37話 デボラという少女5~夢から醒めて~



「泣くな。泣かせたかったわけじゃない」


 王子様は雨に濡れながら、私の頬に手を伸ばし涙を拭ってくれた。

 大きな手。

 そして温かい手。

 一体いつ以来だろう、こんな風に誰かに優しく触れられたのは。

 私はしゃくりをあげながら、なぜかホッと胸を撫で下ろす。


「だがこれだけは一つ言わせてくれ」


 王子様はまっすぐ私の目を見ながら言った。

 私のせいで美しい顔に雨が降りかかっていると言うのに、そんなのをまるで気にしていない様子だ。


「今の涙が、お前の素直な気持ちだったはずだ。いいか、そういうのはちゃんと吐き出さないと、心に溜まって膿になる。言葉に出来ない気持ちはやがて腐り、お前の心を完全に殺してしまうだろう」

「――」


 だから、と王子様は言葉を続ける。

 

「そうなる前に、必ず助けに来よう」

「……え?」

「そう長くは待たせない。必ずここから救い出してやる」

「――」


 私の涙はいつしかピタリと止まり、視線が右へ左へと不安定に泳いだ。

 ええと……それは一体どういう意味かしら?

 言葉通りに受け取れば、目の前の王子様は私をこの地獄から救ってくれるらしい。


 でも期待なんかしちゃ、だめだ。

 もし期待して、それが叶えられなかったら、絶望と失望のほうが大きくなる。


 今までだって、何度も何度も神様にお願いしてきた。

 どうか誰か助けてほしい。

 ここから私を連れ出してほしい、と。

 

 でもその願いが叶えられたことなんて、一度もなかった。

 だから私はかぶりを振る。

 王子様の優しさだけで、十分だ。

 大体今知り合ったばかりの私を助けて、王子様に何の利があるというのだろう。

 所詮この優しさも、一時の気まぐれにすぎない。

 

「大丈夫です、私は……大丈夫」

「随分と強情だな。まぁ、いい。俺が勝手にやることだからな」

「………」


 だけど王子様の強気な発言は続いていて、その一言一言が私を惑わせる。

 涙を拭う大きな手の感触に、心が大きくざわついた。

 そうしている間にも雨脚は強くなり、遠くから私達とは別の声が響いてくる。

 

「イアン様ー? イアン=モルドレッド様ー?」

「……まずい、そろそろ行かなければ」

「!」

 

 パーティーの開かれている本宅のほうから、人を探すような声が聞こえた。

 イアン……とは、この王子様の名前だろうか。私は自分の胸に手を重ね、その名を心の奥にそっと刻んでみる。


「じゃあまたな、デボラ」

「!」


 そうして去り際、王子様は私の名を呼び、風のように去っていった。

 邸の中へと消えていくその後ろ姿を、私はしっかり目の奥に焼き付ける。

 雨が降り続いて空気は肌寒いというのに、頬の温度だけはどんどん上昇していくのが実感できた。   

 いつになく心臓の動きが激しく、それがときめきだということにも、最初は気づけなかった。


(イアン……様……。不思議な人。またいつか会えるかな……)


 私は目を閉じ、たった今去ったばかりのイアン様の面影を思い浮かべる。

 印象的なのは何よりもあの金色の瞳。

 全てを見透かし、全てを包み込むような……とても暖かい色。


(イアン……イアン=モルドレッド様。本物の王子様……みたいだった。やばい、今日の夜、夢に見るかも……)


 この時の私はいうなれば、正統派王子キャラにFall in loveしたちょろいヒロイン……略してチョロインそのものだっただろう。



 ……そう、あれが私の初恋だった。


 突然現れた正体の分からぬ王子様に、私・デボラは一目惚れしてしまったのだ――

















 そしてイアン様と出会ってから数日後――


 事態は急転直下の勢いで、動いた。

 夜会から帰ってきた叔父が、帰宅早々私をサロンへ呼び出したのだ。


「一体どういうことだ、デボラ! お前、一体どこでアストレー公爵と知り合ったのだ!?」

「……えっ!?」


 叔父はこめかみに青筋を立て、かなり動揺した様子だった。叔母もそんな叔父をなだめるのに精いっぱい。叔父の怒鳴り声を聞きつけて、セシルも寝室から慌てて走ってくる。


「どうしたの、お父様?」

「どうしたもこうしたもない! 今夜イグニアー家主催の夜会に出席したら、そこでアストレー公爵直々にデボラを妻に迎えたいと縁談を申し込まれた! しかも公衆の面前で、だ!!」

「えっ? 嘘でしょ?」


 この叔父の報告には、セシルも目を丸くしてた。

 イグニアーとはデボビッチ家と同じく四大公家で、ヴァルバンダでは最も力のある貴族だ。もちろんイグニアー家が主催する夜会となれば、そこには多くの貴族が集まる。

 その公衆の面前で公爵家から子爵家へ縁談が申し込まれる――ということは、すでにこちらに拒否権はないということでもあった。

 叔父はあまりの悔しさから、激しく地団太を踏む。


「ええい、忌々しい! デボラ、お前アストレー公爵とどこで知り合った!? まさか私の知らぬ間に、屋敷から抜け出していたのか!?」

「そんな……そんなことしてません!」


 私は必死に否定した。本当にこの9年間、私は屋敷から一歩も外に出たことがないのだ。

 けれど叔父は怒りを抑えられず、渾身の力で私を平手打ちした。左頬を力任せに殴られ、私は勢いよく床に倒れこむ。


「顔はだめだよ、お父様! 外から見えるところに傷を付けちゃダメ!」

「だがセシル……ッ!」

「もしかしてアストレー公爵は人違いとかしてるんじゃないの? デボラお姉様とあの引き籠り公爵との接点なんて皆無なんだし」

「む、むぅぅぅ……っ」


 叔父はイライラしながら椅子に座り直し、激しい貧乏ゆすりを始めた。

 この時私は初めて、アストレー公爵の悪評をセシルから聞かされた。


 アストレー公爵は、日頃は領地のアストレーに引き籠り、まともに王宮に出仕しない変わり者。しかもここ数年何度も結婚を繰り返し、彼の妻はみな短期間で亡くなっていると言う。


 最初、アストレー公爵とはあのイアン様では……?と期待した私も、セシルから聞かされる悪評に幻滅せざるを得なかった。


(やっぱり違うわよね。イアン様は正統派の王子キャラだったし、悪評とは無縁そうだったもの。じゃあアストレー公爵って何者? 本当に会ったことないんだけど……)


 ジンジンと痛む頬を手で押さえながら、叔父と同じく私も混乱の極みにいた。

 正直死ぬまで、この屋敷で飼い殺されるとばかり思っていたから。

 それに対外的にマーティソン家の令嬢・デボラ=マーティソンの存在は人々から完全に忘れ去られている。

 そんな訳あり令嬢を妻にと願うなんて、アストレー公爵は一体何を考えているのだろう?


「とにかく人違いだろうが何だろうが、公衆の面前で! しかも公爵自らの求婚と言うのが厄介なのだ! あの忌々しい男のせいで、デボラの存在も公にされてしまった!」

「まぁ、それの何がまずいのですか?」


 相変わらず空気を読めない叔母が、叔父の怒りに油を注ぐ。


「当たり前だ! デボラはすでに17……。社交界にデビューしていてもおかしくない年齢だ。だがそんな年頃の娘をなぜ今まで隠していたのだと、周りから質問攻めにあった。病弱ゆえ領地でずっと療養させていたのだと説明はしてきたがな!」


 いつもは紳士的な叔父が、この時ばかりはひどく取り乱していた。

 でもそれも無理はない。実は9年間も姪を虐待し、家督まで横取りしていたと知られれば、どれだけ外面のいい叔父でも、もう社交界では生きていけない。

 結果的に、アストレー公爵の求婚は叔父を窮地に追い詰めたのだ。


「じゃあデボラ姉様をアストレー公爵に嫁がせるの?」

「そんなこと、できるはずないだろう!」

「だよね? まさかデボラ姉様一人が公爵夫人の座に収まるなんてそんな美味しい話、許せるはずもないよね?」

「!」


 セシルはサロンに飾られていた薔薇を一輪手に取り、それをぐしゃりと右手で握りつぶした。細い指が棘で傷つくのにも構わず、私を振り返って不気味な薄笑いを浮かべる。


「ダメだよ、姉様、お嫁になんか行っちゃダメ……だからね? 正直公爵は厄介な敵だけど、絶対に姉様を渡したりなんかしないから」

「セ、セシル……」


 そう笑うセシルこそ本物の悪魔のようで、私の体の芯は凍りついた。

 真っ直ぐに私を射抜く、やすりのようにざらついた視線。その青の双眸に心の奥まで見透かされてしまいそうな気がして……。

 ……ううん、すでに全てを把握されているような気がして、私はそっとセシルから目を逸らした。












 ――これが、公爵に求婚された夜の本当の会話。


 私が覚えていた記憶は、私が作り出した幻影そのもの。

 本当ならばこうあってほしいという、私の願望を映しとったものだった。






 その後、叔父様とセシルは、私を公爵家に嫁がせないための策を、何か練っていたようだ。

 だけどその策を実行する前に、あの火事が――起きた。


「大変だ! 旦那様達がいる本宅が火事だぞ!」

「ええっ!?」


 いつものように、別棟で休んでいた私は使用人達の悲鳴で目覚めた。慌てて外に飛び出せば、決して狭くはないはずの邸宅が真っ赤な炎に包まれていた。


「叔父様……叔母様……セシル――!」


 長年ひどい目に遭ってきたというのに、私は反射的に三人を助けようと炎の中に飛び込もうとした。けれど使用人達に、あまりに危険だと止められた。


「残念だけど、もう手遅れだって! こんなに激しい炎の中で生きてる奴なんていねぇ!」

「そんな……。……そんなことって……」


 私はごうごうと勢いよく燃え盛る炎を、ただ茫然と見つめることしかできなかった。

 叔父一家が死んでしまえば、私は長年の苦しみから解放される。

 でも私の心を占める感情は決して喜びじゃなく、むしろ砂漠に吹く風のような乾いた空虚さだった。



『ねぇ、デボラ姉様、あなた一人を幸せになんてさせないよ? 早くこっちへおいでよ。僕と一緒にこの炎の中で死のう。そうして二人一緒に地獄に墜ちて、いつまでも一緒にいよう?』



 そんなセシルの幻聴が、耳元で聞こえてくるようだった。

 その幻聴は死んだ後も私を縛り付ける呪いだったと今は思う。

 それほどまでに9年という月日は長すぎた。

 セシル達が失われれば、当然私が捏造した幸せな記憶も失われる。今では私の核ともなっている、膨大な偽りの記憶が……。

 だから心が拒否した。

 セシル達家族が失われることに、激しい抵抗感を示したのだ。


「いや……いやぁ…こんなのいやぁぁーーー!」


 そして大きな喪失感と共にフラッシュバックしたのは、私であって私じゃない――誰か別の人物の記憶。

 

 セシル達に虐げられ続けた辛い記憶。

 それと同時に培ってきた、幸せな幻の記憶。

 さらにこことは違う別世界の、オタク系女子の前世の記憶。


 一度にたくさんの記憶が流れ込んできて、私の脳はあっさりキャパを超えた。

 全てが混ざり合い、複雑にもつれ合い、私は自分の心を守るために一番都合のいい記憶を新しく作り上げていった。

 そう、それが――




「私の大事な家族を殺したのは、カイン=キール=デボビッチ……! 絶対絶対許さないんだから!!」




 

 はい、ごめんなさい。

 全て思い出しました。

 公爵が家族の仇だというのは私の激しい思い込みであり、とんだ勘違いだったということに。



 しかも私の初恋の相手――イアン様って……。





 どう考えても変装した公爵じゃないのぉぉぉーーー!!!





 今世紀最大級のいたたまれなさと恥ずかしさで、私の顔はマグマのように熱くなった。

 いや、これ夢の中だから、あくまでも例えですけどね、例え。

 でも全てを思い出したら実は自分のほうがメンヘラでした……って、なんなのこの恐ろしい罰ゲーム。


 ……ああ、目覚めたくない……。

 目覚めたくないよぉ……。


 だって今さらどの面下げて公爵に会えばいいの。

 『どうして私の勘違いを、もっと早く訂正してくれなかったの!?』?

 それとも『あんなキラキラの王子様キャラに変装するなんてずるい! すっかり騙されました!』?


 いやいや、どちらも違うでしょ。

 私が目覚めてまずしなければならないのは、心からの謝罪。

 いくら自分の心を守るためだからって、約束通り助けに来てくれた公爵を、あろうことか仇と思い込み殺そうとしてた。

 まぁ、結果はご存じの通りいつも惨敗でしたけど……。

 

 今ならばさすがに私だってわかるのよ。

 どんな理由があろうとも公爵は叔父様やセシル達を殺してなんかいない。

 むしろ私に求婚なんて無茶することで、確実に私を救おうとしてくれてたんだって。

 なのに――





『……ラ……』


 ん? 暗闇の中から聞こえてくるこの声は、もしや――


『デ……ラ……』

 

 いやぁっ、このイケボ、バッチリ聞き覚えがあるわ!

 お、お願いです、公爵。

 もうちょっと!

 もうちょっとだけ時間をください!

 私あと少しだけ寝てますから!

 その間に心からの謝罪の言葉を考えますからぁぁぁぁぁ!!


『おい、デボラ……聞こえてるのか……?』


 聞こえてます、聞こえてます!

 公爵の天の声はばっちり聞こえてます!


 ……あ、何気に返事しちゃったよ、私。

 もしかしてまずくない、これ?


『おい、デボラ……!』

『デボラ様!』

『しっかりして下さい!』

『私達、みんなここに揃ってますよ!』

『大丈夫ですだ、何にも怖いことなんかねぇ!』

『デボラ様、早く起きてくださいよー!』


 ああ、しかも公爵だけじゃなく、みんなの声も聞こえ始めてしまったわ。

 うぅぅぅ~、これはもはや観念するしかないのね。

 覚悟を決めるしかないのね……。

 そうか……。

 そうだよね……。








 こうして私の長い夢は終わりを告げる。


 苦しく悲しい過去から抜け出して、みんなが待っている現在へと。


 そしてそれは私の恋の、新たな苦難の始まりでもあった。




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