第34話 デボラという少女2




 まず大きな変化が起きたのは、叔父様達がマーティソン家にやってきてから1か月後のことだった。


「お嬢様、突然ですが私は本日限りでお暇を頂きます。長い間、お世話になりました」

「……タチアナ?」


 それはタチアナの突然の辞職から始まった。

 目に涙を浮かべ、全身を小刻みに震わせながら深々と頭を下げるタチアナ。

 セシルと一緒におやつを食べていた私は、最初タチアナの言っていることが理解できなかった。

 なぜなら私は当たり前のように、タチアナは大人になるまでずっと自分のそばにいてくれると信じていたから。なのに今日限りでサヨナラです、明日からはいません……なんて言われても、混乱するのは当たり前だ。


「なんで? タチアナ、嘘でしょ? 嘘だと言って。タチアナはずっとこのお屋敷で働くんでしょう?」

「デ、デボラ様……」


 タチアナは辛そうに口元を押さえ、必死に嗚咽を噛み殺していた。

 まるでそれは何かに脅えるような……。

 肉食獣を前にした小動物のような取り乱し様だった。


「本当に申し訳ございません、お嬢様。でも私にも大事な家族が……」

「家族? 家族がどうしたの?」

「そ、それは……」


 タチアナはハッと視線を上げ、だが次の瞬間にはまた口を固く閉ざした。

 私は気づかなかった。この時背後にいるセシルが、どんな表情をしていたかなんて。


「姉様、やめたいっていうんだからやめさせてあげればいいよ。タチアナにはこの前孫が生まれたばかりだって、お父様が言ってた!」

「え? そうなの?」

「タチアナ、今度僕にも赤ちゃん見せてね! 姉様と一緒に遊びに行くよ!」

「は、はい……」


 なぜか会話の主導権はセシルが握ってしまい、私はいつの間にかタチアナの辞職を容認する形になっていた。

 確かに当時、タチアナには娘夫婦がいた。婿はマーティソン領の役場で働いており、とても真面目なんですよと嬉しげに語っていたこともある。ならばその娘達と一緒に暮らすことになったのだろうか? 幼い私に想像できるのは、所詮その程度だった。


「お嬢様、申し訳ありません。本当に申し訳ありません……っ」

「………」


 タチアナは最後まで泣き通しで、ずっと私に向かって頭を下げていた。

 今にして思えば、タチアナはきっと家族を盾に脅されていたのだろう。でなければ突然の辞職なんてするはずがない。


 だけど真実を知る機会も得られないまま、私は一番の味方を失うことになってしまった。




 








 タチアナがマーティソン家を去った後、少しずつだけど屋敷内に変化が現れた。

 まずは使用人達の入れ替わりだ。一人、また一人……と顔見知りだった使用人達が辞めていく。


 メイドのメアリはどうしたの?

 庭師のホルストはどこに行っちゃったの?

 執事のカルバランが、いつのまにかいなくなってるのだけど?

 

 そう叔父に尋ねれば、必ずこんな答えが返ってくる。


 メアリは命令違反をしたので、解雇したよ。

 大丈夫。次の働き口は見つけてあげたから、今はそっちで楽しく暮らしているさ。


 庭師のキースはぎっくり腰になったので、病院に入院させたよ。

 大丈夫。もうかなり年寄だったから、あとは静かに余生を過ごすだろうね。


 執事のカルバランは自分から辞めていったよ。全く不忠者にもほどがある。

 あんな薄情な使用人のことはすぐに忘れなさい。

 この私がもっと優秀な執事を見つけてきたからね。




 叔父は笑っていた。

 いつも優しそうに、穏やかに、私の頭を撫でて笑っていた。


 けれど今まで私を取り巻いていた人々がいなくなり、日に日に私は屋敷の中で孤立していく。

 それが叔父の狙いだったと気づいたのは、それから少し後のこと。










「叔父様、私ウィルフォードに通いたいです」

「――」


 叔父様達と一緒に暮らすようになってから2カ月が過ぎた頃。

 私は晩餐の途中、思い切って叔父様にお願いしてみた。

 

 多くの貴族の子息・子女が通う名門・ウィルフォード学園。王都に居を構える貴族の子供ならば、誰もが通いたいと思う学校だ。

 これまでは乳母のタチアナから、文字の読み書きや計算の仕方など、最低限の知識は教わってきた。でもそのタチアナがいなくなってから、私の教育は止まっている。

 幸いウィルフォードの入学は8歳から認められていた。タチアナがいなくなり、新しく雇われた使用人達も私に対してよそよそしい。毎日何をするでもなく、退屈な時間を過ごしていた私にとって、学園に通うことはとても魅力的なアイデアに思えた。


「お父様とお母様が亡くなる前、仰っていたのです。デボラも今年からはウィルフォードに通いなさい。爵位が低いことは気にしなくていいよ。そのための資金も用意してあるからね……って」

「なるほど、兄上が……ね」


 亡き父と母の遺言を私は笑顔で叔父に伝えた。

 この時私は、すんなり学園に通わせてもらえるものだとばかり思っていた。

 だって私はいずれマーティソン子爵家を継ぐ身なのだから。


「デボラ、ちょっとこっちに来なさい」

「………? はい」


 叔父はフォークをテーブルに置き、手招きで私を呼んだ。

 私は何の疑いもなく、言われるまま席を立ち、叔父に近づく。

 セシルやリーザ叔母様も、いつも通りに笑顔で食事中だ。

 いつもと変わらない。

 何も変わらない、晩餐のはずだった。

 


 ――パシャリッ!


 

「きゃあっ!」



 不意に顔の中心が熱くなって、私は反射的に目を閉じた。

 片手で顔を押さえ、ふらふらとよろけながら手探りでテーブルの位置を探る。

 何が起きたのか、とっさにはわからなかった。

 ただ鼻の中に液体が入り、呼吸が苦しくなった。ゴホゴホ咳き込み、私は呆然と叔父を見返す。


「お、叔父様……?」

「……」


 叔父の右手には、空のカップが握られていた。その中に入っていたスープを、投げつけられたのだ。おかげで私は頭からびしょ濡れになり、鼻の頭は熱湯のせいでヒリヒリと赤く腫れ上がった。


「デボラ、お前がいけないのだよ。突然わがままを言い出すから」

「……え?」

「これはお仕置きだ。言うことを利かない子を更生させるための……ね」

「――」


 叔父は再び微笑むと、自分が首に巻いていたナプキンを外し、私の髪を丁寧に拭き始めた。自分でスープを投げつけたくせに、その後始末をする手つきは、まるで大事な宝物を慈しむかのよう。


「よくお聞き。実は兄上が亡くなった後にわかったのだが、我がマーティソン家には多額の借金があるのだよ」

「借金?」


 叔父の突然の蛮行にショックを受けた私は、この時ほとんどまともに話を聞けてなかったと思う。

 よく考えれば子供でも分かりそうなことだ。真面目一辺倒だった父が、借金などするはずがないということに。


 だけど叔父は、人を騙すことにかけては天才的だった。

 まず声がいい。

 前世で女子高生だった頃、私は推し声優の声質について調べたことがある。推し声優の声は「1/fゆらぎ」と言う特別な周波数を持つ究極のモテボイスだった。

 モテボイスの条件。それは高すぎず、低すぎず落ち着いたトーンで響く声であること。そして吐息のようなハスキーな声質でもあること。

 

 叔父がこのモテボイスの条件に、バッチリ該当する。


 それに加えて話術も巧みで、マーティソン家の血筋のため容姿もそこそこよかった。いわば叔父は、究極の詐欺師の才能を秘めていたのだ。

 いや、それは決して叔父だけではなく。


「まぁまぁ、食べ物を無駄にしたら神の罰が当たりますわよ、あなた」

「姉様、頭からびっしょり。みっともなぁい。キャハハハ」


 私にスープが投げつけられるという異常な光景を前にしても、セシルも叔母様も特に叔父様を非難するわけでなく、あくまで通常運転だった。

 てっきり庇ってもらえると思っていた私は、何が起きているのかわからなくて立ち竦む。

 再び叔父に視線を戻せば、いつもの優しい笑顔が目の前にあった。


「だからね、よくお聞き、デボラ、残念だがしばらくウィルフォードには通えないんだ。おまえの両親が作った借金を返さなくてはいけないからね」

「ご、ごめんな、さい……」

「わかってくれればそれでいいんだ。叔父さんこそごめんよ。デボラがいい子にしていれば、二度とこんなことはしないからね?」

「………」


 叔父の言葉は、まるで本物の魔術師のよう。

 幼い私は目の前の叔父やセシル達に嫌われたくなくて、ただ「うん」と頷き返すことしかできなかった。

 

 でもそれも仕方ないと思う。

 無償の愛を捧げてくれる両親を亡くし、私にとって叔父一家は最後の肉親ともいえる存在だったのだ。

 だから幼い私は思った。


 これからなるべくいい子にしていよう。

 叔父様やセシルに嫌われないように注意しよう。

 そうしたらきっとみんな、私のことを愛してくれる。

 お父様とお母様の代わりに、私と仲良く暮らしてくれる。


 そう思いだした時点で、もらえる愛情なんてすでに歪んでいたと言うのに――

 









 それからまたしばらくして、屋敷の中に異変が起こった。


 お父様とお母様が亡くなった後、そのまま保持されていた部屋を叔父夫婦が使うことになったのだ。

 そこはいわばマーティソン家の主の部屋だ。本来ならば、家を継ぐ者しか住まうことは許されない。

 だが使用人達を総入れ替えし、私を完全に孤立させることに成功した叔父一家は、とうとう本性をさらけ出した。


「デボラ、お前が成人するまでの間、爵位が空位になるのを避けるため、取り急ぎ私がマーティソン子爵を名乗ることにしたよ。なに、もちろんデボラが大人になった時、この爵位はお返しする。だがそれまでは私がお前の名代だ。……いいね?」

「はい、叔父様……」


 叔父は私からマーティソン家の継承権を奪い、正式にマーティソン子爵として家を継いでしまった。

 さらにこの頃、私は今まで使っていた部屋を追い出され、使用人達が住む別棟の一室へと移動させられた。

 私の部屋に残っていた両親との思い出の数々も、今まで身に着けていたドレスも、アクセサリーも、全て借金を返すためだから……という名目で取り上げられた。



 そう、この頃、私は完全に虐げられモードに突入したのだ。

 叔父一家はシンデレラで言うところの継母と同じ立ち位置のキャラだった。



 唯一シンデレラと違ったのは、虐げられる立場の私がまだ子供で、叔父一家をまだ信じていたこと。加害者側である叔父一家が、より狡猾であったこと。


「デボラお姉さま、大好き♪ 僕のためなら何でもしてくれるよね?」

「もちろんよ、セシル。あなたは私にとって大事な弟だもの」


 両親が亡くなってから半年が過ぎると、私はマーティソン家の令嬢ではなく、完全に召使扱いされるようになっていた。

 もちろんマーティソン家のお坊ちゃまはセシルだ。セシルは椅子に座ったまま、私の前に足を投げ出す。


「さっき散歩に行った時、靴が汚れちゃった。拭いて?」

「仕方ないわね。セシルはやんちゃなんだから……」


 使用人と同じ服を着た私は、仕方なくセシルの前に片膝をついた。ポケットから布を取り出し、セシルの靴についた泥を拭きとろうとする。

 だけど――



「……生意気」

「いたっ!」


 

 セシルの足の爪先が、私の鼻の付け根に勢いよく当たった。

 容赦ない蹴りを受けて、私の鼻の穴からはぽたぽたと鮮血が滴り落ちる。

 

「デボラお姉さま、なんでそんな偉そうなの? 僕はこの家の大事な跡取りだよ?」

「……、ご、ごめんなさい……」


 私が手で鼻血を押さえながら謝ると、セシルはにっこりと満足そうに微笑んだ。

 それは私が愛してやまない、本物の天使のような眩しい笑顔。


「わかってくれればいいんだ。だから僕、デボラお姉さまがだぁぃ好き♪」


 ――『大好き』


 セシルお得意の口癖は私にとって最大の呪いの言葉であり、この身を縛る強固な鎖となった。





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