第35話 デボラという少女3
――サイコパス。
叔父様とセシルを表現するとするなら、まさにこの言葉がうってつけだと思う。
良心が著しく欠如していて、罪悪感が皆無。
他者に冷淡で共感しないくせに、口は達者で対外的には魅力的。
平然と嘘をつき、人を傷つけるのも厭わない。
サイコパス気質は遺伝するというから、叔父様とセシルはその典型だろう。
もしも私が前世の記憶をはっきり持ったまま、この親子に対峙していたら、結果はもっと違っていたかもしれない。
何せ私は情報過多な日本で生まれた、オタク系女子高生(以上の女子※推定)なのだから。
乙女ゲーでも散々攻略してきたわ、サイコパス系キャラなんて。
けれどあいにく幼い私は、前世の記憶なんてほとんど覚えていなかったし、覚えていたとしても、すでに叔父の術中にはまってしまっていたため、抵抗することはやはり不可能だっただろう。
気づけば私は叔父達にとって召使い……いやそれ以下の存在となり下がっていた。
いわばサンドバックだ。
気に食わないことがあった時に、いくらでも好きなだけ殴れる人形のようなもの。
その始まりがいつだったのかなんて覚えていない。
記憶が途切れてしまうほど昔にそれは始まり、そして自然に常習化していったのだった。
「ご、ごめんなさい、叔父様! 許して……許してください!」
「なんて悪い子なんだ、デボラ。ああ、私は悲しい。おまえをこんな風に罰しなければならないことが悲しくてたまらないよ……!」
私は毎日、なんやかんや理由を付けられ叔父から殴られたり、蹴られたりの暴力を受けていた。
私の体中には常に青痣ができ、その痣が薄くなったらまた新しい痣ができる。
――そんな毎日の繰り返し。
叔父は私のどこが憎かったんだろうか?
この血?
本来ならばマーティソン家を継ぐはずだった私の存在が、そこまで疎ましかったんだろうか?
今となってはわからない。
だけど亡きおじい様から勘当され、放逐されるだけの気質が、叔父にはあった。
「ああ、デボラごめんよ。でもお前がかわいいのは本当なんだ。おまえのおかげで、私達家族はみんな幸せに暮らせるのだよ」
「し、幸せ……」
叔父は気が済むまで私を殴った後、最後は必ず優しくて甘い言葉をかけてくれた。
DVモラハラ男の手口そのものだ。
ひどい暴力を受けているのに最後の優しさが嬉しくて、私は微笑む。
「明日からはちゃんといい子にする。だから嫌いにならないで」――と。
「もちろんお前を嫌いになんかならないさ。おまえがここにいてくれるだけでいいんだ」
「……」
実際、叔父の私に対する扱いは、苛烈な虐待だったと思う。
屋敷に仕える使用人達は常に短期で入れ替わり、今となっては誰も私がこの家の娘だったと知る人はいない。ただ家畜以下の、ご主人様が好きにできる奴隷のような存在だと認識されていた。
その中の唯一の救いと言えば、性的虐待は全く受けなかったこと。
叔父様はいつまでも若く美しいリーザ叔母様にぞっこんだったし、社交界でも相当にモテていたようだから、そっち方面の不満や欲求はなかったのだろう。
まぁ、だからと言って、好きなだけ子供を殴っていい理由にはならないけれど。
そうして私の心の成長は止まったまま、いくつもの季節が無情にも流れていった。
私に対する暴力で一番ひどかったのは、やはりあの事件だ。
私は11歳。セシルは8歳。
叔父様がマーティソン家を継いでから、3年たったある日のこと。
「じゃーん、お母様、見て、見て!」
「まぁ、とってもお似合いよ、セシル。この春からあなたもウィルフォード学園の一員ね」
セシルは真新しい制服に身を包み、ひどく上機嫌だった。私があれほど憧れていたウィルフォード学園の入学が決まり、春から通うことになったのだ。
もちろん私は学園に通うどころではなく、毎日下働き同然の日々を送っていた。
この頃にはマーティソン家の家計はかなり傾き、使用人の数も激減していた。それを補うのが、ただ働きさせられる私と言う存在だったのだ。
「どう、デボラお姉さま、似合う?」
「ええ、とってもよく似合ってるわ、セシル……」
お針子に仮縫いしてもらいながら、セシルは制服を私に見せびらかした。
あの時、私の胸に宿った感情は、単純な嫉妬と羨望だったように思う。
――どうして私が通えないのに、セシルは当たり前のようにウィルフォードに通えるの?
――私だって、お父様やお母さまが生きていたら、今頃は……。
子爵家の令嬢として残っていた私のプライドが、この時ほんの少し再燃した。
だからと言って、面と向かってセシルや叔父様に反抗する勇気などなかったけれど。
そう、私にできたことと言えば――ほんの少しの悪戯ぐらい。
最初はほんの軽い気持ち、だったのだ。
その日の夕暮れ。
掃除や洗濯などの下働きを終えた私は、こっそりセシルの部屋に忍び込んだ。
お目当ては、真新しいウィルフォードの制服。
一度でいい。あの憧れの制服を着てみたい。
それはとても子供らしい、許されて当然の願いだったように思う。
「わぁ……っ!」
私はトルソーにかけられていた男の子用のアカデミックガウンを、恐る恐る手に取った。
つるつるの生地の手触りが心地よく、それを羽織るだけでまるで本当のウィルフォードの生徒になれたような気がした。
素敵。素敵。素敵……!
貴族の子女らしいドレスは全て取り上げられ、メイド服よりもさらにひどい作業着しか与えられていなかった当時の私にとって、そのガウンは天の羽衣のようなものだった。
着ているだけで夢心地にしてくれる究極の魔法アイテム!
だからつい声を出してはしゃいでしまったのも、無理はない。
「何してるんだっ!?」
「!」
だけど甘い夢はあっという間に醒めた。
怒鳴り声のしたほうを振り返れば、セシルが全身を震わせながら立っている。
私は慌ててガウンを脱ぎ、トルソーに戻した。
「ご、ごめんね、セシル。一度でいいから、ウィルフォードの制服、着てみたかったの……」
「それは僕のものだ! 汚い手で触るな!」
だけど私が制服に触れたことが、どうしても許せなかったのだろう。セシルは怒りの形相で近づくと、トルソーにかけたばかりのアカデミック・ガウンを床に投げつけ、それを足で踏みにじりだした。
「セシル、やめて! 服が汚れちゃうよ!!」
「こんなのもういらない! また新しいものを作ってもらう! 全部デボラ姉様のせいだ!!」
セシルは狂ったようにガウンを足で踏みつけ、決して私を許そうとしなかった。
私はセシルを押さえつけるような形で抱きしめ、ごめんね、ごめんねと何度も謝る。セシルはそんな私をポカポカと殴りつけた。でも叔父様の拳に比べれば、セシルの暴力なんてかわいいもの。それがまた癪に障ったのか、セシルは逆に私の手を取って、猛烈な勢いで歩き出した。
「来い!」
「セ、セシル?」
セシルの逆鱗に触れてしまった私は、言われるがまま後をついていくしかなかった。
そして着いた先は――厨房。晩餐の用意をしていた料理人達も、突然現れたセシルと私に驚いて、作業の手を止めた。
「デボラ姉様が悪いんだ!」
「っ! や、やめて、セシルッ!!」
次の瞬間、セシルは近くの竈にかけられていた鍋の取っ手に手をかけた。すでにスープは出来上がる寸前なのか、ぐつぐつと煮えたぎっている。
セシルが何をしようとしてるのか咄嗟にわかって、私は逃げを打とうとした。
慌てて踵を返すものの――
「くらえっ!」
「きゃあぁぁぁぁ―――っ!!」
「ひっ!」
「ぐっ!」
私だけでなく、料理人達からも苦しげな悲鳴が上がった。
刹那、私の背中に灼熱が広がる。
それまで受けていた暴力も霞むほどの激痛が、すぐさま私を襲った。
「いやぁぁぁーーっ、あぁぁぁぁーーーっ!!」
私は絶叫し、床の上でのたうち回った。
熱湯を浴びせられた背中からはもうもうと湯気が立ち、服越しでも私の肌が焼けていく。白い肌はすぐに真っ赤に腫れ、目には白い膜のようなものがかかり、私は半分意識を失いかけた。
「一体何の騒ぎだ!?」
私の悲鳴は食堂で待機していたらしい叔父夫婦にまで届いたようで、バタバタと忙しい足音が聞こえる。
それからしばらくの沈黙――
いや、絶句。
厨房の床で倒れている私と、それをせいせいしたとばかりに見下ろすセシルを見て、さすがの叔父様も顔色を失っていた。
「これはどういうことだ、セシル!」
「デボラ姉様が悪いんだ! 僕の大事な制服を勝手に着たりするから!」
「まぁ、セシル……!」
一気に厨房は、修羅場と化した。
さすがにここまでひどい火傷を負った私を放っておくわけにもいかず、
「誰か医者を……! いや、普通の医者はだめだ。金で雇える口の堅い闇医者を探して来い……!」
と、叔父様は使用人達に慌てて指示を出す。
叔母様はおいおいと泣き崩れ、興奮冷めやらぬセシルを力の限り抱きしめていた。
その後のことはよく……覚えていない。私はこの火傷のせいで、一週間以上危篤の状態にあったから。
ああ、そうだ……。
そうだったのね。
やっと思い出した……。
私の背中に残る火傷の痕は、火事の時に負ったものじゃない。
子供の頃――セシルに……。
セシルに熱湯をかけられて、できた傷だった。
(バカだなぁ、私。なんでこんな大切なこと忘れてたんだろ……)
長い……長い過去の夢を見ながら、私は暗闇の中で自嘲する。
自分の心を守るために形成されていた『嘘』と言う名の堅い殻が、ぱらぱらと細かい粒子になって剥がれていった。
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