第二話 導師 前編
「なんだこれは……」
目の前の光景に思わず息を飲む。
辺りは木々が薙ぎ倒され、血の匂いで溢れていた。
地面の至るところにかつて人であったろうモノが散乱しており、その空間は地獄を
男の名をサイという。
サイは、任務で王国の新兵の訓練に同行していた。
厳しくはあるが
肉体的な限界はあろうが、生死を彷徨うようなそれでは断じてなかったはずだ。
だが全てが一瞬にして変わってしまった。
まるで世界が丸ごと異質なものに変化したように。
最初はふとした異変だった。
サイはその日、食料調達班の見守り役として森の獣探しに同行していた。
気を付ける点はあれど通常であれば難しくもない任務だった。
だが、その日は獲物がなかなか見つからず、同行している班が山の奥にまで足を延ばした所から異変が顔を覗かせる。
それまでに何ヵ月も過ごしていたグラデウス山において、食料調達は日夜行っていた行為の一つにしか過ぎない。
班ごとに所属している新兵十五名に対して、正騎士も三名同行している。たとえ時間が掛かったとしても事が全うできないことなどない。
つい今しがたまでは。
「誰かいないのか!」
先ほどまでは確かに感じ取れていたはずの、人の群れが放つ
森を走り抜けた先でサイは開けた場所に辿り着く。
地に拡がる血痕の生々しさがさらなる惨状を物語る。
サイの額に嫌な汗がどっと吹き出てくる。
帯刀している剣の柄に手を当てると、サイは異常事態を感じ取り警戒を強めてゆく。
集中を高めていたサイの鼓膜へと、森の奥から獣のような音が届く。
即座に駆け出した先でサイは思いがけぬものに遭遇することになった。
「くそったれが……」
人が持つ根源的な恐怖を感じさせる巨大な腕が暗がりから現れる。その腕の先にあるのは、ぞんざいにぶら下げられた人間。
サイが耳にした獣のような声は、本来サイが守るはずであった者の声にならぬ叫びであった。
巨大な腕を持つ漆黒の化物は見習い騎士の頭を兜ごと潰し、中空に持ち上げる。
声はもう聞こえない。
残るのは異形なる化物の大きな一つ目だけ。爛々と
「うおおおおおおおっ」
班に同行していた正騎士の一人、騎士テレーゼが化物に向かって袈裟懸けに剣を斬りつける。
だが、テレーゼの刃はその化物の表皮一枚すら切り裂くこともできず甲高い音を響かせながら弾かれた。
まるで児戯でも眺めるようにその様子を見ていた化物は、赤く輝く大きな一つ目でぎょろりとテレーゼを見ると、口をくしゃりと曲げて嗤った。
瞬間、テレーゼの身体は猛烈な勢いのまま地面を転がる。
「がはっ」
見た目からは想像もできない速度で振るわれた化物の巨大な腕が、虫を払う様な容易さでテレーゼを弾き飛ばしていた。
三十歩は離れている大木付近にまでその身を打ち付けながら地面を転がるテレーゼ。
全身をしたたかに打ち付けた衝撃によって、テレーゼはそのまま動かなくなった。
それを見て満足したのか、化物は掴んでいた見習い騎士を大きく開いた口でむしゃりと喰らう。やがて興味を失ったのか、骸は地面にぞんざいに投げ捨てられた。嫌悪感を催す
「頭に来たぞ」
サイは冷ややかな表情のまま、懐から取り出した短剣を化物に向かって投擲する。
鋭く回転しながら風を切り音を鳴らす短剣。化物はそれを見て、巨大な姿からは想像できないほどの素早さでサイの投擲した短剣を弾き飛ばす。
「サイ殿、その化物には刃が通らぬ! 気を付けよ!」
「ジェイドか! どういう状況なんだ、これは!」
見知っている正騎士の声を聞き、サイは状況を尋ねた。
現状の情報は喉から手が出るほどに欲しい。
「辺りを散策していた見習いがいきなりこいつに襲われた! 数名は逃がしたが、数が多すぎて足止めも限界だ」
サイはジェイドの声を聞きながら周囲を見てゆく。
場に残っているのは地に倒れているテレーゼと、化物の反対側に位置するジェイド。
化物に頭部を喰われた見習いは地に落ちたまま無残な姿を晒している。
そして、目の前にあるのはサイが見上げんばかりの四肢を持つ巨大な化物。
漆黒の巨体は二足で大地を踏み締める。
恐怖を誘う緋色の単眼。
「
「魔獣だと!」
サイの言葉にジェイドが反応する。
「ついに大災害が始まっちまったってことか」
サイは苦虫を噛み潰したような表情のまま、化物へ向き直る。
「ジェイド、こいつは俺が引き受ける。あんたたちは他の部隊と合流してくれ!」
「だが……。すまん、死ぬなよ!」
ジェイドは意識を失っているテレーゼを背負い、離脱を
その様子を見ながらサイは覚悟を決める。
「なんとまあ、食い甲斐のなさそうな獲物だこって」
サイは腰の剣から手を離し、背に括っていた細長い袋の口を開けるとそこからもう一振りの剣を取り出した。
華美な装飾の為された剣の鞘を抜いて、ゆっくりと刀身を晒す。
世に現れたのは怪物の目よりも鮮やかに輝く紅い刀身。
その剣を見た瞬間、化物は面に張り付かせていた笑みを消し、大きな目を細めてゆく。
「グアラドラのサイ・ヒューレ導師だ。
サイは皮肉っぽく笑うと、深紅に輝く剣を半身で構え、そう
* * *
「グアラドラの導師、それは我らが王が目覚めるその日まで、大地を大災害の波より護る守護者なのである」
ヤンはそう呟きながら、両の手に雷光を灯らせる。
それは彼曰く魔導という不可思議な術。
オーリンはそれを見てその日何度目かの力の差を思い知らされた。
ヤン導師は歩みを止めない。まるで無人の荒野を行くが如く。
眼前に立ちはだかる数多の魔獣をその雷光をもって屠る。
ヤンの両手から発生した雷光は、まるで蛇のようにヤンの身体を蠢きながら護る。雷の蛇はヤンへ敵意を持つ存在を赦さない。
空中からヤンへと飛びつこうとした魔獣が、鞭のように放たれた雷の蛇によってその巨大な四肢を拘束される。一瞬の抵抗もむなしく、そのままずるりと引き千切られては悲鳴を上げる間もなく絶命してゆく。
緋眼達もその光景を見せられ続けてさすがに警戒したのか、ヤンのいる場所からジリジリと離れてゆく。
一体一体が凶悪無比である魔獣。
それらの数十の群れですら、ヤンの力の前には何の意味も為さなかった。
「王は大災害の波が押し寄せるその時、目覚め、我等を導いてくださる」
どこか
そしてヤンの魔導が発動する度に、森の中では
「これが、魔導……。凄まじい」
オーリンとリバックの二人はヤンに付き従い、散り散りとなった旅団の生き残りを救いながら山麓に近い森を進んでいた。
先刻まで指揮官であるクアトロも行動を共にしていたが、被害を受けた部隊の負傷者が増えたためにそれらの者達をクアトロが引き連れて、アーモと共にいち早く麓へと向かうよう別行動をとることとなった。
ヤンは自発的に供を申し出たオーリン、リバックの二人を連れて、魔獣発生の大元を探るべく山の奥へと進んでいた。
ヤンが魔導と呼ばれる強力な力を行使している以上、いかに魔獣が驚異的な力を持っていようとも遅れを取る事はなかった。
「くっ」
オーリンの槍が魔獣の肉を抉り、その巨体に土をつける。
リバックも幾度かの経験によって手慣れた扱いで剣を振るう。
魔獣の性質の一つ、強靭さを増す黒化という状態になる前に、リバックは魔獣の首を斬り飛ばす。
「幾分は対処法も分かってきたが、きりがないな」
オーリンは息を整えるようにして、愛槍を担ぐ。
森を一歩進むたびに、木陰から倒した数と同数の魔獣が襲ってくる。
物量の面で魔獣共に圧されているという意識が拭えなくなると、オーリンの中でも焦りが生まれてくる。
「これが大災害の波であるならば、原因がこの山に在る筈である。それを何とかせぬ限り、こやつらは無限に湧き続けるであろうよ」
ヤンはこの中で只一人、正確に現状を理解しているようであった。
「しかし我一人だけでも良かったのであるが、いやはや、なかなかやりおる。
ヤンの歩みに必死に食らい付き足を止めぬ若者を見て、ヤンは嬉しそうに笑みを浮かべる。
「心意気や良し、我らが王も誠に喜ばれる事であろう」
盛大に笑いながらヤンは言葉を弾ませる。
「ふぅ。ヤン導師、でもやつらまだ俺たちの事狙ってますよ」
リバックは兜の頬当てを少しあげると、ヤンの大袈裟な反応を見て苦笑するようにオーリンと目を合わせる。
「はっはっは。きやつらが動きを止めたのは待っているのであろうよ。我を呑み込む事のできる更なる大災害の出現を。それの対処は我が行うが有象無象どもはお主らにも任せるぞ。なあに、道は拓かれておる」
目を細くして全てを見透かすように、ヤンは木々の奥にある深淵を見やる。
オーリンはヤンのその言葉を心が踊るような気持ちで聞いていた。
魔導と呼ばれる超常の力を持つ者に期待を掛けられ、その期待を裏切る気は毛頭ない。
力を求めて鍛練を積んだ先で化物と戦い、今尚生き残っている。
それはまさに、オーリンが幼少の頃より追い求め目指し続けた英雄の冒険譚のようであった。
「目が暗闇に慣れては来たが、流石にこう無茶を続けては道理が通らん。オーリン、無理はするなよ」
リバックはそういいながら上げていた頬当てを下ろすと、兜を深く被り周囲を警戒する。
「あぁ、そうだなリバック。しかしヤン導師の魔導と呼ばれるものを見ていると、何でもやれそうな気がしてくる」
オーリンも槍を構え、リバックの死角を埋めるように警戒を強める。
数十歩離れた先には、
そんな中音もなく深淵が姿を現す。
一切の光を通さぬ黒穴。
そこから覗かせるのは、赤黒く揺れる光芒。
其れはギョロリとヤンたちの姿を捉えた。
「地より這い出たる緋き一つ眼の魔獣グアヌブ。その体躯は頑強にして巨大。
ヤン導師の言葉が紡がれる。
「そうか、今までのモノは全てあれの
雷光が一際大きく弾ける。
深淵の奥に見えるその姿。
大きさは今までオーリン達が相対した魔獣と大差はない。
だけれどそれは、悪意や恐怖を器に無理矢理押し留めているような存在のようにも、本来形なぞなきものが、輪郭を形成しているだけのようにも見えて──
「逃げよ、勇猛果敢なる英雄の子らよ。あれは紛れもなく大災害である」
ヤンが生み出した
周囲にいた緋眼共はヤンの放った光に呑み込まれると一瞬で焼け消えた。
だがそれでも、目の前の黒穴に変化はない。ただただ混沌と虚ろを内包したままに、
それどころか、黒穴から零れ落ちる影からは数えきれぬ程の魔獣が這い出すように生まれようとしていた。
まるで地の底から這い出るかのように。
「こいつは」
光すら吸収する漆黒の腕がのそりと黒穴の淵に指を掛け、ゆっくりと開いていく。
ヤンは輝きを放つ両腕をその黒穴に向け、全力の紫電を放つ。
膨大な光の奔流は光だけでなく音すらも奪われて、全てが黒穴に呑み込まれていった。
「
黒穴から目をそらさぬままに、ヤンは叫んだ。
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