第23話 口づけは血の味がする
――目障り?
この人は今、私の家族のことを目障りと 言 っ た の ?
ぼんやりと薄暗い室内で、私のすぐ上には悪魔のような男が圧し掛かっている。
いつものようにからかわれているわけではない。だって公爵はあの意地悪い笑みを浮かべていないし、ほぼ無表情に近かったから。
それにしても「お前は今や俺のものだ」……って、一体何様のつもり?
私はあなたの物になった覚えはさらさらないんだけど?
今まで塞ぎこんでいた気持ちが一気に反転し、公爵への敵意がむくむくと沸き起こる。
どうして一瞬でもこの男に弱みを見せてしまったのだろう。
私は本気で後悔し、公爵と距離を取ろうと試みた。
「聞き捨てなりませんわね。私の家族を愚弄するどころか、ありもしない事実をそう堂々と宣言されては」
「お前は俺の妻だ。……違うか?」
「形ばかりの妻……の間違いでございましょう?」
私はベッドの上で後ずさりするけど、公爵の両腕に囲まれて自由に動けない。
いつもと雰囲気の違う公爵には恐怖心さえ感じる。
だけどここで怯んではいられない。私の家族を『目障り』呼ばわりした公爵に、なんとしてでも一矢報いなければ。
「それに私の家族のどこがどう目障りだったと言うのでしょう? 公爵家からすれば取るに足らない存在。それが我がマーティソン子爵家だったはずでは?」
「素直にお前を差し出さなかった時点で、俺には充分邪魔な存在だったがな」
「!」
公爵の口から語られる内容に、私は今更ながら衝撃を受けた。
邪魔な存在……。
この人は邪魔だった? 私の家族が……?
このアストレーで暮らすうちに、本当は薄々感じてた。
もしかしたら公爵はいい人で、私の家族を殺してないんじゃないか。
それは全て私の思い込みや勘違いじゃないだろうか。
でなければイルマやハロルド達が、あんなに公爵を慕うはずがない。
王都での悪評も何か理由があるのかもしれない。
本当はそうであってほしい……と、私は知らず知らず願っていたのかもしれない。
けれど――
(やっぱり縁談を断ったことで、公爵の不興を買ってしまったの? だから私の家族を……)
いつの間にか私の体は怒りで震え、先ほどまでの弱気など跡形もなく吹き飛んでいた。
対する公爵の表情は、まるで氷のように動かない。金の双眸に感情の揺れを見出すことはできない。
一体何を考えているかわからない化け物のようだ。
やっぱりこれがこの人の本性なの?
私の中の警戒ゲージが一気にMaxまで跳ね上がる。
危険だ。
危険だ。
キケン。
キケン。
コ ノ 男 ハ 、キ ケ ン――
その予感は、すぐに確信へと変わる。
公爵は私を腕の中に閉じ込めつつ、ふてぶてしくもこう言い放った。
「形ばかりの妻……だと言ったな?」
「……」
「ならば本物の妻にしてやろうか?」
「っ!?」
次の瞬間、片手で顎をつかまれ強制的に上を向かされた。
憎たらしい公爵の吐息が頬にかかる。肌の産毛さえ見える距離まで顔が近づき、私は大きく目を見開いた。
憤りで頬を赤く染め、必死に身をよじるものの力では男に敵わない。まるで罠にかかった小動物のように、惨めにジタバタするだけだった。
「お放しください。そういう事がしたいなら、瑞花宮で存分に楽しまれればよいでしょう」
「やきもちか」
「!」
渾身の皮肉も、痛いカウンターパンチになって跳ね返ってくる。
はぁ? やきもちって誰が!?
なんで私がノアレやフィオナ相手に嫉妬しなければならないの!?
普段、瑞花宮で目の前の男に寵愛されているだろう彼女達のことを思い浮かべた途端、なぜか胸に鋭い痛みが走った。
理不尽な怒りのような悲しみのようなものが脳内を占拠して、すぐさま自分の感情を抑制しようとする。刹那のうちに、心の中では何人もの私が生まれ、数十手もの攻防があった。
この男に囚われてはだめ、という理性的な私と。
このまま流されてしまえと言う、不埒な私と――
「デボラ」
「――」
その逡巡が、わずかな隙を生んだ。
気づけばそのまま公爵が私を組み伏せる形になり、身体の芯が発光するように甘く痺れた。
公爵の唇と私のそれが、一つに重なったのだ。
え?
どうして?
なんで?
何ゆえ私は大嫌いなこの男にキスされてたりするの?
まず頭に浮かんだのは大きな疑問符で、抵抗することすら忘れていた。
だってこんな展開、ありえないでしょう。
私は初夜を無視され、放置プレイされ続けた妻なのよ?
それなのに……。
それなのに……。
だけど動揺している間にも、口づけは徐々に深くなっていく。
公爵が少し顔を傾け、私の唇を軽くついばんだ。
鳥肌が立つ。
甘い体臭が、かすかな汗に混じって鼻先を漂いだした。ほんの少し我を取り戻した私は公爵の胸板を両手で押し返すけれど、全然びくともしない。
――いや、これはちょっとヤバいかもしれない。
ふと直感的に思う。
何がヤバいって?
……わからない。
でも多分このヤバさを予感していたからこそ、私はいちいちこの人の一挙手一投足に動揺していたのだ。
金の瞳に囚われそうになり――私の頭の奥でぱちりと小さな炎が爆ぜる。
『デボラ姉様、早くあの憎い公爵を殺してよ』
(――!)
だけど強引な公爵の振る舞いに流されそうになった私を現実へと引き戻したのは、先ほど夢に見たセシルだった。
私は立ち返る。本来あるべき私の姿に。
………ああ、ダメだ、私、こんなんじゃ。
ちゃんとセシル達の無念を晴らさなくては。
そのためには目の前の男の色香に流されている場合じゃない――!
なけなしの理性をかきを集め、私は公爵の腕の中から逃げだそうと試みた。
腕力で構わないなら……と、
――がりっ!
重ねられている唇に思いきり噛みつく。
刹那、弾かれるように公爵の体が離れ、私は封じられていた声をやっと取り戻すことができた。
「おやめ下さい……!」
「………っ!」
それでも恐怖で声がわずかに震えたのは許してほしい。
だってこんな艶っぽいシチュエーション、全く予想していなかったんだもの。
私は公爵の眼中にない女。
今までも、そしてこれからも、そうじゃないと色々困る。
「…………」
一方、私に噛みつかれた公爵は唇から血を流し、それを指で拭い取っていた。
まさかここまでの拒絶を受けると思っていなかったのか、私を一瞥する視線は恐ろしく冷たい。
公爵は私のベッドから離れると一言、
「……興醒めだ」
「!」
と捨て台詞を残して、あっという間に部屋から出ていった。
カツカツと遠ざかる靴音。
続いて私の部屋に誰かが入ってくる気配は――皆無。
はぁ……と、私は肺の空気全部を押し出すような長い溜息をついた。
良かった。
マジで安心した。
案外あっさりと、公爵が立ち去ってくれて本当にラッキー。
それになんだかんだと貞操もしっかり守れたし。
あのままなし崩し的に公爵の妻になっていたら、私は自分で自分を許せないところだった。
「あ………」
緊張が解けたからか、いつの間にか私の眦から、つぅ、と一粒の涙が流れた。
それは安堵の涙なのか、それとも悔し涙なのか、それともその両方なのか、自分自身でもよくわからない。
ただ確かなのは、公爵はこれからも私の敵だということ。
私の大事な家族を「邪魔だった」と断言したことは、絶対に許さない。
(やっぱり私の記憶が一部分欠如しているのは、セシル達を失ったショックが大きすぎたせいよ。つまりこの不安定な状況は、全て公爵のせい。何より優先すべきは彼への復讐……)
そうして今夜、私は誓いを新たにする。
記憶が不確かな悲しみや不安を凌駕するのは、激しい怒りと憎しみの感情だった。
ぬるま湯に浸かって消えかけてた火種が、図らずも公爵自らが再び着火してくれたおかげで、再び燃え始める。
何か目に見えない力が背中を押し、私を前へ前へと急き立てていた。
訳のわからない苛立ちが思考を蝕んで、胸をかきむしりたくなるような衝動へと繋がっていく。
(今夜のことはただの公爵の気まぐれ。私は決して妻として愛されることはない……)
それは今までもこれからもずっと変わらない真実。
血の味しかしない口づけが、私と公爵の関係を物語っていた。
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