第一章
第三話 名前のない男 前編
グラム王国の遥か西方に位置するサルヒュート大草原。
そこは一面を緑の草原が覆う肥沃な土地で、季節の流れに合わせて生活様式を変える遊牧の民が住まう大地であった。彼ら遊牧の民は、魔導王が
だが、その大地は今、空を覆い尽くす暗闇に呑み込まれようとしていた。
一条の雷が天空の闇を割く。
暗闇に奪われた青空を取り戻すように。
さながら天を翔ける龍の如く。
しかし、その暗闇は光の存在を許さない。
支配権を渡す気はないと意思表示をするように。
雷の
「ふむ、やはり一筋縄ではいかぬか。しかし、知らせより僅かな時にてあれ程までの規模になるとは、魔獣グアヌブの時と同じであるな」
空を
「聖女の予言せし大災害。
神妙な面持ちのままヤンはさらなる魔導を練る。
空を掴むように両の手を
「寄りて寄りて集まり、喰らえ。
一際大きな
龍は通り道にある漆黒を白に染め、
だがそんな現象も
光すら
「付け焼き刃では無理、か。しかし、あれら全てが魔鳥となると少々骨を折るか。いや、大災害である以上あれの大本がどこかに在る筈である」
厳しい冬を目前に、吐く息も白くなる程の寒風が身を震わせる。
そんな中、独り
「ヤン導師、周囲の気温が下がっています。このまま魔鳥が増え続けて天空に座する日の恩恵が
「クイン導師であるか。ここも魔導が少なくなってきている。何か手を打たねばならぬであるかね」
ヤンは隣のクインに言葉を掛けると、思案する事になる。
白の衣に身を包んだ一団。
それは魔導王の力を連綿と受け継ぐ、グアラドラの導師の姿であった。
「遊牧の民には産まれ落ちた母なる大地を離れることで、辛い思いをさせることになる。王の言葉を頂ければ良いのであるが……目覚めはまだ先であるか」
地を這うだけで何も出来ぬ者たちを嘲笑うように、今もなお暗闇は空を喰いながら拡がり続けていた。
* * *
「お父さん、お兄ちゃんの姿が見えないんだけど、どこに行ったか知ってる?」
「知らん。あいつに構っている暇があったらお前も母さんの手伝いにいかんか」
熱気のこもる鍛冶場において、一心に
少女は髪を短く切りそろえていて、活発さを窺わせる。
大きな目は愛らしく父と呼んだ男とは似ても似つかないが、強い意志を秘めた眼差しは通ずるものがあった。
「もう!」
膨れたような表情でそう言い残すと、少女は足早に小屋を出ていく。
少女が探しているのは一年前村の外で行き倒れていた男だ。
ボロボロの風体に死んだような瞳をした男。
鍛冶場の男、テオの家も余裕がある訳ではなかったのだが、あのまま死なれても寝覚めが悪い。
一度家に連れて帰り、食べ物を与えて怪我の具合を見たらすぐに追い出そうとしていた。
しかしそうはならなかった。
男の様子を見ている内にテオの気まぐれが働く。
どこか
まだまだ若く、歳の頃で言えばテオの半分もいっていないような青二才が、まるで全てを悟ったように
半ば無理矢理ではあったがテオは男に義務という名の仕事を与えた。
対価は寝床としての納屋の使用と、日々の食事である。
男は多くを語らぬが、何があったのかは想像しようと思えば出来なくもない。
だが、テオは敢えて深入りしたり事情を聞く気もなかった。
最近では娘のマルクが懐いているようだが、それもただ見守るだけだ。
人生を生きるというのは人に与えられるものではないのだから。
そうして、男が村に来てから季節が一巡りしていた。
ここ一年で世界はがらりと変わってしまった。
ちょうど一年前の冬。
魔獣と呼ばれる存在があちこちで確認されるようになった。
野を駆ける獣と違い、生物が生来持つ生存本能とは明らかに違う人に対して害意を持つ存在。
子どもたちは森を恐れるようになったし、大人ですら日を生きるのに精一杯だ。
至るところで多くの者達が寄り添い生きる為に集団を形成していく。
周囲を森に囲まれたテオの暮らす村も、小さな村ではあったが村人達は互いに助け合い細々と生を繋ぐこととなる。
テオが拾った男は物静かで言葉を語ることをあまりしなかった。
未だ目に光は戻らず、テオから見たら生に頓着がなさそうにも見えたが、意外にも与えられた仕事は人一倍やった。
男は村の誰よりも働いた。
その理由をテオが知ることはない。
それが生きる為なのか、ただの惰性なのか。
男の名前を、テオはまだ知らない。
外から入り込んできた寒風が、季節の移り変わりを感じさせる。
生きる事の厳しさが身に
テオは作業の手を止め外に出る。
重そうな雲がどこまでも続き、灰色の空は心までも曇天へと
「雪が降りそうだな……」
そしてまた冬がやってくる。
* * *
「いた!」
嬉しそうなマルクの声が弾むように男の耳に届く。
森の中を通る川辺にその男はいた。
男は鍛えられた上半身を晒して、魚取り用の
季節として肌寒くはなっていたが、集中力を高めるためには肌が空気に触れていたほうが都合がいいのだろう。
男の身体には古傷と呼べるものが多く残っていたが、
水面に見える魚影を静かに狙い、構える。
そろりと水面に足を落とし、踏み入れる。
川の流れが波紋を見せ、魚影が動き出そうとする瞬間、マルクの目で捉えることの出来ない速さで銛が放たれる。
「マルク……」
男は銛を手繰り寄せ捕えた獲物を
「お兄ちゃん、凄いね!」
「そうでもない」
「凄いよ! お魚もそうだし、この前はおっきな猪も捕まえてたし」
興奮して熱を帯びたようにまくし立てて喋るマルクに、上着を着込んだ男は溜息をつく。
「マルク、ついこの間こそ、村の外に一人で来たら危ないと言ったよな?」
「大丈夫だよ、お兄ちゃんがいるし」
無邪気にはしゃぐ子供を前に、男はどうしたものかと頭を掻く。
「大丈夫じゃない、俺に会う前に魔獣と出くわしたらどうするんだ。お前に何かあったら、テオとシールが悲しむぞ」
「うーん。でも導師様達が魔獣をやっつけてくれるって、お母さん言ってたよ?」
導師という言葉に、男の表情が動く。
「導師様も今はやることが沢山あって大変なんだ、マルクもあまり心配を掛けないようにしないとな」
「うん。わかった!」
「いい返事だ」
男は作業を切り上げ少女に連れ立って村まで戻る事にした。
好奇心が旺盛な年頃なのだろうが、マルクは幼い。
魔獣はおろか野を住処とする獣ですら彼女に害をなすことは
マルクはそれでも男と居られるのが嬉しいのか、楽しそうにはしゃいでいる。
世界中で多く目撃されているという魔獣に男がこの森の中で出くわした事はないのだが、用心するに越したことはない。
怖いもの知らずのマルクに少し呆れながらも、男はテオにもう少し目を光らせるよう釘を刺しておこうと思った。
一昔前までならいいのだが最近はとかく物騒だ。
村に出入りしている商人に話を聞くと、魔獣の生息区域が日に日に大きくなっていると聞く。
森の獣ですら物によっては厄介なことこの上ないのだ。
考えれば考えるほどに男の頭は痛くなる。
マルクの父親であり、村の顔役でもあるテオとも相談をしたほうがいいのかもしれない。
今の時代いつ何が起こるのかわからない。
準備をしておくに越したことはないであろう。
前を歩くマルクが振り返り、花のような笑顔を見せる。
不思議なことにマルクは男とよく話をしたがった。
村には同年代の子供もいるのだが、なぜそんなにも話をしたがるのか不思議に思った男は、前に聞いたことがあった。
「だって、お兄ちゃんの周りには綺麗な蝶々さんがいるんだよ? 今日は蝶々さんいないのかな?」
「そうか……今日は少し寒いからな」
男はマルクが度々言う蝶というものを見たことがなかったので、あまり要領を得ない答えではあったが、子供の言うことだからと、あまり気にはしていなかった。
その時、繁みを掻き分け息を切らしながら村の男の子、オルフェが現れる。
オルフェはマルクと幼馴染であり、マルクと同じくよく男の傍にいた。
彼が男の傍に来る理由はマルクとは違うのだろうが。
「兄ちゃん! っとマルク、お前もいたのかよ」
オルフェの視線の行く先を見れば、どちらがついでかはすぐに分かったが、男はあえて素知らぬ顔をした。
「オルフェ、あまり騒ぐと森の獣に目を付けられるぞ。しかし、お前たちはもう少し慎重にだな」
「あーあー、それはもういいって、兄ちゃん! マルク、お前村を出ちゃ駄目だって兄ちゃんがいつも言ってるだろ!」
耳を塞ぐような動作をしながら、オルフェは男とマルクの周りをくるくると回る。
マルクはオルフェの言葉にも
「まったく、早く帰るぞ。テオに怒られても知らんからな」
諦めたように男は村へと帰ろうとする。
「蝶々さんだ!」
そんなことを言うマルクの声が聞こえた。
急に冷え込んだ大気のせいか、男の肌が総毛立つ。
──ドッドッ
その後すぐに、低い重心で走る音が地の振動とともに男の耳に伝わる。
「兄ちゃん!」
オルフェの焦った声が聞こえて振り返った時、男は目にする。
マルクに向かって走る猪を。
男の心臓が早鐘をつくように痛くなる。
手は震えていたが考えるより先に身体が動いた。
弓の
──ブギャァァァ
猪は地に突き刺さった銛に足を取られ、巨体を
勢いは止まらずマルクの眼前まで迫る。
男は力強く息を吐き出すと、一足で猪の進路に立つ。
地を穿つように右足を下に差し込み、身体を低く入れ込む。
猪の巨体を逸らすように質量の軌道を正中から上方に逸らす。
ガラ空きになった腹に短剣を差し込み、猪をそのまま宙へと投げうつ。
轟音と共に猪は血を流しながら離れた木に身体を委ね、背中を折るように激突する。
断末魔の鳴き声を残して、猪は動かなくなった。
放心しているマルクをオルフェが掴む。
「マルク!」
「つぅ……、思ったよりも何とかなるもんだな」
肩に痺れは来たが、流れに逆らわず何とか力の方向を変えられた。
圧倒的な質量を単純に逸らすというのは、やすやすと出来る事ではない。
長年かけて蓄積された四肢を自由自在に操る鍛錬があってこそだ。
いつのまにか男の手の震えは収まっていた。
男がマルクとオルフェを見ると、森の深い場所の危険性を再認識して反省をしたのか、身を
「ふぅ、お前たちのおかげで晩飯が増えたぞ」
男は二人の様子がおかしくて、笑い掛けながら早く帰るぞと手を振った。
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