第2話 いざ敵地へ

 


 ――『お前は本当にそれでいいいのか?』


 誰かが、私に問う。

 あれはいつのことだっただろう?

 覚えていない。

 もしかして子供の頃の記憶だろうか?

 それとも遠い前世の記憶だろうか?

 それさえも、もはや曖昧だ。


 ――『お前は本当に今のままでいいのか?』


 再度、誰かが私に問う。

 私は答える。

『これでいいのだ』……と。

『今のままでいいのだ』……と。

 そう微笑めば、また悲しげな声で問いかけられる。


 ――『ならばなぜ泣いている?』


 泣いている?

 あの時私は、泣いていたのだろうか?

 なぜ泣いていたのだろうか?

 そして誰の前で泣いていたのだろうか。

 思い出せない。

 思い出したくない。

 もうこれ以上、傷つきたくないの。

 お願い、だから私を放っておいて。


 ――『泣くな。泣かせたかったわけじゃない』


 気づけば、温かい指先で涙をぬぐわれていた。

 大きな手。

 そして温かい手。

 なぜか、ホッとしたことだけは覚えている。

 

 ――『必ず助けにこよう』


 その人は私に約束してくれた。

 まるでヒロインを救うヒーローみたいに。

 まるでお姫様を迎えに来る王子様のように。

 嬉しくて、恥ずかしくて、私は涙交じりに少し笑った。


 ありがとう。

 でも助けなんていらないわ。

 迎えになんて来なくていいの。

 だって私は今のままで十分幸せだから。


 ありがとう、名前も知らない夢の人。

 私を気にかけてくれて嬉しかったわ、姿も知らない夢の人。

 

 私はこれから、正真正銘の悪女になります。

 だからあなたにお会いすることは、もうないでしょう。

 願わくば、どうか優しいあなたに醜くなった私の姿を見られませんように――





                ×   ×   ×





「本当にそれだけでよろしいのですか?」


 早朝。

 私を迎えにやってきたデボビッチ家の家令・ハロルド=カッシングは困惑気味に私に尋ねた。

 私が手にしているのはトランクバスケット一つだけ。中に入っているのは数枚の着替えと、わずかな日用品。子爵令嬢の持参品がこれだけなんて、確かにみすぼらしいことこの上ない。だけどこれが私の持っている全てなのだ。


「申し訳ございません、ハロルド様。他の物は全て火事で焼けてしまったのです」


 粛々と頭を垂れれば、ハロルド=カッシングはハッと表情を変え、憐憫のまなざしを私に向けた。今度は向こうが頭を垂れ、


「いいえ、こちらこそ気遣いが足りませんでした。改めてご家族のご逝去、心よりお悼み申し上げます」


 と、言葉を継ぎ足し。


「また私のことはどうか、ハロルドとお呼び下さい。デボラ様、あなたは当家の新しき奥方様となられるのですから」

「……わかりました。ありがとう、ハロルド」


 私はハロルドに促され、十日ほどお世話になった病室を後にした。

 窓から見える青空には、白い三日月がうっすらと浮かんでいる。それはまるで、私の心に深く刻まれた爪痕のようだった。








 私は長く暮らした王都を後にし、デボビッチ家の領地・アストレーに向かうことになった。アストレーは王都の北に位置し、馬車で約一週間ほどかかる。広い国土を持つヴァルバンダ王国の中でも、僻地と言える場所だ。


(大体日本で言えば、東京から北海道くらいの距離かしら? 確かそんな設定だったような気がする……)


 馬車に揺られながら、私はぼんやりと考える。華々しい王都から半日も離れれば、周りの景色は寂しいものとなっていく。季節は秋から冬へと変わるところ。馬車道を覆いつくしているのは、大量の枯葉だ。


「デボラ様、慣れぬ馬車での旅、お辛くはございませんか? 何か不快なことがございましたら、遠慮なくお申し付け下さいませ」

「ええ、大丈夫です、ありがとう」


 旅の途中、ハロルドはこちらが恐縮するくらい、私を気遣ってくれた。これが悪魔と噂される男に仕えている従者かと、目を瞠るくらい。

 だけどごめんなさい、ハロルド。いくら優しくされても、私の決心は変わらないわ。

 今あなたの前にいるのは、あなたの主を殺そうと虎視眈々と企んでいる女。

 いずれあなたも私を憎み、軽蔑するようになるでしょう。

 胸が痛まないと言えば嘘になるけれど、来たる日のためにハロルドともちゃんと距離を置かなくては。

 私の復讐は、すでに始まっているのだ。馴れ合いなど、最初から必要ない。









(さて、問題はどうやってアストレー公爵を殺す、かよね……。前世でも私、殺人なんてしたことない一般庶民だったし……)


 アストレーに向かう途中、私はいくつかの宿場町に停泊した。事前に手配されていた宿屋は、いずれもその町の最高級の宿屋で、私にはもちろん個室が用意されていた。

 私はベッドの上で正座し、腕を組む。トランクバスケットを机代わりに、殺人計画を立て、メモを取っていく。


(まずか弱い女の手で直接男の人を殺せるかって問題があるわよね。確か公爵は現在28。デブだかハゲだかチョビ髭だか、どんな男なのか知らないけど、女の私が素手で成人男性を絞め殺すのは、ちょっと無理がありそう)


 トランクバスケットに入っていた大量の書類の裏に、『絞殺・現実性薄』と書く。悲しいかな、私が思いつく殺人ネタなんて、所詮この程度。転生しても、知能レベルは前世から全く変わってない。


(あとは毒殺、撲殺、刺殺……。手段は色々考えられるけど、一番大事なのは確実に殺すこと……よね。公爵を殺した後、私は捕まるだろうから……)


 私は公爵を殺した後の保身は、全く考えていない。公爵を殺せばその罪で、おそらくは処刑になるだろう。そうなると悪役未亡人は『きらめき☆パーフェクトプリンセス』が開始する前に退場することになってしまい、ゲームの世界線とは異なってしまうかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。今の私が最も優先すべきは、家族を殺した男への復讐なのだ。

 でももし殺害に失敗した場合、私の復讐は遂げられず、しかも公爵は生き残り、私だけが死ぬという最悪の展開になってしまう。それだけは絶対避けたい。だからこそ確実に、殺せる時に殺さなければ。


(あと問題は凶器、もしくは毒殺用の毒をどこで調達するか。できればアストレーに着く前に何とか手に入れたいけれど……)


 私は『凶器か毒→要調達』『公爵は多分チョビ髭』と新たに走り書きしながら、殺人計画を練る。

 宿場町に逗留している間、何度かこっそりと街に出られないか試みたりはしたけれど――


「いかかがいたしました? デボラ様。何か御用があれば何なりとお申し付け下さい」

「い、いえ。退屈がてらちょっと宿の中を見て回っていましたの。ホホホホホ……」


 同じ宿屋にはあのハロルドがおり、さらに屈強な体をした護衛が数人雇われて人の出入りを厳しくチェックしていた。

 というか、もしかしてこれって、私が逃げ出さないように監視している?

 確か公爵は今までに何人もの妻を娶り、その全員が亡くなっているはず。もしかしたら歴代の妻達も、逃げたくてもこんな風に監視され、逃げることができなかったのかもしれない。


(やっぱり信じられないほどの悪人ね、カイン=キール=デボビッチ。絶対にこの手で殺さなくっちゃ……!)


 私は誓いを新たにし、ぐっと拳に力を込める。

 だけど結局監視の目をかい潜ることはできず、アストレーに着くまでの七日間は、何を成し遂げるわけでもなく無意味に過ぎていった。










 アストレーについてまず最初に目に入ってきたのは、見渡す限りのパノラマの水面だった。浜に打ち寄せる波はオレンジ色の光をたゆたわせ、輝きを散らしながらゆっくりと消えていく。

 ――北の海。僻地であるはずのアストレーは、予想以上に発展した港町だった。その賑やかさに、今まで馬車の中で大人しくしていた私も、大きく身を乗り出す。


「あ、あれ……!」


 窓から見えるのは、王都ではめったに見かけない異国風の人々だった。基本西洋人が多いこのゲームの中で、中華系や東南アジア系の人がいるのは珍しい。町の中央を走るメインストリートを境に東と西で大きな市が開かれ、そこにたくさんの人が集まっているようだ。


「アストレーを支えているのは主に貿易産業です。王都からは離れていますが、アストレーには大きな港があり、その恩恵で様々な国の商人や船乗りが集まっているのです」


 物珍しそうにキョロキョロする私に、ハロルドは丁寧に説明してくれた。

 正直意外だった。北の僻地と聞いて、もっと廃れた町を想像していたから。でもこれだけ大きな港があれば、発展するのもわかる。領地が栄えているということは、公爵家の力も強大ということだ。



「きゃあぁぁぁーーっ、兄さん――!!」

「!?」



 その時、不意に女性の悲鳴が聞こえてきた。東の市場――イースト・マーケットと書かれたゲージの奥にたくさんの人が集まり、何やらざわめいている。


「何かしら、あの人だかり……」

「様子を見て参ります。デボラ様はしばしここでお待ちを」


 ハロルドは馬車を沿道に停めさせ、何が起きているのかを確認しに行った。一人馬車に取り残された私は、そわそわと落ち着かない気分になる。



「いや、やめてください! お願いです。何でも言うことを聞きますから……っ」

「!」



 その間もマーケットから女性の悲鳴は続いていて、気づけば私は扉に手をかけていた。少し高めのタラップに足をかけ、トン、と地面へ降りる。


「デボラ様、危のうございます。馬車の中にお戻りを」

「す、すぐに戻りますから……!」

「あ、デボラ様!」


 馬車の周りには護衛の人がついていたけれど、まさか私が突然降りるとは思っていなかったのか対処に遅れた。私は人だかりに向かって走り出し、ハロルドの姿を探す。


「ハロルド? どこにいるの? 一体何が起きたの?」

「兄さん……兄さん………!」

「!?」


 右も左もわからないマーケットの中で、私はトラブルが起きているだろう現場に近づいていった。両手で人波をかき分け、何とか前に進む。するとある小さな店の前にたくさんの野次馬が集まっていた。野次馬はひそひそと小声で、


「まただよ。公爵様の悪い癖が出た……」

「ありゃだめだ、ああなった公爵様は、誰にも止められねぇ……」

「!」


と囁き合っている。

 え? 今公爵様って言った? 私は目を瞠り、みんなが注目していてるほうへと視線を向けた。するとそこには道端で倒れている若い男性とそれを泣きながらかばう女性、二人の前に立ちはだかる全身黒ずくめの長身の男。さらに黒ずくめの男よりももっと大柄な戦士のような男が仁王立ちしていて、その後ろをあのハロルドが困ったようにウロウロしていた。



「カイン様、また街中でこのような騒ぎを……」

「……何か問題あるか?」

(――っ!)



 地の底から響くような低い声が、私の鼓膜を打った。

 私の立ち位置からは背中しか見えない。『カイン様』と呼ばれた男はレトロゴシックな黒のロングコートを羽織り、防寒用のケープを肩からかけている。髪の色は私にも劣らない漆黒。

 まさに、黒、黒、黒。全身黒づくめで、異様なほどの威圧感を放つ男。

 私の全身は総毛立ち、一気に喉がカラカラになる。


(まさか、この男が……)


 こんなところで出会う羽目になるなんて思ってなかった。

 これが私の家族を殺した男。

 そして私を妻にと望んだ男。

 カイン=キール=デボビッチ。

 『きらめき☆パーフェクトプリンセス』には一度も登場せず、これから死ぬ運命にあるだろう人――


「――」

「!」


 不意に、ヒュウと冷たい風が吹き、カイン=キール=デボビッチがその風に誘われるようにこちらに視線を向けた。

 


 ――長い前髪から見え隠れする瞳は、まるで猛禽類を彷彿とさせる、金色。



 悪魔と揶揄される引き籠り公爵は、やはり乙女ゲー世界の宿命なのか、かなり容姿端麗で。

 怜悧な眼差しは氷のように冷え冷えとしていて、見ている私の心まで凍らせた。




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