第31話 ヒーローは風のように
「ちくしょう、いつの間にかガキがいなくなってる!」
「このアマ、一体何をしたんだっ!?」
「っ!」
まるでバットを殴られるかのような強い衝撃が、私を真横から襲った。
目の前にチカチカと星が飛び散ったと同時に、私は勢いよく床に倒れる。
ぬるっと口の中で血の味がした。
――ああ、グーで思いっきり殴られたんだな。
そう認識するのに、2,3秒のタイムラグがあった。
アヴィーをなんとか逃がした後。マルク達は取引とやらを予想以上に早く終えて、この倉庫に戻ってきてしまった。
そして中に私一人しかいないのを確認するや否や、チンピラ達のこの逆上ぶりだ。
マジサイテー。女をグーで殴る男なんて、この世からみんないなくなってしまえばいいのに。
私は床にうつぶせたまま、心の中で毒づく。
「やってくれましたね、デボラ様。少々油断し過ぎましたか」
「………」
激高するチンピラとは対照的に、マルクは極めて冷静で蛇のような目で私を見下ろしてた。
チンピラAがさらに私の胸ぐらを掴んで殴ろうとしたけど、マルクがそいつの尻を後ろから強く蹴り上げた。
「うげっ!」
「バカ野郎! 俺の奴隷に勝手に手を出すんじゃねぇ! それとここは即刻引き上げる。あのガキはおそらく保安局に通報しに行っただろうから、急いで逃げるぞ!」
「お、おう!」
元々高跳び予定だったマルクと仲間達は、急いで荷物をまとめて倉庫外へ出た。ちなみに私は両手を縄で縛られ、がっちり拘束されてしまう。足をジタバタさせて、「気安く触んじゃないわよ!」と猛烈に抵抗したけれど、
「仕方ない人だな。これで少し大人しくしてて下さいね。大丈夫、すぐいい気分になりますから」
「!」
と、グレース・コピーのオイルをしみ込ませた布で、思いっきり口を塞がれた。
あ、まずい! これ絶対吸っちゃいけない奴ーっ!……と慌てて呼吸を止めてはみたけれど……さすがに3分が限界。窒息死する直前に、グレイス・コピーのオイルを思いっきり吸い込んでしまった。
「う、あ……?」
「おや、なかなか可愛い声を出すじゃないですか。そのまま俺に身を預けててくださいね。悪いようにはしませんから」
いや、あんたに身を預けたら絶対破滅するでしょーーー!?
そう叫ぼうとしたけど、グレイス・コピーの効き目は強力だった。
吸い込んですぐに頭がぼんやりとしてきて、まず手足がろくに動かなくなった。
なんだかすごい眠いような……それでいてどこか感覚が研ぎ澄まされるような……。相反する症状が出てきて、私は混乱する。
いやあっ、異世界産ドラッグでハイになんかなりたくない!
私、これでも善良な一般市民ですからぁぁぁっ!
お願いお巡りさん、早く助けに来てぇぇぇっ!!
マルクの肩に担ぎあげられる形で、私はぐったりとしてしまった。
それでも何とか気合で意識だけは保つ。ここで完全にブラックアウトしてしまったら本当の負け。真のゲーマーはどれだけ敗北フラグが立っていても、それをへし折るために最後まで戦うものよ!
「よし、ずらかるぞ!」
マルク達はアジトの倉庫を捨て、すぐ近くの港へと馬を走らせた。埠頭には数えられないほどたくさんの貿易船が停泊していて、その灯りが不規則に並んでいる。
マルク達はその中の一隻に乗り込み、再び私を船倉に閉じ込めた。
「おい、船長にできるだけ早く出港しろと交渉して来い。賄賂でいくらか包め」
「おお、了解だ」
船に乗り込んだ後も、マルク達は私を放置した状態で、船のあちこちを行き来していた。
私のせいで予定が早まったせいか、色々不都合が出ているようだ。
私は床に転がされたまま、船倉に響く波の音をじっと聞く。何か湿ったものがゆっくりと流れつつ空気を巻き込むかのように、ごぼごぼと不快な音を立てている。
やばい、もしかしたらこれって、スクリュー的な音? もしも船が動き出したなら、アストレーの保安局も手を出せなくなる。
私は手に握りこんでいたあるものを、もう一度ぎゅっと強く握り直した。
(どうか保安局の人が、ヒントを辿ってきてくれますように……)
それは勝率がほとんどないような、一か八かの賭けだった。
気づいてもらえる可能性は極めて低い。
だけどグレイス・コピーで身動きを封じられている以上、私にできる抵抗と言ったらこれぐらいしかなかった。せっかく用意していたプレゼントを、こんな形で消費する形になってしまったのは悲しいけれど。
ごめん、リリ。無事戻ったら必ず作り直すね。
私は微かな希望を胸に、来ないはずの助けをじっと辛抱強く待ち続けた。
「おや、まだ目に力が宿ってますね。往生際の悪い。もしかして諦めてないんですか」
「……」
そんな私を見て、マルクがまたシニカルな笑みを浮かべた。
えーい、うるさいっ! 元はと言えばあんたがあんたがあんたが悪い!
悔しくなって私は呂律が回らないまでも、必死にマルクに嫌味を言い返した。
「サイッテー…」
「………」
「フィオナ……ほんろ、あんらみたいなくじゅからにげられて、よかった……」
「……な、に?」
フィオナの名を口にした途端、マルクの顔が鬼のように険しくなった。
あ、まずい、もしかしてこれ、マルクにとっての大地雷だった?
気づいた時にはすでに手遅れ。
次の瞬間、信じられないほどの衝撃が私の腹部を襲った。
「きゃあぅぁぁっ!」
ぎりぎりで急所は避けたけど、腸がひっくりかえるような振動が体内をひっかき回す。攻撃をもろに食らい、全身に電撃のような痺れが走った。
私は必死で大きく息を吸い、歯を食いしばる。耳元でごうごうと唸るのは、波の音などではなく、血潮の流れる音だ。床の上で苦しむ私を見て、マルクはさらに甲高い声で笑う。
「仕方ないなぁ、船が出るまではお預けだと思ってたけど、少し身をもって教えないといけませんね。これから一体誰があなたを支配するのかを」
「………」
「いいか、フィオナのことは二度と口にするな。あの裏切り者の償いを、これからおまえが代わりにするんだ!」
――償いって何よ。
あんたがフィオナに謝ることはあっても、フィオナがあんたに謝る筋合いなんかこれっぽっちもない!
そう言い返したいけれど、延々と繰り返される暴力の前では、言葉なんて何の意味もなかった。
とうとう理性の箍が外れたのか、マルクは床にうずくまる私を容赦なく蹴り続ける。
痛い。
痛い。
痛い……!
痛覚が研ぎ澄まされた私の体は、まるでよくできたサンドバッグのようだ。
この感覚には……微かに覚えがある。
無抵抗なところを一方的に殴られ、でも誰も助けてはくれない。
そう、確か昔、こんなことが何度も……。
(やめて……)
マルクから一方的な暴力を受けながら、決して開いてはいけない私の記憶の扉の鍵が、ガチャリと外れる。
(お願い、やめて……殴らないで……)
記憶の底に眠る私は一人ぼっちで蹲り、声も出さずに泣いている。
(お願い、やめて! 叔父様、セシル――!!)
刹那、ランタンの灯が弱まったかと思うと―――風が吹いた。
まるで嵐さえも消し去る、一陣の風が。
「ぎゃあああーーーっ!」
「っ!」
なぜか突然、私を蹴り続けていたマルクの悲鳴が、船中にこだました。
何が起きたのかわからず視線を恐る恐る上げると、マルクが肩を押さえながら私と同じように床に蹲っている。
……あれ? なんでマルクが倒れてるの?
しかもなんか肩から血が流れてる……。
訳が分からず、私はただ茫然と事態が急転する様を見つめていた。
そして気づいた。
私を閉じ込めていた船倉の入り口に、真っ黒な影が浮かび上がっていることに。
その人の握る短銃からは白く細い煙が立ち上っていて、おそらくその銃弾がマルクの肩に命中したのだろう。
「俺の妻に手を出すとは、いい度胸だな、マルク。楽に死ねると思うなよ」
それはこの世で最も大嫌いで、この世で最も憎い男――カイン=キール=デボビッチ。
淀んだ暗黒オーラをまとった男は、まるでヒロインを救うヒーローのように私の前に現れた。
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