第1話 四本の指
シャワーの温水が、重力に沿って体を洗い流していく。
早朝6時。正二は仕事前のシャワーを浴びてる最中だった。仕事前に浴びないと、目も覚めないしやる気も出ないので、朝シャワーは正二の日課だった。
部屋は基本ひとり暮らし用のもので、バスルームは簡素なものだった。トイレとは別で、中は浴槽、シャンプーを置く台、あとは壁に貼られた鏡があった。
その鏡は正二の体がはっきりと映らないほど曇っていた。そのため、シャワーのお湯を鏡にかけ、一時的に正常な状態に戻した。
鏡には、色白い華奢な男の体が映し出された。
濡れた黒髪、クマが目立つ目元、尖り気味の鼻、彼の顔にこれといった異変は存在しない。
身長は170ほどだろうか。上半身、下半身共に良好。
正二は左手で掴んでいるシャワーを止めようと、右手でハンドルを掴んで回した。
ハンドルは鏡の手前にあり、当然鏡には右手が写り込んだ。
その手には、あるものがなかった。
一番小さく太い、親指。
頻繁に使用する人差し指。
真ん中にある中指。
最も用途がないとされる薬指。
そして……。
正二は、右の手のひらを鏡にかざした。
そこには、本来ならば人間に存在する部位、小指がなかった。
彼の右手には、四本の指しかついていない。ずっと昔から、この右手で人生を歩んできた。
幼少期、朝目覚めると、断片的な真夜中の森の記憶が頭に残っていた。
あの不思議な生物は夢だった、と正二は思った。
しかし、部屋にあった鏡を見ると、右手から小指が消えていた。
正二は慌てて母親に見せると、母親も同様に驚き、それは父親にも伝染し、一時的なパニックを起こした。
すぐさま病院へ行くと、驚くべきことに原因不明と診断された。
医者もこんな事例は初めてだと、言い残していた。
確かに、周りからすれば、摩訶不思議なことだった。
齢6歳の少年の体から、一晩の間に小指が一つ消えているのだ。
さらに、正二の小指があった場所には、全く傷ついておらず、綺麗な肌色の平面な皮膚になっていた。
そして、一番の不可思議な現象は、消えた小指がないことだ。体から切除されたのであれば、近くにあるはずだ。しかし、部屋のどこを探しても出てきはしなかった。
このことから、もとからそういう身体的特徴を持った子供ではないかと医者は考えていた。
しかし、以前の正二の写真には、しっかりと小指がついていた。
小指を失った理由は結局わからずじまいで、幕を閉じた。
両親はそんな状況下で不安を隠しきれていなかったが、当事者は案外深い問題とは考えていなかった。
起きた当初こそ、なくなっていたことに驚きはした。だが、正二からすれば夢だと思っていたことが現実だった、ということにしか過ぎなかった。
それに、毛ほどの痛みもなく、日常生活において問題ないと思った。
風呂場の鏡が、再び曇り始めた。
一通り体を洗い流すと、風呂場を後にした。
風呂場を出ると、洗面台があり再び鏡があった。洗面所の鏡は、先ほどと違い曇ってはおらず、正二の上半身だけを映していた。
こうしてみると、人より身体的差があるようには見えなかった。
正二は今年で28歳だが、こうしてみると、同性代の男性と、身体的差があるようには思えない。
正二は置いてあったバスタオルを手に取り、髪、体を乾かしていく。
ある程度渇くと、ドライヤーをセットし、最大出力で頭部にあてる。
独特の轟音が、洗面所を飛び出し、部屋全体に響いた。
先ほどのシャワーもそうだが、こういった何か物を握る際は、左手を使えば何ら問題ない。
子供時代は右が聞き手だったが、小指を失ってからは左手を使うようにした。
この利き手の変更により、日常生活は左利きの人、として過ごしている。支障があるとすれば、右手社会である日本の設備に、左利きの人が感じる不満と同じ程度ものだった。
正二の体は、正二にとっては不便があるものではなかった。
しかし、周りの人間は本人と同じとはかぎらない。
実際、両親にはあの事件から過保護に育てられてきた。小学校の先生にも、必要以上に気を使われていた。
小学校の同級生にも何人かそういうものはいた。しかし、子供の無邪気さゆえに、そういった身体的な変化を気にするものは少なかった。
今まで普通に正二と友人関係であった子供は、最初は驚いていたが、すぐさま元の友人関係に戻った。
他人の目が気になってきたのは、中学生に成長したころだった。
正二を含めた周り全体が、いわゆる思春期の時代だった。
彼が進学した中学校は、正二がいた小学校だけではなく、近くの数校からも大勢の新入生がいた。
そのため、一クラス三十人程度となると、知らない顔も数多くいた。
そんな少しぎくしゃくした中で、小指がないというのは、大きなハンデをしょっているようなものだった。
それを察した正二は、ある作戦に出た。
それは、自分を弱者と思わせないことだった。小指がなくても生きていけると、周りに知らしめようとした。
具体的には、面倒ごとである学級委員を務めたり、授業で積極的に発言する、といった具合だ。
これにより、少なくとも教師からの評価は上がっていった。
しかし、それでも小指がないことが不気味だ、と思う同級生は大勢いた。
日々の行いでダメなら、今度は実力を伸ばそうと思った。
小学生時代から、頭はいい方だったが、それをさらに伸ばしにいった。ペンを握るのを左手ですれば、勉学に関しては他の生徒と同じ条件だった。そして努力の末、初めてのテストで学年3位をとり、同級生にその名を知らしめた。
正二の作戦はそれだけでは終わらなかった。
勉学と同時進行で、部活動にも入った。
入ったのはもちろん、サッカーだ。
キーパー以外なら手の指をほとんど使わない、という安直な理由で入部した。
同機こそ不純なものの、彼の力はサッカー部全体でも、上位に入るものとなっていった。
こういった努力の結果、2年になった頃では、彼を小指がないからと言って軽蔑する者はほぼ消えていた。
高校に進学してもそのスタンスは変えず、順風満帆な清純時代を過ごした。
髪、そして体についた水分をあらかた吹き終えると、仕事着に着替えていく。
彼の職業は、中学校の教師だ。そのため、毎日ネクタイを締めて、スーツで通勤している。
一流大学を卒業した正二は、教員免許を取得していた。大学にいる頃から、教師になるのは夢だった。
しかし、いざ就活をしてみると、どの学校も門前払いだった。
勉強を教えるのがどれだけうまくとも、教師というものは、生徒と友好的な関係が築けばければいけない。
小指がない教師というのは、生徒からすれば他の教師よりも、一歩距離を置く存在になる。そう言った意見が、どの学校の面接を言ってもでてきた。
それを聞いた正二は、それは建前の意見だと割り切っていた。本当はPTAなどの保護者の目線を気にしているだけだ、と予想していた。
何度、面接に落ちようが。彼はあきらめなかった。
正二が教師を目指した理由は単純明快なものだった。それは、正二自身が教師に向いていると自負していたからだ。
彼は、弱者と強者の気持ちを理解することができた。
見えない階級であるスクールカーストで悩む若者を助けるのは、それをよく理解していることが必要だと思った。
最下層からのし上がった自分には、弱者を救い出すことができるという自信があった。
その熱を感じ、正二を採用してくれた中学校が一つだけ見つかることとなる。
それからは、正二が予想していた通り、クラスの問題を何度も解決し、今では名教師というところまで上り詰めた。
紆余曲折はあったものの、小指のない人生に正二は満足していた。
生活、夢、そして恋愛においてもだ。
スーツに着替え、洗面所を出ると、味噌の香りが、正二の前に漂ってきた。
リビングに行くと、テーブルの上に二人分の朝食が置かれていた。
みそ汁と炊き立ての白米。そしてレタスが添えてある目玉焼き。目玉焼きの硬さは、正二の好みの半熟である。
そして、椅子にはカジュアルな私服を着た、一人の女性が座っていた。
雪のような肌の白さをしており、肩まで伸びた黒髪が、いっそう彼女の清純さを際立たせていた。
彼女は、正二の恋人である沙良だ。二人は交際して二年がたとうしている。現在は、正二に住むマンションで半同棲中だ。
「いつもありがとう」
「冷めないうちに食べてください」
沙良の正面に座り、正二は左手で箸をとった。
「いただきます」
美味しそうに朝食を食べる正二を見て、沙良はほほ笑んだ。
「美味しい」
それにつられて、正二も笑顔になった。愛情のこもった料理は、格別だった。
「よかった。ご飯のお替りならありますよ」
「朝からそんなに食べられないよ」
ささやかな談笑をしながら、二人は箸を進めていった。
沙良は正二と同い年だが、正二には敬語をよく使う。それは、彼女の生い立ちからくるものだった。
彼女の両親は一般家庭に比べると裕福であり、何不自由ない生活をしてきた。教育もしっかりされており、正二には出会った当初から敬語だった。
二人の出会いは、共通の友人の紹介だった。
沙良はあまり男運に優れていなかった。
可憐な容姿をしており、家が裕福な沙良にいいよる男は、大勢いた。
しかし、どの男も沙良の中身を見ようとはしなかった。お金目当てや、容姿にだけ引かれるものが多かったのだ。
そんな恋愛経験から、沙良は中身を重視して選ぶことに決めた。
その時に、女友達の大学時代の友人を紹介された。
初めて出会ったとき、沙良は驚いた。何故なら、彼には右手の小指がなかったから。
しかし、中身を重視することを決意したさらに取って、その欠けた手はさほど気にならなかった。
それどころか、彼の人生を聞くと、小指のなさが気にならないほど、人間として引かれていった。
これほどまでに努力をした人間がいただろうか、と沙良は感じた。
そして、沙良はその男に心底惚れて、今に至るというわけだ。
「そうだ、今週末だよね」
「そうですね。早いですね」
「両親に挨拶するのって、こんなに緊張するんだね」
「私も緊張していますよ」
二人はともに二十八歳。結婚を意識する年齢になってきた。
それを感じた正二は、一週間ほど前に沙良にプロポーズをした。
教師の安月給を必死にためて、上質なダイヤモンドの指輪を沙良に前に差し出した。
あれほど緊張することはない、と正二は思った。
もちろん、沙良の返事は正二の望むものだった。
そして、今週末に沙良の両親に挨拶に伺いに行くのだった。
「そんなに怖い人たちじゃないから、大丈夫ですよ」
「でもね……」
正二が悩みながら上を見上げると、壁に掛けられた時計が視界に入ってきた。
「あ、もういかなきゃだ」
慌てて食事を済ます正二。
「そんなに慌てて食べたら、体壊しますよ」
「ごちそうさま」
左右非対称な手のひらを合わせて、正二は言った。そして、急いで食器を流し、身支度を済ませる。
そんな慌てた様子をみて、沙良は微笑ましく思った。沙良の目には、体の一部が欠けていたとしても他の人とは変わらない、けれど特別な存在に映った。
「じゃあ、行ってきます」
玄関まで見送りに来てくれた沙良に、笑顔を向けた。
「いってっらしゃい」
微笑み返してくれた沙良の唇に、正二は自分の唇を重ねた。食べたばかりで、卵の味しかしなかった。
照れた沙良を見ながら、正二は仕事先へと向かっていった。
挨拶は大事だ。正二は、挨拶をしない奴を昔から嫌いだった。
ろくに挨拶もせず、消しゴムを返さなかった健太のことは今でも覚えていた。
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