第2話 都市伝説「カラダクレ」

 夜空に浮かぶ三日月を、正二は見つめていた。


 時刻は7時。中学校からの帰りで、駅のホームで電車を待っていた。

 帰宅ラッシュであるこの時間は、大勢のサラリーマンや学生が電車を待っていた。

 いつもなら、このあとの電車の混雑を想像すると、すでに息苦しくなっていた。


 しかし、今週は気分がいい。正二にとっての、人生のターニングポイントを超えたからだ。

 沙良の両親に挨拶に行ってから、はやくも数日が立とうしていた。

 両親と会話をするまで、緊張が解けることはなかった。


 沙良の両親に会うのは初めてで、実家に訪れるのも一回目だった。そのため、まず屋敷のような家に驚いた。


 沙良に話は聞いていたが、実際の家の規模は、正二の予想を軽く凌駕した。

 さらに胸の動悸が早くなったが、両親と会ってみると、会話ははずみ、意外にもリラックスすることができた。


 しっかりと、結婚の意志を伝えることができ、満足いくものだった。

 ただ、一つ不安があるとしたら、その場で結婚の許しを得ることはできなかったことだ。


 口には出してはいなかったが、正二の小指がないことを懸念している様子だった。

 けれど、考えても仕方ないと思い、挨拶がうまくいったことだけを喜ぶようにしていた。


 それにしても、三日月が眩しく輝いていた。まるで、正二を祝福しているかのようだった。

 正二は三日月に憧れを抱いていた。何故なら、未完成な形にもかかわらず、風物詩として人々に愛されているからだ。


 満月を完成形とすれば、三日月は未完成。正二は、自分の右手と同じだと思っていた。

 しかし、三日月をみてマイナスなイメージを抱くものは少ないであろう。そんな未完成だとしても、人々に愛される存在に正二はあこがれを抱いていた。


 電車の到着する時間になり、ホームにアナウンスが流れ始めた。

 電車が到着し、一斉にドアが開いた。ここからは、椅子取り合戦だ。

 疲れのたまったサラリーマンたちが、我よ先にと、限られた席に座っていく。


 正二は半ば諦めながら乗車すると、偶然にもたどり着いた目の前の席が空いていた。

 運がよかった、と思いながらそこに腰を掛けた。正二は電車に乗っている他の人に比べたら若い方だが、疲れがたまっているのは一緒だった。


 これでもか、というほど人が乗車すると、ドアがすべて閉まった。

 周りの窮屈そうな様子を見ていると、座れてよかったと心から思った。

 二、三十分電車に乗るので、自身の黒いバッグから、読みかけの小説を取り出そうとした。


 取り出そうとしたとき、近くに立っている年配の男性を見つけた。杖をついており、立っているのがつらそうに見えた。


 スーツではないので仕事帰りではなさそうか。おおかた、別の用事で電車に乗ろうとして、帰宅ラッシュに遭遇してしまったといったところだろうか。


 人ごみに流されてしまったのか、優先席付近ではなく正二たちがいる、一般の場所に来てしまったようだ。


 それに気づいた正二は、一瞬ためらいながらも、その男性に声をかけた。


 「座りますか?」


 声をかけられたご老人は、驚きながら正二に顔を向けた。


 「いえ、大丈夫ですよ」


 強がりだということはすぐにわかった。若い正二でさえあまり立ちたくはないのに、杖を持ったご老人が座りたくないはずがなかった。


 「結構長いですし。どうぞ、座ってください」


 この電車は急行だった。少なからず、次の駅までは五分から十分は乗車することとなる。


 「すいません、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 ご老人は申し訳なさそうにして、正二と席を変わった。けれど、最後には正二に軽く笑みをこぼしてくれた。


 些細なことだが、気持ちが晴れやかになった。

 正二には、身体的な弱さがある人の気持ちがよく分かっていた。

 自分で何とかしたいと思っても、どうにもできないことはある。強がってはいるが、助けてもらったときは純粋に嬉しいものだ。


 正二は、職業的なこともあって、困っている人がいたら助けようと心掛けていた。

 心がけていないと、いつかそういった優しさが自分の中から消えて行ってしまうようで怖かった。


 昔は心に誓ってなくとも、自然に手を差し伸べることができた。

 しかし、小指がないことが気にならないほど生活が順調になっていくと、弱きものの気持ちが分からなくなるのではないかと、不安に思った。


 その心がなくなってしまっては、学校生活で苦しんでいる生徒たちに、救いの手を差し出すことはできないと考えていた。

 偽善。と言われても仕方がないと思った。けれど、本当の正義を得るためには、偽善でもなんでもやるしかなかった。


 次の駅に到着すると、先ほど席を譲ったご老人が下りるようだった。

 最後にもう一度、お礼を言われ、無事に電車から降りていった。

 再び正二は席に座り、今度こそ小説を読もうと思った。


 しかし、再び彼の読書は阻害されてしまう。


 原因は、今の駅から乗車してきた、カップルと思われる若者たちのせいだ。

 彼らは周りの目を気にせずに、迷惑なほどの音量で話していた。


 耳障りだ、と正二は首を傾げた。けれど、こういったことは珍しいことではない。

 他の乗客たちは、こいつらの声を遮断しようと、スマートフォンでアプリを開いたり音楽を聞いたり、正二のように読書をするものが大半だった。


 正二は怪訝そうにしながらも、茶色のカバーに包まれた文庫本を開き、読み始めようとしていた。


 けれど、何故か彼らの声が鮮明に聞こえてきた。彼らとは少し距離があり、意識しなければ話の内容が耳に入ってくることはない。


 つまり、正二は意識してしまっているのだ。カップルの会話に興味を持ってしまっていた。


 何故なら、その内容は自分と密接な関係があるものだったからだ。


「それでそれで、そいつは何て言ってくるのよ」


 女の声が聞こえた。話の途中らしい。


「森の中にいるそいつはさ、カラダクレ、カラダクレ。って言ってくるんだってさ」


 彼氏と思われる男の声が、正二の胸に突き刺さった。

 本を読むふりをしながら、正二の意識はすべて彼らの会話に注ぎ込まれていた。


「えー、こわい。カラダって、体全部?」


「いや、手だったり足だったり、色々あるんだってさ」


 それを聞くと咄嗟に正二は本を閉じ、それで右手を隠した。


「手とかなくなったら、いきていけないよ」


 女は冗談交じりに笑った。正二にはそれが癇に障った。


「まあでも、いつか返してくれるらしいよ」


「そうなの? そのいつかっていつなの?」


「さぁ?」


「さぁ、って」


「だってただの噂だし、実際にあったわけじゃないしさ」


「そうだよね」


 そこで、二人の会話は別の話に変わっていった。

 二人の仲ではさほど、今の話が心には残っていないだろう。しかし、正二には頭から離れなかった。


 正二が幼少期にあったそいつは最後に「カエス」といった。けれど、それから返されたことはないし、再会すらしたことがない。


 なので、本当にただの夢で、小指が無くなったのはまた別の理由があると、どこかで思っていた自分がいた。


 しかし噂がでたということは、正二以外にも、そいつに遭遇したことがある人物がいるということではないだろうか。


 正二は困惑した。誰にも話したことがなかったそいつを、他の人の口から聞く日が来るとは思わなかった。


「ふぅ」


 混乱を抑えるために、その場で深呼吸をした。

 落ち着いてくると、その噂が本当だろうが嘘だろうが、正二には関係ないことに気付いた。


 そいつがいてもいなくても、結局小指はなくなり、今までの人生を歩んできたのは事実。


 あの黒い何かのことを知ったとしても、過去が変わるわけではなかった。

 ただ、正二が気になっているのは、「カエス」という言葉の意味だった。

 噂でもいつか返してくれると言っていた。


 周りに気付かれないように、本で隠しながら右手を凝視した。

 本当に、この右手が五本指になる日がくるのだろうか。

 一生このままの体と思って生きていた正二にとって、その可能性は複雑なものだった。


 今は夢もかなえて、満足に暮らしている


 もし小指が戻ったら、今までの生活はガラッと変わってしまうだろう。

 それがどう転ぶのかは、正二には全く想像することができなかった。

 それに、いつか、というのはいつなのだろうか。先ほどの彼女ではないが、気になって仕方がなかった。


 正二は噂を聞いてからずっと複雑な感情にむしばまれていた。

 いつの間にか、先ほどのカップルは下車していて乗客の人数も減っていた。

 アナウンスを聞けば、次の駅は正二の最寄りの駅だった。


 かなりの時間考え込んでいたことに気付き、正二は我に返った。

 正二は本をバッグにしまい、立ち上がった。


 電車が最寄りの駅に到着すると、正二を含め大勢の人が下りていった。

 いつもなら、何の迷いもなく帰るところだが、思うように足が動かなかった。

 正二の体は人の波に流されて、階段を上り改札を出ていった。

 ここから普段は、駅から出ているバスに乗り換える。自宅までは、さらに10分程度かかる。


 けれど、今日は夜風に当たって帰りたい気分だった。

 歩いて帰る場合は、30分弱かかってしまう。しかし、それでもいいから、正二は冷たい風に浸りたかった。


 幸い、季節は秋。気持ちのいい冷たい風が漂っている。

 その風に吸い寄せられるように、正二はバス停を後にし、自宅へと向かっていった。


 歩いてみると、まるで知らない街に来てしまったかのようだった。

 暗闇ということも加え、いつもはバスで通り過ぎるだけの場所だ。

 正二には、通り過ぎるすべての物が真新しいものに見えた。


 「……はぁ」


 歩きながら深いため息を漏らした。いつもなら、誰も見ていないとはいえ、弱い部分を見せようとはしない正二。


 それだけ、先ほどの噂は胸に響いているようだ。

 結局、どれだけ考えても答えは出なかった。実際に黒い生物がいると決まったわけではないし、返されるわけでもない。


 正二は、いつも通り生きていくしかない。そういった考えにたどり着いた。

 迷いが薄れると、バスに乗ればよかったと、若干後悔してきた。

 通り道にいくつかバス停はあるが、ここまできたら歩いて帰ろうと決めた。


 駅から十分程度歩みを進めたころ、スーツのズボンのポケットから、メロディが流れてきた。


 それは、オーソドックスな携帯電話の着信音だった。


 正二は携帯電話を取り出すと、電話の主が沙良なことに気が付いた。

 この時間は家にいるはずの沙良。もうすぐ正ニが帰る時間ということは知っているはずだ。


 不思議に思いながら正二は電話に出た。


 「もしもし、沙良? どうかした?」


 正二は歩きながら、沙良に問いかけた。

 しかし、数秒待っても全く電話から音が聞こえなかった。

 電波が悪いのかと思い、もう数回声をかけた。


 すると、ようやく電話の奥から音が聞こえた。

 しかし、その音は沙良が発したものではあっても、言葉ではなかった。


 「沙良……?」


 正二の予想が間違っていなければ、それは沙良がすすり泣く音に聞こえた。


 「ごめんなさい。正二さん」


 電話越しでも、彼女が涙を流しているのが、正二には手に取るように分かった。何度か沙良の泣く姿は、付き合いの中で見てきた。


 「急に謝ってどうしたの?」


 「……あのね、さっきお父さんから電話がきたの」


 沙良はそのあとに言葉を続けようとした。

 だが、正二が状況を把握するには、十分な情報だった。


 「そしたら、正二さんとの結婚は認めないって」


 不安が的中してしまった。


 「どうして、どうして認めてくれないって?」


 「やっぱり、あなたの体のことが……」


 理由がそれしかないことは、正二が一番よくわかっていた。けれど認めたくはなかった。


 「手のことか」


 「……。お父さんは他の人の目を気にしてるようでした。お母さんは、子供を授かった時に、その子が元気な体で生まれてこれるのかを、心配していました」


 沙良の言葉が、刃物のように正二の胸を次々と突き刺していった。


 「……そっか。でも仕方ないよ。けれど、まだ諦めることはないよ。どれくらいかかるかはわからないけど、ご両親を納得させてみせるよ」


 正二の友人の中に、両親に挨拶にいき、門前払いを食らったものがいた。

 しかし、1年間かけて見事説得し、今は幸せに暮らしていた。

 両親の反対だけで、沙良との関係を終わらせるつもりはなかった。


 「そういってくれるのは嬉しいです。でも、でも……」


 「でも?僕じゃ不安なの?」


 「違うんです。正二さんは何も悪くないの」


 「じゃあ、なんだっていうんだ」


 少し強い口調になってしまった。

 冷静さを失った正二は、気付かぬうちに足を止めていた。


「私もいい歳だから、早く結婚してほしいそうです。実は、今回のお相手と結婚できなかったら、両親が決めた人とお見合いするって約束をしてたんです」


「……そんな」


 初耳だった。確かに、言われてみれば、沙良は結婚願望が強いように見えた。しかしそれは、年齢的なものからくる焦りだと思っていた。


「もう、その日程も決まってるらしいんです」


「そんなの、そんなのあんまりじゃないか」


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 沙良の泣きじゃくる声が、正二の心にしみていった。


「でも、これだけは信じてください。私は正二さんのことを、心から愛しています」


 その言葉に、嘘偽りがないことは、付き合った日々の中で分かっていた。それゆえに、最も残酷な言葉として、正二にのしかかった。


「わかった。もうすぐ家に着くから、詳しく話そう。納得するまで、話そう」


「……はい」


「最後の会話になるかもしれないしね」


 正二は沙良の返事を聞くことなく、電話を切った。

 このまま、道路に向かって投げてしまいたかった。

 数名の人が正二を通り過ぎていった。その人たちに変人扱いされてもいいから、暴れ狂いたい気分だった。


 胸が爆発するかのように、激しく動いていた。正二はそれを止めようと、右手の4本の指で心臓を握りしめた。


 しかし、その鼓動が止まることはなかった。

 止るどころか、今度は体全体が震えだしてきた。この震えは、夜風の仕業ではない。


 さっきの電車といい、今日は困惑してばかりだった。

 正二の脳はパンク寸前だ。

 そんなパンク寸前の頭に、先ほどの噂が流れ込んできた。


「でも、いつか返してくれるらしいよ」


 そうだ。指さえ、指さえあれば。

 正二は、右手をこれでもかと言わんばかりににらみつけた。


「指さえ……指さえあれば」


 正二が嘆き始めると、何故か意識が薄れ始めてきた。

 目が急に重くなり、鼓動も収まってきた。

 そして、そのまま正二は瞼を閉じた。

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