第3話 子狼と森の王

 ポケットに入れていた双眼鏡を取り出し、草と草の間から覗き込むように観察を行った。すると、前方百メートルほどの距離で、生い茂る葉が軽く揺れた。風に揺れたときとは違う少し不規則な動きだった。


 おそらく何かが身を潜めている。私と同じように。現状、姿は確認できないので、それほど巨体を持つ動物ではなさそうだ。四足歩行の動物か、先ほどのような猿の仲間か。どちらにせよ、立った私より大きいことはなさそうだ。


 だからといって油断できるわけではない。体を風船のように膨らませて巨大化する動物もこの世にはいる。それに、先ほどのように、この揺れ自体が陽動の可能性も否めない。


 私はその場から動かず、後ろにも気を配りながら観察を続けた。


 草むらから、灰色がかった銀色の耳が二つ、先っぽだけ飛び出してきた。しかし、すぐに消えた。と思ったら、再び可愛らしい獣の耳が飛び出てきた。耳はぴくぴくと過敏に動いていた。警戒している証拠だ。先ほどの電気ショックの音をたどってきたのかもしれない。


 耳の本体が、徐々に茂みから顔を出した。

 私は凛々しくも幼さのあるその顔を見て、息をのんだ。こんなにもはやく出会えるとは思いもしなかった。


 調査をしてきた中で、生息情報がありながら、一日探しても目当ての動物に会えないということはざらだ。こんなに早く遭遇したのは、おそらく初めてだ。


 間違いない。伝説とまでされてきた銀色のハンター 狼だ。自然界で会うのは初めてだが、保護施設で育てられている狼は一度だけ見たことある。写真や絵でも、何度も見てきた。間違うはずがない。


 顔を見ただけで分かる。発達した耳に、水晶玉のように奇麗に輝いている黒目。口は前に伸びており、先端には嗅ぎ分けに優れていると言われている黒鼻がある。こちらも耳同様、ヒクヒクと上下させている。

 

 そして肝心なのが、口だ。今は閉じていて見えないが、狼の牙は刃物として非常に優れている。相手が巨体でも噛み切ってしまうだろう。


 私は興奮を抑えながら、記録に漏れがないよう、狼の顔をくまなく見渡した。そこで私は気づいた。

 まだ黒味の残るその毛から察するに、この子はまだ子供だ。といっても赤ん坊ではない。人間でいえば少年から青年の間だ。


 狼に会えただけでも奇跡的だというのに、しかも子供に出くわすとは。今日は素晴らしい日だ。絶滅危惧種に認定されている動物の子供に出会うというのは、貴重なことであり、その種が繁殖している証拠でもある。保護団体にとって、繁殖しているという事実は、重要なことなのだ。


 本当は喜ばしいことなのだが、この場合素直に喜んでいる場合ではない。

 何故なら、双眼鏡で見える範囲には、他に狼はいないのだ。つまりこの子は、親とはぐれた可能性が出てきたのだ。


 まずい。


 一気に状況が変わってきた。一匹狼という言葉があるが、狼の生態系において、それは珍しいとされている。狼は群れで生活する生き物だ。家族全員で共に狩りをし、なわばりを作る。


 狩りの仕方も群れによって行うため、一人でいるというのはそれだけで生きるのに不利だ。肉食獣の中では狼は小さい方だ。しかも進化した生態系である現在では、草食獣でも狼を優に超えるものも多く存在する。

 そんな自然界で、子供で、しかも一匹でいるのは非常にまずいのだ。


 どうするべきか。


 一番は狼の群れを探し出して、そこに導くことだが、相手は野生の獣だ。異端な存在である私の指示を聞くはずがない。それに、群れを見つけ出したいのは私も一緒だ。


 他の手としては、保護することだが、こちらもいい策だとは言えない。今回私は調査目的で訪れた。保護に必要な器具も人手もない。絶滅危惧種の動物が危機的状況だといったことが分かった場合、一度戻って対策を立て人手や施設を募るところから始める。


 けれど、そこまでする必要があるとは、今の段階では言い切れない。子孫が繁栄してるので、群れとしてはおそらく最低限機能はしている。見たところ子供狼はやせ細ってはおらず、満足に飯は食えているようだ。何が言いたいかというと、生息状況しては問題のない可能性があるのだ。


 今回厄介なのは迷子という点だ。


 作戦を練れば、私一人でもどうにかできそうな現状なのである。私が群れを見つけ出すことさえできれば、音などを出して誘導することができる。さっきの電気音に狼が誘われてきたように、音には敏感だ。 


 普通だったら聞きなれない音には反応しないが、子狼は軽いパニックを起こしている可能性がある。すると、冷静さを欠き、音につられてくれるかもしれない。


 ただ、狼の群れを探す場合、私はこの場を後にしなければならない。そうなれば必然的に、子供から目を離すことになる。そうなれば本末転倒だ。最悪、どっちも見失ってしまう。


 私が今までの経験を思い出しながら、作戦を練っていると、あちらに動きがあった。

 子狼の幼い耳が、ピクンと弾んだ。そして、周りを見渡し鼻も動かし、警戒態勢をとった。


 次に私の耳も何かに反応した。それほど大きな音ではない。地面を這うようにして、音はこちらに伝わってくる。その音は低い重低音で、小刻みに鳴りながらこちらにやってくる。


 すぐすると、振動まで加わってきた。これはかなり近い。そして、巨大だ。巨大な何かがこちらに近づいてくるサイレンだ。


 子供の狼は、音の行方をキャッチすると、軽く口を開けて未熟な牙をちらりと覗かせた。警戒しているようだ。いや、どちらかというと怖がっているのかもしれない。未知への恐怖に、勇敢にも立ち向かっているのだ。


 しかし、まだ野生で生きていくには未熟だ。今最もすべき、頭を隠して息を潜めるということを忘れてしまっている。ここから双眼鏡なしでも、草むらから不自然に何かが飛び出しているのが分かってしまっている。


 無情にも音は次第に大きくなってくる。聞こえてくる方角を見ても、成長しすぎた葉や木によって奥まで見渡すことができない。


 私が警戒しながらそちらを見ていると、音の主が姿を現した。


 木々をかぎ分けて、目を疑うような巨大でゴツゴツとした頭をのぞかせた。顔に毛は生えておらず、頭蓋骨の形がはっきりとわかる。薄ピンク色の肌が生々しく、皮をそがれてしまったかのようにも見え、不気味さを強調している。輪郭は狼と同じく、口が前に伸びており、鼻が先についている。


 しかし、大きさが全く違う。先ほど乗ってきたタクシーがそのまんま入ってしまうかのような、巨大で迫力のある頭だ。推定するに口を開けば、かなり拡張するだろう。私なんか丸のみにされてしまうことだろう。


 再び激しい重低音が私たちを襲ってきた。同時にそれは前進してきて、全体像を私たちの目に拝ませた。


 当たり前だが頭部よりもはるかに大きく、少なくとも四、五メートルはあるのではないだろうか。胴体は、短い薄茶色の毛で覆っているが、ところどころ地肌のピンク色がちらついて見えている。尻尾も同じ毛質で、尾骶骨から太く生えており、先端に行くほど細く鋭くなっている。


 尻尾も合わせれば全長十メートルは超えているのかもしれない。そんな凄まじい体を持っているのに、前足が異様に短い。後ろ脚は岩石のようにどっしりとして全身を支えているのに、前足は私の腕ぐらいしかない。後ろ脚との長さがアンバランスすぎて、地面に届くことはないだろう。なので、だらしなく垂れてしまっている状態だ。


 奴の種族は「強竜」。太古の昔に存在したとされている恐竜に似ているということから、それをもじって名付けられたとされている。個体名は密林竜 ワリアルス。ジャングルの王者とも呼ばれており、まごうことなき森の主だ。

 よりによって主と鉢合わせてしまうとは。狼に出くわした時はついていると思ったが、今思えば最悪な一日の始まりだったのかもしれない。

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