第32話 そうして一つの謎は解ける
薄暗かった船倉の中は、駆け込んできた保安官達が翳すランタンのおかげで急激に明るくなった。
ううん、保安官だけじゃない。公爵の背後から、ヴェイン、コーリキ、ジョシュアも血相を変えて飛び込んできた。そしてみんな私の姿を見るなり、辛そうに顔を歪める。
ああ、そっか。さっき顔をグーで殴られたせいで私の頬、ひどく腫れ上がってるもんね。
みっともないなぁ。みんなには余計な心配をかけたくなかったのに。ホントごめんなさい。
「デボラ様!」
「遅くなってしまい申し訳ありません! でももう大丈夫っスからね!」
コーリキとジョシュアがすぐに私の許に駆け寄ってきて、縄を解いてくれた。それでも体が重くて動かせない。四肢の感覚が完全に麻痺している。
それが果たして薬のせいなのか、それともマルクから受けた暴力のせいなのか、もうまともに思考することもできなかった。
「カイン様、吾輩より前に出ないで下さいと、あれほど……」
「お前が遅いのが悪い。それよりも雑魚どもはどうした」
「もちろん全員の身柄を確保しました。船長も現在尋問中であります」
「よし」
私は床に寝ころんだまま、夢うつつの状態で公爵達の会話を聞いていた。
公爵は短銃を懐にしまい、冷たい眼差しで肩から血を流しているマルクを一瞥する。
「今までさんざん狡猾に立ち回っていたようだが、お前もこれで終わりだな、マルク」
「なんで……どうして……ここがわかった!? 港には何十隻もの船が停まっているはずだ。それなのになぜ、こんなにも早くこの船を特定できたんだ!?」
マルクは目を血走らせ、狂犬のように公爵に噛みついた。
対する公爵は、表情筋が死んでいるのか全く動じた様子がない。ただただ本物の死神のように、容赦なくマルクの首を刈り取っていく。
「アイビービーンズ」
「は?」
「この強烈な甘い香りに気づけないほど、おまえの嗅覚は薬で鈍化しているのか?」
そう言って公爵がローブの内ポケットから取り出したのは、乾いたハーブの残骸だ。
それらがパラパラと床に落ちれば、甘ったるい香りが船倉中に広がる。
ああ、よかった、ちゃんとヒントに気づいてくれたんだ。
私はアイビービーンズの香りを吸い込みながら、ホッと胸を撫で下ろす。
実は倉庫からこの船に連れてこられる途中、私は片手に握りこんでいたサシェの中身を曲がり角や船の入り口など、要所要所に落としておいたのだ。
目印……ならぬ、鼻印?的な?
正直わずかな香りに気づいてもらえるかは賭けだったけど、公爵は私の示したヒントを見逃さなかった。だからこんなにも早く、マルク達を包囲できたのだ。
「くそ……くそっ! カイン=キール、お前さえいなければ……。おまえがこのアストレーにやってこなければ、俺達はもっと……もっと……!」
「言いたいことがあるなら牢獄の中で言え。と言っても、看守も誰もお前など相手にはしないがな。――ヴェイン」
「はっ」
そうしてヴェインと保安官達によって、マルクは逮捕された。容疑は危険薬物取締法違反と、私やアヴィーを攫った略取・誘拐罪。おそらくそこには傷害罪も加わるはずだ。
けれどマルクは負け惜しみとばかりに、不気味な予言を残していった。
「くそ……このままで済むと思うな、カイン=キール。おまえを目障りに思っている人間は大勢いる。いつか誰かがお前を殺す。覚悟しておくんだな!」
「フン……」
マルク渾身の脅しもまるで通用しないようで、公爵は一人涼しい顔をしている。
でも誰かが公爵を殺す――そんな例えを聞いただけで、私は恐怖に駆られた。
……公爵が……殺される?
私以外の誰かの手によって?
今まで考えたこともなかった可能性に、私は実際に殴られる以上の衝撃を感じた。
あんなに公爵の死を願い、復讐を果たそうとしてきた私なのに、実際に公爵の死に顔を想像したら、半端ない絶望感に襲われてしまう。
ああ、おかしい。なんだか頭がぼんやりする。
脳のシナプスが切れて、思考と感情がごっちゃにまじりあって、まるで収拾がつかない。
私は軽く呻いた。
なんだかとても気分が悪い。
だけど心臓だけは今にも肋骨をやぶって飛び出しそうなほどに、激しく跳ねまわっていた。
「デボラ」
「………っ」
マルクが連行された後、公爵が私に近づいてきた。コーリキとジョシュアに両脇を支えられながら、私は何とか上体だけ起こす。
「よくやった」
「……」
「お前にしては、なかなかの機転だった」
「………」
おそらくアイビービーンズのことを言っているのだろう。
公爵は片膝をつき、私と同じ目線になる。
だけど公爵に褒められても嬉しくない。
私が欲しいのはそんな言葉じゃない。
薬で動かなかったはずの私の腕はなぜか公爵まで伸び、自然とその襟元を掴んだ。
「こ、殺され……」
「……ん?」
「私以外の人間に……殺されたりしたら……ぜ、絶対許さない……っ」
「………」
思ったことを無意識に口に出してしまうのは、私の悪い癖。
だけどここまでストレートに、まずい言葉が飛び出してしまったことはない……と思う。
救助に来た夫に対し、なぜか殺意をぶつける妻。
おそらく周りからはそんな風に見えただろう。
いや、実際私を支えてくれるコーリキとジョシュアは青ざめ、扉付近に立つヴェインはポカンと口を開けていた。
「私以外の人間に殺されるな……か」
そんな中、なぜか公爵の表情筋が息を吹き返していた。醜く腫れ上がった私の頬に手を伸ばし、そっと優しく添えてくる。
「ならば俺からも一言いわせてもらおう。……デボラ」
「……はい」
「忘れてなぞ、やらないぞ」
「――」
それはおそらく私がアヴィーに頼んだ、伝言の答え。
「お前のような愚かで間抜けな女、忘れられるはずがないだろう? だからそんな言葉は、二度と口にするな。いいな?」
「……っ!」
なんでいちいち偉そうに命令すんのよ。
なんで私の些細な願いさえ聞いてくれないのよ。
理不尽なはずの答えになぜか視界が曇り、胸に熱いものがこみ上げる。
どうしてだろう。こんなにも呼吸が苦しいのは。
どうしてだろう。愚かだ間抜けだと馬鹿にされているのに、その言葉がこんなにも嬉しいのは。
気づけば私の目からは大粒の涙があふれ、目の前の公爵の腕の中に倒れこんでいた。
公爵もまるでその流れが自然であるかのように、私をしっかり抱きとめてくれる。
ああ、どくどくと鼓動が早い。壊れそうに早い。
胸が痛くて、辛くて、でも、不思議と離れたくない。
その直後、真っ白な閃光と漆黒の泥沼が同時に私を飲み込み、遙かな高みから奈落の底へと一気に落とされた。
体中の力が抜け、私は公爵の腕の中で、とうとうぷつりと意識を失う。
「デボラッ!」
「デボラ様!」
「カイン様、これはまずい。至急屋敷にお連れしましょう!」
「……っ!」
とりとめもない感覚の中、みんなの焦った声が聞こえてくる。
この時、私は知らなかった。
グレイス・コピーを吸わされた自分の身に、一体何が起こっているのかを――
「ノアレ、ノアレはいるか!?」
らしくもなく、私を横抱きにする公爵の声色は若干の苛立ちを帯びていた。
おそらく今は深夜過ぎなのだろう。公爵の怒鳴り声に呼応して、あちらこちらでパチパチと灯りがつけられる。
「カイン様、使いの者から話は聞いております。急いでこちらの病室へ!」
どこかの建物に入ってすぐ、公爵と私に駆け寄ってきたのは白衣を着たノアレだった。その後ろにはイルマやエヴァ、レベッカやハロルド、見知った顔が揃っている。
「デ、デボラ様!」
「大丈夫ですか? まぁ、なんてひどい……っ」
「だ、誰がおなごにこんな無体な真似したんだべか? ぜ、絶対許せねぇ!」
「気をしっかり持って、デボラ様。あなたのそばには私達がついていますからね!」
「そ、そうです。皆ここに揃っていますよ……!」
誰も彼もが私のベッドを取り囲み、涙を浮かべて取り乱してた。
だけど私はみんなに言葉を返すことができない。
目の前がぼんやりして、脳が正常に機能しない。自分の意志では、もう指一本動かすことさえできない。
この世界から一人切り離されて、ただ茫洋と目の前で流れる映画を見るだけの観客。それが今の私だった。
「どうだ? ノアレ」
「………」
ノアレは私の脈を取ったり、服の上から聴診器をあて、私の具合を診ている。
その姿は温室の管理者なんかじゃない。どこからどう見ても立派なお医者様だ。
「よほど純度の高い薬を嗅がされたのでしょう。急性中毒を起こしています」
「きゅ、急性中毒!?」
「デボラ様、し、しっかりしてくだせぇ!」
「カイン様、申し訳ありませんっ!」
「オ、オレ達のせいです。護衛のオレ達が、デボラ様から目を離したから……っ」
悲壮な声で、ひたすら頭を下げて謝罪しているのは、コーリキとジョシュアだ。
その姿を見てると、私のほうが申し訳なくなる。
違うわ、悪いのは大人しく待ってるという約束を反故にした私のほう。
だからあなた達は何も悪くない。
心からアヴィーを心配して、町中を探し回ってくれただけ。
そう言いたいのに私は一声も発することができない。
「いえ、部下の失態は上司である吾輩の責任。処罰するならどうか吾輩を……」
「今お前を処罰して、それでデボラが回復するのか? 違うだろう」
「はっ、それはそうなのですが……」
ヴェインもまた、沈痛な面持ちで公爵のそばに控えていた。項垂れるヴェインを支えるように、イルマがその背後に立つのが見える。
だけどここにいる誰よりも罪悪感に囚われる人物がいた。
突然病室のドアがガチャリと勢いよく開いたかと思うと、その人物が私のベッドの下に潜り込む勢いで土下座してきたのだ。
「も、申し訳ありません! 私の兄のせいでデボラ様がこんなことに! 本当に申し訳ありません! 申し訳ありません……っ!!」
「やめろ、フィオナ」
「いいえ、カイン様の大事な奥方様になんてことを……っ! わ、私どうしたら……どうしたらデボラ様に償うことができるでしょう?」
フィオナは長い髪を振り乱して、号泣した。
おそらくマルクに虐待されていたフィオナは、デボビッチ家で過ごすうちに奴の洗脳から解放されたのだろう。
だからこれでよかったのだ。
フィオナじゃなく私でよかったのだ。
だって私は慣れている。
家族に虐げられる痛みも、一方的に殴られ絶望する悲しみも、それら全てを仕方ないことだと諦めて過ごす空虚な毎日にも――
「あ……、う、あ……っ」
「デボラ?」
「あ……いや……いや……っ! 痛い……痛い……痛いっ! お願い殴ら……ないで! ちゃんと言うことを聞くから……だからお願い……お願いしますっ!」
「デボラ!」
刹那、私の脳裏に真っ黒な靄がかかり、そこから過去の悪夢が人の形をとって甦った。
突然錯乱し始めた私を落ち着かせようと、公爵が私の両手首をつかむ。
「ノアレ!」
「おそらく幻覚と幻聴が強く出ているのでしょう。もしかしたらグレイス・コピーの副作用で、デボラ様の記憶は全て戻ってしまうかもしれません」
「――」
私の枕元で公爵とノアレが何か言っている。
ああ、でももう何もわからない。
わからない。
形のない恐怖が足元から立ち上って、自分の中に何かどす黒いものが侵入してくる。
その感覚が恐ろしくて、私はまた悲鳴を上げる。
全身を巡る血の流れが、ぐつぐつとマグマのように滾って急流になる。その血を押し出す心臓は、狂ったように激しく脈打っていた。
「ノアレ、デボラは持ちこたえられるか?」
「私が今まで何人の患者を診てきたと思っているのです。それにこのような時のために用意された瑞花宮でしょう?」
「………」
「ですからカイン様はデボラ様の手を、強く握って差し上げていて下さい。繊細な心が、無残に壊れてしまわないように」
「………、わかった」
公爵は私の手を強く握り直し、耳元で静かに囁く。
「デボラ、お前は俺を殺したいのだろう? だが見ろ、俺はまだこの通りピンピンしているぞ。だから……」
――だから是が非でも戻ってきて、お前はお前の復讐とやらを果たさなくてはな……。
そんな自嘲気味の公爵の声が、近く、あるいは遠くで響いていた。
その他にも、
「カイン様、それなんか間違ってます……」
「いや、かけるべき言葉はもっと他にあるでしょうに……」
「なんでよりによって、そのチョイスなんスか……」
「カイン様、さすがに吾輩でもこういう場合の正解はわかりますぞ……」
「カイン様は見かけよりも、ずっとアホだべ……」
などの呆れた声も、複数聞こえていた。
そうして私は夢を見る。
長い……とても長い夢を。
それは嘘と虚飾で塗り固められた、デボラ=マーティソンと言うひとりの少女の――
とても可哀そうで、孤独な夢だった。
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