第5話 初夜は危険な香り



 屋敷に着いた時にパラパラと降り始めた雨は、夜になる頃には激しい嵐になっていた。窓際にバシャバシャと激しい水しぶきが打ち付ける。湿り気を帯びた冷たい空気が深く、肺の奥底まで染み入ってくる。

 

「デボラ様、こちらにどうかご署名を」

「……」


 食事が終わった後、筆頭家令であるハロルドとメイド長のマリアンナが二人そろって私の部屋を訪ねてきた。

 目の前に差し出されたのは婚姻誓約書。すでに公爵は署名済みだ。この横に署名すれば、私は公爵との結婚に同意したことになる。

 

「ここに記入すればいいのかしら?」


 わずかに指先が震えたけれど、必死に悟られぬよう気丈に振舞い自分の名を記入した。

 ヴァルバンダ王国では通常、貴族の結婚には国王の許可が必要となる。誓約書は通常同じものが4通用意され、一通は夫、一通は妻が管理し、さらに一通は王宮へと届けられ、最後の一通はヴァルバンダ正教会総本山へと届けられる。国王と教会の許可を得られて、初めて婚姻が成立するのだ。

 ……と言っても、この流れは形骸化しており、誓約書はほぼ中身を吟味されず通過することになるだろう。公爵が何度も結婚を繰り返せるのは、この杜撰な婚姻制度のせいでもある。


「おめでとうございます。改めましてデボラ様をこうしてお迎えできたこと、またとない僥倖と、使用人一同深く感じ入っております」

「おめでとうございます、デボラ様」

「おめでとうございます」

「……ありがとう」


 ハロルドやマリアンナ、イルマ達の祝いの言葉も、空々しく感じられた。大体花婿である公爵の同席なしで、書類にサインしろって言われてもね……。持参金のない私とは結婚式も挙げないようだし、これで感動しろってほうが無理。


「では就寝までまだ多少の時間があります。イルマ、デボラ様のお支度、任せましたよ」

「畏まりました」


 ハロルドとマリアンナは署名済みの婚姻誓約書をもって、部屋を下がっていった。柱時計を見ると、時間はちょうど20時を回ったところだ。


「ではデボラ様、湯浴みの用意が整ってございます。ささ、どうぞこちらへ」

「あ、湯浴みね、湯浴み……。ひ、一人で大丈夫だから……」


 イルマ達に浴室へといざなわれたけれど、私は尻込みしてしまった。

 うん、覚悟はしてたけど、やっぱ貴族の入浴って、メイド達に手伝ってもらう……のよね? ぶっちゃけ、位がそう高くない子爵家では、お風呂は一人で入れるからって、手伝わせたことないのよ、私。

 もちろん本物の貴族は使用人に肌をさらすことは何とも思わない、むしろ羞恥心のなさが高貴の証だって何かのマンガで読んだけど。私は前世ではコテコテの日本人。温泉でもないのに、一人だけ裸になるのは、やっぱり恥ずかしい……。


「そういう訳には参りません。私共には腕によりをかけて奥様を磨き上げねばならない使命がございます」

「今夜はとっておきの薔薇風呂をご用意致しました! アストレー山からわざわざこの屋敷まで引いてきた温泉なので、お肌もつるつるピカピカになりますよ!」


 にっこりとアルカイックスマイルを浮かべるイルマと、無邪気なエヴァ。そして相変わらず無言を貫くレベッカ。

 一対三で、勝てる見込みなどあるはずがなかった。私はそのまま力ずくで浴室に連れていかれ、あっという間に裸に剥かれて浴槽へと放り投げられる。

 唯一の救いは、湯船に浮かべられた薔薇の花びらが大量で、思ったよりも体を隠せることだ。湯加減もちょうどよい。甘い薔薇の香りが強くて、頭がぼんやりしてくる。


「デボラ様のお肌、とっても綺麗ですね! きっと公爵様もお喜びになられます!」

「(い、いや、喜ばなくていい……)」


 一方的に体を磨き上げられる羞恥に耐えながら、私はもうどうとでもなれと開き直った。背後から温かな湯をかけられる。イルマ達が一瞬手を止め、私の背中を改めて凝視した。醜い火傷の跡。体が火照っているから、いつもより赤く充血して見えるだろう。


「汚いものを何度も見せちゃってごめんなさいね」

「い、いえ、とんでもございません!」


 イルマは止めていた手を再び動かし、私の髪を丁寧に洗ってくれた。

 恥ずかしい。でも気持ちいい。エステに通うセレブ気分を味わいながら、私は大きく息を吐く。


 ――決戦はこれからよ、デボラ。気を引き締めていきましょう。


 心の中でそっとつぶやく。

 湯船に浮かべられた薔薇の赤。それは私には、まるでこれから流れるだろう血の色に見えた。




             ×   ×   ×




「ではおやすみなさいませ、奥様」

「おやすみなさいませ」

「お、おやすみなさい……」


 時計の針が22時を回る頃、ようやく私の初夜の支度が整った。いわゆる男が好きそうなセクシー系ネグリジェを着せられ、うっすらと化粧も施された。枕元に置かれたランプからは、何か官能的な香りが立ち上っている。いかにも『さぁ、存分におヤりなさい!』と言わんばかりの雰囲気だ。


(ふ、ふん。別に怖くなんてない。初夜なんて大事の前の小事。大したことじゃないわ……)


 公爵家では妻である私の部屋へ夫である公爵が通って来るのだと、イルマが親切に教えてくれた。私はベッドの縁に腰掛け、臨戦態勢を取る。


(怖くない、怖くない……。満足して眠ってしまえば公爵にも隙が生まれる。その時が絶好のチャンス……)


 私は膝に置いた両手をぎゅっと強く握った。その様子を見て、退出しかけていたイルマが踵を返し、戻ってくる。


「デボラ様」

「…あ、はい」

「そのように不安にならなくとも大丈夫です。公爵様はお優しい方です。安心してお任せなさいませ」

「は、はぁ……」


 イルマは私をまっすぐに見て、ポンポンと私の手に手を重ねると、今度こそエヴァ達と一緒に退出していった。

 つか、優しい? あの公爵が? 冗談はあの極悪非道な顔だけにしてほしいんですけどぉ~~?


「はぁ……」


 一人部屋に残され、私の緊張は極限に達していた。頭の中ではこれから行われるだろうことがシミュレーションされる。

 まず大事なのは部屋を訪れた公爵を拒絶しないこと。とにかく夫である彼を受け入れ、油断させるのだ。


「そのためには××なことや△△なことも耐えてみせなくちゃ。平気よ、平気。私は稀代の悪女・デボラ=デボビッチ。男遊びなんて慣れてるわ。ホホホホ……!」


 あまりの緊張のせいで、いつの間にか思考が言葉になって出ていた。ベッドの上でポーズをとり、大見栄を切ってみせる。

 何度も言うようだが、私には前世の記憶はあるが、それは『きらめき☆パーフェクトプリンセス』というゲームにまつわることのみ。前世の自分が独身だったのか既婚者だったのかさえ覚えてない。

 まぁ、つまり知識はあっても、経験がないってわけよ。そこは17歳のデボラ素のまま。でもだからって、ここまで来て怯んじゃいられない。



「まずは凶器! 凶器になるものを探しましょう!」



 恐怖を振り払うように、私は大きな声で指差し確認し始めた。事が終わった後、油断した公爵を殺す。だけど以前計画したとおり、女の細腕で大の男を絞め殺すのは無理だ。実際公爵と私ではかなりの体格差がある。



「まぁ、これは立派な壺! この壺なら公爵の頭にジャストフィットしそうね!」



 私は鏡台の前に飾られていた中くらいの壺を手に取った。大きさも重さも手ごろでいい感じ。寝入った公爵の頭めがけて落とせば、血だるまになってくれること間違いなしだわ!


「これをこうして……」


 私は壺を担ぎながら、枕元めがけ壺を投げ落としてみる。


 ――ドスン。

 ――ドスン。


 あら、ちょっと勢いが足りないかしら。今度は頭上近くまで壺を持ち上げて思いっきり投げてみる。


「おぉぉりゃぁぁぁぁ―――!」


 重力に引かれ、壺はうまい具合に枕元に吸い込まれていった。

 う、うん、これだけスピードがあれば、公爵の頭蓋骨粉砕は間違いなしね!!

 もしかしたら私、前世ではボーリングの選手だったかも……と一人悦に入る。


「次に状況確認! 外は嵐! 公爵が悲鳴を上げても外には漏れない。つまりすぐに助けは来ないってことね」


 私は壺を元の位置に戻して、再び指差し確認した。まさに犯罪を犯すには絶好のシチュエーション。私の殺人計画は、一歩一歩完璧に近づいていく。


「ただ壺で息の根を止められない可能性もあるわね。その時はどうしよう……」


 仕留め損ねた場合のプランBも、もちろん考える。私は机、寝台の下、衣装棚の中など探ってみるが、刃物系はやはりどこにもない。と、なると……。


「体格差はあっても、虫の息になった公爵なら何とかなりそう。例えばこのカーテンを引き裂いてロープにして絞め殺すってのはどうかしら?」


 私は雑巾をきつく絞るように、カーテンをぎゅっと強く握ってみた。

 あ、でもこのカーテン、とっても高そう。引きちぎったら、あとで賠償請求が来るかも……などと、ふと殺害後のリアルな事情なども考える。

 なんだか通常じゃない事態に身を置いているせいか、テンションの上がり方が半端ない。アドレナリンが出すぎて、暴れ狂うリビドーが止まらない。


 ――コトリ。


「!!!!!!!!」


 その時ふと、廊下から物音がした。

 嘘っ、まさか誰かに見られた?

 私は慌てて忍者のような素早い動きで扉に近づき、息をひそめる。


(ちょっと調子に乗り過ぎた? ひとり言も声が大きかったかも……)


 今更ながら間抜けな自分の言動を後悔しつつ、ゆっくりとドアノブを回してみた。

 おそるおそる廊下を覗き見すれば、そこには真っ暗闇が広がるだけ。

 人っ子一人の気配もなく、ただ嵐の轟音だけが静かに不気味に響いているだけだ。


(はぁ、よかった。気のせいか……)

 

 ホッと胸をなでおろし、慌ててベッドへと戻る。壺、窓の外、カーテン、ともう一度指差ししながら状況確認。よし、カイン=キール殺害計画は、ほぼ完璧にイメージできた。そしてアドレナリンの減少と共に、アストレーの冷え込みの厳しさが私を襲った。


「ちょっと寒いな……」

 秋の終わりとは思えないほどの気温の低下。暖炉に火は入れられているけれど、ベッドからは遠い。対して目の前にはいかにも高級です!と言わんばかりのふわふわのお布団。公爵が訪れる気配は、まだ、ない。


(ちょっとだけならいいか……)


 どうせこの後、このベッドの上で、公爵にあんなことやこんなことされちゃうんだから……くそぅ、屈辱……と歯噛みしつつ、私はいそいそと布団の中にもぐりこんだ。

 うわ、めちゃくちゃ温かいわ、この中。日本の炬燵を思い出す。よく見れば布団の中には湯たんぽのような、温められた石が入れられていた。きっとイルマが事前に用意してくれたのね。中々優秀なメイドだわ。グッジョブ!


(あったかぁい、ポカポカ。そうよねぇ、ここ日本で言えば北海道だもんねぇ。関東育ちの私にこの寒さは堪えるわぁ……)


 若干前世の記憶も混ざりつつ、不覚にも私の意識は急速にまどろんでいった。

 言い訳をさせてもらえれば、長旅が続いて心身ともに疲れていた。初めて公爵と会って、大きなストレスも抱えていたし!



 てなわけで、気づけば私はいつの間にか夢の世界へと旅立っていた。

 外で吹きすさぶ嵐の轟音も聞こえないほど、深く……遠く。


 ――もちろんこの後、完璧だったはずのカイン=キール殺害計画が頓挫したことは……言うまでもない。



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