているという裏返しでもあるのだから。
「確かデボラ様は子爵家で長い間、虐待されていたとか」
「……ああ」
「この火傷を負わせた加害者は、血も涙もない奴ですね。まぁ、できればそんな奴のことは、一生忘れたままのほうが幸せだったでしょうけど……」
「………」
それでもおそらくは、思い出してしまっているのだろう、とノアレは予測を立てている。
今までグレイス・コピーに侵された患者を何人も診てきたが、記憶の改ざん、もしくは消失などはよくある症例だ。
逆に薬の効果で、思い出したくない記憶がより鮮明に蘇ってしまう例もある。
実はデボラ本人と顔を合わせる前から、ノアレは彼女を取り巻く複雑な事情をカインから聞かされていた。
難儀なことだ……とノアレは、デボラに深く同情している。
それでもやはり辛い過去は、デボラ本人が乗り越えていくしかない。無論、医者としてできることがあれば、いくらでも協力するつもりでいる。
まぁ、デボラからは誤解を受けて一方的に嫌われているような気もするが……。
その誤解は、彼女が元気になってからゆっくり解いていくことにしよう。
「……いや、ちょっと待て」
「はい?」
その時ふとカインの声色が重くなり、ノアレはまたギロリと睨みつけられた。
一体何事かと身構えると、カインからは予測不能な質問が返ってくる。
「お前、見たのか?」
「何をです?」
「デボラの背中」
「……」
――今さら何言ってんの、この人。
ノアレは脱力した。
首から下げていた聴診器を手に取り、ペタペタとこれ見よがしにカインの額に押し付ける。
「おい、俺は真面目に訊いている」
「私だって真面目にあなたの頭がおかしくなっていないか診ているんですよ。お忘れですか、私は医者です」
「……」
「必要とあらば、デボラ様の背中の具合だって診ますよ」
「やっぱり見たのか」
――デボラの生肌を。
刹那、カインを取り巻く空気が変わり、ピリッと静電気のようなものが発生した。
ノアレは思う。
うわ~、めんどくさい~。
超めんどくさい~、この男~。
医者にまで嫉妬するくらいなら、いい加減自分の気持ちを自覚して下さいよ……と。
「とりあえずその殺気をどうにかして下さい。デボラ様の着替えや身の回りの世話は、フィオナが買って出てくれてます」
「………」
「それでなくてもデボラ様を慕う者は多いんですよ。誰かさんと違って人徳ありますからね。イルマをはじめとするメイド達が交代で看病して下さってます」
「失礼な。俺にだって人徳ぐらい……ある。……多分」
フィオナやイルマの名前が出て安心したのか、カインの眼光がやや和らいだ。
ノアレは軽く肩をすくめ、子供に言い含めるような口調で話しだす。
「これじゃ先が思いやられますね。将来、デボラ様が妊娠・出産なさる時も、医者相手にいちいち嫉妬なさいますか」
「嫉妬なんかしていない」
「してるじゃないですか」
「していない。それとデボラが妊娠・出産する予定もない。まさかお前が孕ませるつもりじゃないだろうな」
「あのね、私だってあなたに殺されたくはないです。謹んでその役目は辞退しますよ!」
はぁぁぁーーーっ、ホント、めんどくさっ!!
ノアレはまた一つ、盛大にため息をついた。
少なくともデボビッチ家に仕える男で、デボラを恋愛対象としてみている人間は一人もいないだろう。
そうだ、誰だって自分の命は惜しい。
自分の主が(無意識に)惚れ込んでいる奥方に、どうして手が出せようか。
(そもそも私はデボラ様に性別自体間違われていますからね……。まぁこんな女顔ですし仕方ないですけど。デボラ様、早く起きてください。この朴念仁の相手は、私には無理です……)
デボラが知ったら卒倒しそうな事実を、ノアレはぼそりと呟く。
この一連の会話で、ノアレの中のカインの評価は、また地の底まで落ちたのだった。
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