第22話 空白の記憶
『学園生活』と聞いて真っ先に頭に浮かんだのは、制服を着て満員電車で通学した、前世の記憶。
あの頃は確かに、友達と呼べる友達がいた。
乙女ゲーを愛する私はいわゆるオタクで、クラスの中では地味グループに所属していた。だけどそれでも趣味の合う友達がいて楽しかった。
あのツンデレキャラのルートが最高だったとか、推しメン声優のライブに行きたいとか、いつもくだらないことで友達と盛り上がっていたような気がする。
それは朧気で、今となっては遠い記憶。
自分の名前も、友達の名前も思い出せない。
だけど確かに存在した、ある女子高生が送った平凡な日々。
けれど転生したこの世界での記憶と言えば。
真っ先に思い浮かぶのは、私を実の子のように可愛がってくれた叔父様夫婦と従兄弟のセシルとの思い出だけ。
家族が仲良く暮らしていたあの幸せな日々だけ。
それ以外が全て空白だ。
デボラ=デボビッチの人生を一冊の本に例えるとするならば、まるでそのページ以外は全て綺麗に破り捨てられているかのように――
「デボラ様……っ!」
「――っ!」
――ガシャンッと、カップが割れる派手な音がして、私の意識は現実に舞い戻った。
気づけば斜めに傾いだ体を、イルマにしっかり支えられている。
「ご、ごめんなさい、少しぼうっとして……」
「お加減が悪いのではないですか? ひどい顔色です」
椅子から落ちそうになっていたところを何とか踏みとどまり、改めて座り直した。
だけど指先の震えが止まらない。
呼吸が浅い。
心拍が乱れる。
まるで自分の足元がガラガラと崩れるような……そんな正体不明の不安に襲われた。
「やはり顔色が悪すぎます。エヴァ、ラットン先生を呼んできて」
「は、はい……っ」
「レベッカはデボラ様のベッドのご用意を」
「か、かしこまりましただ!」
私の様子がおかしいのに気付いて、すぐにイルマが適切な処置をとってくれた。私はフラフラの状態でなんとか寝台に辿り着き、イルマに手伝ってもらって寝間着になる。
その後、公爵家の侍医であるラットン医師が私の様子を診に来てくれた。私が突然体調を崩したため、イルマやエヴァ・レベッカが、とても心配そうな顔をしている。
「ふぅむ、少し脈が乱れておりますな。熱はございませんが、突然体調が崩れたのは、精神的に何かストレスがかかったせいかもしれません。本日はゆっくりとお休みになられたほうがよろしいでしょう」
「ラットン先生、ありがとうございます……」
そう返事するだけで、私的にはいっぱいいっぱいだった。
曖昧な記憶の原因を探ろうとすると、なぜか頭に靄がかかる。
ぐるぐるぐるぐると頭の中で雑念という雑念が、渦を巻く。
うーん、一体何なのかしら、これは?
何か良からぬ予感がして、私の具合はますます悪くなる。
「デボラ様、どうか深く考え込まないで、今はゆっくりお休み下さい。こうして私達がデボラ様のそばに控えておりますから……」
「イルマ……」
私の心を見透かすように、イルマは優しく微笑んだ。
――お前は一人ぼっちじゃないよ。
まるでそんな風に、言われたような気がする。
刹那、胸がジンと熱くなって、泣きだしそうになった。
おかしいな。私、こんなに泣き虫のはずじゃなかったのに。
気づけば私の口からは、自然とある言葉が零れ出ていた。
「ありがとう、イルマ。みんな、大好きよ……」
それを聞いたイルマ・エヴァ・レベッカは顔を見合わせ、そしてすぐに照れ臭そうに笑った。
この時の私、多分自分が思う以上に弱気になっていたんだと思う。
だからつい隠しておかなければならない本心が、口を突いて出ちゃったんだわ。
(バカね、この屋敷の人達を好きになってどうするの? 私はいずれこの人達から蛇蝎のごとく嫌われ、この家を追い出されるべき人間なのよ。それなのにどうして……)
正直、近づきすぎた……のだと思う。
悪魔公爵の使用人なんて、私に冷たく当たってくれれればそれでよかったのに。
だけどイルマ達やハロルド、みんなは意外にも私に好意的で優しかったから。
それが思いのほか嬉しかったから。
いつの間にか私のほうも、彼女達相手に気を許してた。
でもいつか崩れるだろうこの関係が切なくて、苦しくて、私はそっと目を閉じる。
そして真っ暗闇の向こうに見えたのは――過去の悪夢そのものだった。
× × ×
暗闇の中に、誰かがいた。
漆黒の中でもはっきりとわかる、美しい金色の髪。
『ねぇ、デボラ姉様……』
後ろ姿だけで分かる。
私の大事な従弟。まるで本当の弟のように大好きだった……セシル。
美しい楽器のように響くのは、天使のようなボーイソプラノ。
セシル、あなたはちゃんと天国に行けたかしら?
たった13歳で死んでしまったあなたのことを思うと、今でも涙が止まらない。
『ねぇ、姉様、あなただけがなぜ、そんなに幸せそうなの?』
え? 幸せ? そんなはずはないわ。
だって私は復讐に生きる女。
破滅フラグをひた走り、いつか悪女となる女。
だから幸せになんかならないわ。
いいえ、幸せになんか、なっちゃいけない……。
『だよね? 姉様は僕達のこと、忘れたりなんかしないよね? 僕楽しみにしているよ、いつか姉様が僕達と同じ地獄に墜ちてくるその日を』
……地獄?
セシル、あなたは今、地獄にいるの?
どうして? あんなにも明るくて素直で、みんなから好かれていたあなたが……。
夢の中に現れたセシルは私のほうを振り向くと、いつものあの柔和な微笑を浮かべた。
『デボラ姉様、早くあの憎い公爵を殺してよ。でないと僕達は報われない』
セシルは私の手を握り、まるでキャンディをちょうだいという気軽さで私に懇願してきた。
わかっている。わかっているわ……。
従順に頷くものの、私の心はキリキリと悲鳴を上げている。
そうしている間にまた頭がぼんやりとしてきて、まともな思考ができなくなる。
……まるで何かの催眠にかけられたかのよう。
セシルの声が繰り返し、反響し、私の体と心を呪縛する。
『だぁい好きだよ、デボラ姉様。例えこうして離れ離れになっても、僕達の心は二人で一つ……。どうかそれを忘れないで?』
セシルの言葉は甘い毒のように私の血管に流れ込み、細胞レベルで奥深いところに根付いていく。
そうね、セシル。セシルの願い事ならば、どんなことでも叶えるわ。
そのためならば私は、全てを失っても構わない。
だってあなたは私の大事な家族。
お父様とお母様が亡くなった後、孤独な私を支えてくれた唯一無二の――
『………ラ』
その時ふと、暗闇の向こうから、誰かの声がした。
『デ……ラ……』
………誰?
私はその声の主を探すため、目の前のセシルの亡霊から意識を逸らす。
『デボラ……』
この腹に立つほどのイケボは――まさか公爵?
気づいた途端、目の前に広がっていた暗闇に光が差し、セシルの姿が一瞬で掻き消えた。
『デボラ』
「カイン……様?」
そして私は天から降ろされた蜘蛛の糸に縋るかのように、男の名前を呼ぶ。
憎くて憎くてたまらない。
今では私の存在意義となっている、その人の名を――
「目覚めたか」
「……………」
めっちゃ上から見下ろされてる。
瞼を開いた直後に視界に入ったのは、私の枕元で腕組みしながら仁王立ちする公爵の姿だった。
つか、真っ暗闇の中に真っ黒な公爵に無言で立たれていると、マジでビビるんですが。
時間的にもう真夜中過ぎなのか、辺りに人は見当たらない。赤々と灯るランプだけが、公爵の端正な横顔を照らしていた。
「魘されてたな」
「………え?」
「何か嫌な夢でも見たか」
「――」
問われて、私はまだ自分の意識がまどろんでいることに気づいた。
嫌な夢……。
――嫌な夢?
いいえ、そんなことあるはずがないわ。
だって夢の中に出てきたのはセシルだったんだもの。
夢の中とはいえ、もう一度あの子に再会できた。
だから悪夢のはずがない……。
悪夢なんかじゃ……ない――
「いいえ、少し……昔の夢を見ていました」
「昔の夢?」
「まだ幸せだった頃の……」
「――」
答えると、公爵はわずかに眉宇を寄せ、何やら深く考え込む。その仕草を見上げながら、私も問うた。
「そういうカイン様こそ、なぜ?」
「ん?」
「なぜここにいらっしゃるの?」
「……」
イルマやエヴァ、レベッカはどこに行ったのかしら。
よくよく考えれば、夜に公爵が私の部屋を訪れるなんて初めてのこと。
そう意識した途端、なぜだかそわそわと落ち着かない気分になる。
「イルマがおまえの様子がおかしいと。それで様子を見に来た」
「イルマが……」
「そうしたらお前が何やら寝言を呟いていた」
「寝言?」
「苦しそうに、セシル、と」
「……!」
あら、いやだ。夢の内容を声に出してた上に、ばっちり他人に聞かれるなんて。しかもその相手が公爵なんて、ばつが悪いったらありゃしない。
「苦しくなんてありません。だってセシルは私にとっては本当の弟同然。夢の中でもあの子に会えて幸せ……」
「………」
「幸せな、はず……」
公爵から目を逸らし、私は虚空を見つめながら自分に言い聞かせるように呟く。
それでも心の奥底に根付いた不安は晴れない。
まるで今にも泣きだしそうな臆病なもう一人の私が、心のどこかに存在する。
だって私には記憶がない。
本来なら存在すべき、セシル達家族以外の記憶が。
もしかしたらセシル達を失ったあの火事の後遺症で、何か障害が出てるのかしら。
家族の死がショッキングすぎて精神的に負荷がかかった。だから記憶の一部が欠如している。
うん、これが一番しっくりきて、説明がつくような気がする。
でももしそうだとしても、私は一体何を覚えて、何を忘れているの?
自分という人間の輪郭があやふやになるような感覚に襲われて、私は柄にもなく弱気になっていた。
「……カイン様」
「ん?」
「私、今日エヴァに質問されて気づきました。私にはマーティソン家のことしか記憶がない。それ以外は何も……。ウィルフォードに通っていた記憶も、子爵令嬢として夜会に出席した記憶も、まるで最初から何もなかったかのように、真っ白なのです」
「……」
だからかもしれない。公爵にこんなことを打ち明けてしまったのは。
視線を逸らしたままだから、公爵の表情を見ることはできない。だけど私が言葉を発した瞬間、公爵の纏う空気が少し変わったような気がした。
「以前もお話ししましたわよね。私はカイン様と初めて会った時の記憶がない……と」
「……」
「そもそも記憶がないのではなく、私が忘れているとしたら? 私、何か大事なことをどこかに置いてきているような……」
「大事なこと?」
「わからない。それさえもわからないのです……」
「……」
私は自分の体を抱きしめるような形で、ベッドの中で丸まった。
………一体何だろう。
まるで危険な綱渡りをしているかのような、この不安定な精神状態は。
あっちにゆらゆら、こっちにゆらゆら。
記憶というファクターが抜け落ちてるせいで、うまくバランスを保てない。
一歩足を踏み出せば、真っ逆さまに奈落へと落ちる。
……そんな絶対的な恐怖心が、私の心を支配する。
もしも大事なことを忘れているとしたら思い出したい。
でも恐ろしいから思い出したくない。
私の心の天秤は、揺れて、揺れて、揺れ続けて、このまま壊れてしまいそうだ――
「――デボラ」
「!」
不意に頭上に影ができ、ギシリと私以外の重みがベッドにかかった。
慌てて振り返れば、すぐ至近距離に公爵の綺麗すぎる顔がある。
……え
……ちょ、
……ち、近すぎるんですけど?
気づいた時には公爵は私との距離を詰め、ベッドに腰掛けながら私の上に覆いかぶさっていた。
私はぱちぱちと瞬きを繰り返し、硬直する。
ゴクリと喉が鳴り、私はその音にすらびくりと身を竦ませた。
「家族以外のことは忘れた……か」
「あ、あの、カイン……様?」
「ま、それもいい」
そして公爵は微笑んだ。
本物の、悪魔のように。
それは今までほとんど見せなかった、残虐で冷徹な極悪な笑顔――
「あんな目障りな家族のことなど、どうでもいい。デボラ、お前は今や俺のものだ」
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