最終話 後悔のない選択を
懐かしい香りがした。一度しか嗅いだことないが、はっきりと覚えている。
あの時と同じように、辺りは暗闇だった。
あの時と違うと言えば、周りの木々たちはただの樹木にしか見えないし、大きさも子供の頃に記憶に比べると、大したことはなかった。
それに、天を覆うように緑色の葉が伸びていたが、見上げれば三日月が鮮明に見えた。
同じ場所なのか、それとも別の場所なのか、正二にわかるはずもなかった。
しかし、地面にいるそいつをみれば、全てを理解できた。
樹木と同じく、大人になった正二から見ると、そいつは小さかった。
サッカーボールぐらいの大きさに見えたそれは、今ではピンポン玉みたいだった。
そいつは、体の半分を占める二つの目玉で、正二をじっと見つめていた。
噂で聞いたいつか、がこんなにも早く来るとは思わなかった。
沙良の話を聞き、心臓が破裂しそうだったが、不思議と今は冷静だった。
「……カラダ」
気のせいか、そいつの声が記憶よりも弱って聞こえた。
「カラダ……カエス」
その言葉によって、再び体が熱くなった。言葉通りの意味であれば、正二が今一番望むことだった。
「返してくれるのか?」
「……カエス」
素直なそいつを見て、何故か罪悪感のようなものを抱いた。
元々、そいつの持っている小指は正二のものだ。それを返してもらうのは道理というものだ。
しかし、何故このタイミングで返してくれるのだろうか。
そもそも、何故そいつはカラダを欲しているのか。
「……カエス」
そいつの声はみるみる小さくなっていった。相当弱っているようだ。
黒いそれの中から、決して忘れることのない大切なものが出てきた。
六年しか共に生きてはこなかったが、その形、大きさを忘れることはない。
「それは」
数メートル先でも、それが自分のものだと正二は確信した。
「……カエス」
どうやら、少年時代にかわした約束通り、本当に返してくれるようだった。
今の正二にとって、失ったその小指は、喉から手が出るほど欲するものだった。
遠慮なく返してもらおう、そう頭では考えているのに、何故かそいつに近づこうとはしなかった。
二十年以上も前に出会った時も、そいつは弱っていた。弱っていた時に、カラダを欲していたということだ。
つまり、今の正二と同じ立場だったということだ。
「もしかして、その指がないと生きれないんじゃないの?」
そいつは、その問いには答えなかった。単純に複雑な言葉が話させないのか、それとも黙っているだけなのか。
「……そうなんだね」
昔のそいつは、さほど小指を重要視していなかった子供の正二から、小指を貰った。
しかし、今の正二は、指を必要としている者から、指を返してもらおうとしていた。
究極の決断をする時が来てしまった。
指か、そいつの命か。
正二は強く頭を掻きむしった。
子供の頃は、すぐに答えを出したというのに、大人になった今では様々な感情が邪魔をする。
そんななかで、正二は小指のない人生を振り返っていた。弱者と思われないために、必死で努力をしてきた。そして、学生時代、社会に出てからともに、自らの地位を確立してきた。
そして、身を固めようとしたときに、努力ではどうにもできないことが立ちはだかった。
沙良は心から愛してると言ってくれた。
正二も、小指のない自分を認めてくれている沙良を、心から……。
正二は、その黒い何かに向かって、一歩、また一歩で足を前に出していった。
顔つきは鋭く、真っすぐ自らの小指をみていた。
そして、そいつの目の前まで近づいた。
「……カエス」
近くで見ると、やはり自分の指だと、正二は改めて安心した。
しかし、それと同時に、目の前の弱り切った命を見つけてしまった。
「……」
正二は、右手に向かって「動け、動け」と言い聞かした。自分の幸せのためだと。
ゆっくりと、右手がそいつに向かって伸びていく。
あと10センチ、1センチ、と着実に距離を縮めていく。
あともう少しで、四本の指しかない手のひらが、完成形に成長する。
ついに正二の手が、そいつの持った小指に接触しようとした。
「正二さん」
紙一枚程度の距離。ほんの僅かなずれで、肌と肌がふれるというところまで来ていた。
そんな状況で、正二の体は動きを止めた。
「正二さん」
「どうしたの?」
「私、正二さんの事好きですよ」
「え?」
「嘘だと思います?」
「いや、そんなことは……」
「本当に好きですよ」
「僕は、未完成な男だよ?」
「そうですか? 私はそうは思いません」
「え……」
「私は、諦めずに努力を重ね、困っている人の気持ちを理解することができるあなたが、大好きです」
正二の体とカラダの間を、冷たいけれど懐かしい隙間風が通り過ぎていった。
その風に押し戻されたかのように、正二は右手を引いた。
「……カラダ」
「あげるよ、君に」
「カラダ……カラダ……」
か弱い声で、何度もそいつは正二に言葉を投げかけた。
「長生きしてね」
正二は、そう言葉を残し、一歩、また一歩と後ろに下がった。
自分の出した答えが正しいのかはわからない。
けれど、まだ自分の中に無償の優しさが残っていることを、誇らしく思った。
正二は、小さなそいつに向かって、右手で軽く手を振った。
気づかぬうちに、正二はほほ笑んでいた。
その笑顔は、あの頃と変わらない、嘘偽りのないものだった。
カラダクレ 高見南純平 @fangfangfanh0608
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