2章 解明編

第33話 デボラという少女1



 デボラ=マーティソンと言う名の少女は、生まれた時は幸運な少女だった。

 何せ身分階級が存在する世界で曲がりなりにも貴族として生を受け、類稀なる美貌まで授かっていたのだから。

 この頃は悪女フラグなど立っているはずもなく、お父様やお母様も娘の私にデレデレだった……と、乳母のタチアナが教えてくれた。


 お嬢様は我がマーティソン家の宝です……と。


 そう、私はごくごくどこにでもいる普通の貴族の子女だったのだ。

 いや、タチアナ曰く、やはり少し変わったところはあったようだけど。

 例えば、


「どうしてうちにはエアコンがないの? 夏になると暑いよー」


 とか。


「今日は推しのライブに行く夢を見たー」


 とか。


 幼い頃の私は、中途半端に前世のことを口に出すことがあったらしい。

 ただ前世そのものがどういうものなのかという知識さえなかったため、周りからは想像力が豊かな子供と言うことで片づけられていたようだ。

 

 ともあれ。

 凡庸だけど、真面目に領地・マーティソン領を治める父。

 そんな父をおっとりと支えていた母。


 温かな両親と使用人達に囲まれて、デボラという少女は幸せだった。

 少なくとも8歳になるまでは。






 全ての運命が変わってしまったのは、あまりにも早すぎる両親の死がきっかけだった。

 父と母は共だって領地の視察に出掛けた際、崖から馬車ごと落ちる事故に遭い、あっけなく亡くなってしまった。

 なぜ急斜面の崖があり危険だと言われていた裏道を通ったのか、その理由は結局わからずじまい。

 後に残されたのはまだ領地運営のことなど分からない、8歳の一人娘・デボラだった。


 ヴァルバンダではごく稀に、女性でも爵位を継ぐことができる。それは直系男子がいない場合に限られたり、ある程度の根回しが必要だったりするが、それでも私が子爵家を継ぐことは、理論上可能だった。ただし成人するまでは後見人を必要とするため、外戚の何人かが我先にと手を挙げた。



 その中にイクセル=マーティソン――つまり叔父様夫婦がいたのだ。



「初めまして、デボラ。私のことがわかるかな? 君のお父さんの弟のイクセルだ。突然父上と母上を亡くされて辛かっただろうね。だけど今日から私達がおまえの家族だよ」


 イクセル叔父様達と初めて出会った日のことは、強烈に覚えている。

 突然お父様とお母様を亡くし、毎日自分の部屋に閉じこもり泣き暮らしていた私。

 そんな中やってきた叔父様は、面影が亡くなった父によく似ていた。


「かわいそうに、こんなに目が赤くなるまで泣き腫らして。でも覚えておいて。デボラは決して一人ぼっちじゃない。私達が新しい家族になって、将来マーティソン子爵となる君を支えよう。それに君には今日から弟ができるんだ。私達の息子――セシルがね」


 叔父様は優しく私の頭を撫で、リーザ叔母様とセシルを近くに呼び寄せた。

 まるで花のように美しいリーザ叔母様と、叔母様の美貌を受け継いだ5歳のセシル。

 セシルは私のそばにぱたぱたと歩いてきて、「どうして泣いてるの?」と無邪気に笑った。私が「お父様とお母様が死んじゃったの……」と涙ぐむと、「一人ぼっちなの?」と首を傾げ、「じゃ僕が一緒にいてあげる!」と、突然私に抱きついてきた。


 子供の私はびっくりした。

 自分より小さな子供に免疫がなくて、コロコロした感触をどう受け止めていいかわからなかったから。


 だけどセシルの体はとても温かく、ぎゅっとしがみついてくる手は、私の悲しみをほんの少しだけ和らげてくれるような気がした。

 「泣いちゃだめー、泣いちゃだめー」と、私の頭を何度も何度も撫でてくれた幼いセシル。

 その度に私は泣いた。

 悲しくて、切なくて、私にぴったりとくっついてくる小さな体を強く抱きしめ返した。



 あの時、叔父様や小さなセシルの存在が、確かに私の心を慰めてくれたのだ。



 そうして並み居る立候補者を押さえ、イクセル叔父様は正式に私の後見人となることになった。

 そう、この時は確かに、まだ後見人でしかなかったのだ――







 8歳で両親を亡くすまで、私は叔父一家と一切面識がなかった。

 今思えばそれこそが、最も不自然な点だっただろう。

 

 イクセル叔父様は、自分について私にこう説明した。


「堅実な兄上と違い、私は新し物好きの放蕩者。自らの見聞を広げたくて、サイザル、レティシア、アイバックなど諸国に留学し、長らくヴァルヴァンダを留守にしていたんだ。そして久しぶりに祖国に帰ってきてみれば、兄上と奥方が事故でそろって亡くなったと言う。これは姪であるお前を守れという神の思し召しだと思ったのだよ」


 各国を留学してきたというだけあって叔父様は話題に富み、外国の面白い話をたくさん聞かせてくれた。

 砂漠の国・サイザルでは全身に入れ墨を入れるのが最もおしゃれなんだよ……とか、宗教国であるレティシアでは基本肉食が禁止されていて、国民全員がベジタリアンなんだよ……とか。とにかく留学エピソードに事欠かない人だった。


 奥様であるリーザ叔母様も元はレティシア人らしく、神殿に勤めていた叔母様に一目惚れした叔父様が、全力で口説き落としたのだそうだ。

 二人の結婚は駆け落ちに近く、二人が結婚するまでの物語はまるで童話に出てくる王子様とお姫様のようで、幼い私の心をワクワクさせた。

 

 またマーティソン家に叔父様達が一緒に住むようになった当時、使用人達からの評判も上々だったと思う。

 外国帰りの話術に長けた叔父と、その美しい妻。息子のセシルは本物の天使のように愛らしく、私にもよく懐いている。表面上は、特に問題になるようなことは皆無だった。



 ――ただ一人、古くから両親に仕えていた乳母のタチアナだけが、叔父夫婦を警戒していたことを除けば。













「お嬢様、あまり叔父様を信用なさってはいけませんよ」

「どうして?」


 夜。私をパジャマに着替えさせながら、タチアナは声を潜めて私に言い含めた。

 タチアナは当時すでに40代後半を過ぎていて、私にとっては頼りになる教育係だった。特に両親が亡くなってからは、タチアナは本当に親身になって私の世話を焼いてくれたと思う。


 そのタチアナが叔父様を信用してはならないと、真剣な顔で言う。

 なぜなのか、幼い私にはわからなかった。


「叔父様はとても優しいわ」

「……ええ」

「リーザ叔母様とセシルとも仲良くなれたわ」

「……ええ」

「なのにどうして? どうして信用しちゃいけないの?」

「……」



 気づけば私の眉間には皺が寄り、タチアナに子供特有のどうして攻撃を仕掛けていた。

 この頃の私はすでに叔父一家に懐柔されかけていて、大好きな乳母の言葉でさえ素直に聞くことができなくなっていたのだ。


「お嬢様、タチアナは先代のギュンター様の頃からマーティソン家にお仕えしております」

「うん、ギュンターって一昨年亡くなったおじい様よね」

「さようでございます。ギュンター様は次男坊であられるイクセル様を勘当しておりました。イクセル様の放蕩が過ぎて、お怒りを買ったのです。もしも今もおじい様が生きていらっしゃったなら、決してイクセル様をこの屋敷内に立ち入らせたりはしなかったでしょう」

「……」


 タチアナが話してくれたのは、私の知らぬ大人の事情だった。

 今思えばタチアナは早くから叔父の本性を見抜き、私を救おうとしていたのかもしれない。


 けれど両親を亡くし、その悲しみを和らげてくれた叔父一家の存在は、私の心の中で大きくなっていた。

 それでなくても、8歳の子供にわかるはずがない。

 大人の欺瞞・虚飾―――強欲の正体など。


「どうしてそんな嫌なことを言うの、タチアナ! 私は叔父様やセシルが好きよ! 私のこと、本当の娘みたいだって言ってくれたわ! 私のこと、本当のお姉ちゃんみたいだって言ってくれたわ! だから私も、叔父様やセシルを本当の家族だと思うことにしたの」

「ですからそれは、お嬢様……」

「いやいや! 変なこと言うタチアナは嫌いよ!」

「………」


 私は布団の中に潜り込み、タチアナの言葉を拒絶した。

 小さかった私は『これからも大好きな家族と仲良く暮らせる』と言う甘い幻想を享受したかったのだ。

 そんな私の弱さをわかっていたのだろう。タチアナは私を責めなかった。

 私のことを全て理解した上で「申し訳ありません、お嬢様」と微笑しただけ。



 もしも………

 もしもあの時、タチアナの忠言に耳を貸し、叔父を疑う用心深さと賢さがあったなら――


 デボラ=マーティソンは、もう少しましな少女時代を送れたはずに違いないけれど……。










「デボラお姉さまぁ、いる?」

「……どうしたの、セシル?」


 タチアナと喧嘩した夜。

 寝ぼけ眼のセシルが、突然私の部屋を訪ねてきた。お気に入りの枕を抱えたセシルは、当たり前のように私のベッドに潜り込む。


「なんか一人じゃ眠れないの。姉様、一緒に寝よっ」

「あはは、セシルは甘えん坊なのね」


 ベッドの中でぎゅっと抱きついてくるセシルは、本当に可愛かった。

 一人娘で兄弟がいなかった私は、その可愛さにすっかり魅了されてしまっていた。


 美しいハニーブロンドで天使のようなセシルと、漆黒の髪を持つ、年よりは少し大人びた外見の私。


 二人並ぶと、何かのコントラストの見本のようだった。

 セシルが天使なら私は悪魔。

 セシルが光なら私は闇。


 何から何まで違う二人が、実は血のつながった従弟だというのが不思議で、でもその事実が私の心を支えてもくれた。

 私は寄り添って眠るセシルの頬をぷにぷにと指でつついてみる。


「痛いよぉ、やめて、デボラ姉様ぁ」

「ここは私のベッドの上よ。だから私が何をしてもかまわないの」

「ちぇー」


 セシルはプウッと頬を膨らませて拗ねるけど、その仕草さえあざと可愛い。

 振り返ってみると、こんな小さな頃から本能的に、セシルは自分の容姿の良さを利用していたのだと思う。

 末恐ろしいとは、まさにこのことだ。

 だけど当時の私は、純粋にセシルや叔父様のことを信じ切っていた。


「だぁぃ好きだよ、デボラ姉様。僕達、これからずっと仲良く暮らしていこうね」

「……うん、セシル、私のそばからいなくなっちゃやだよ」


 私が小指を差し出すと、セシルは「なぁに?」とこ首を傾げた。「指きりげんまんっていう約束のしるしだよ」と教えると、「指を切り落としてまで約束するなんて、デボラ姉様は時々変なこと言いだすよね」と、また明るく笑った。




 ――これが私の記憶の根本。


 幸せだった頃のわずかな名残。


 だけど砂糖菓子のように甘い幻想が崩壊するのに、そう長い時間はかからなかった。






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