第14話 二度目のキス

浮いた話が一つもなかった皇帝が近く婚約するという知らせは帝国全土を大きく賑わせた。

詳しい事情を知らない平民は祝福し、娘を嫁がせようと考えていた貴族は落胆し、重鎮は時折皇城に訪れる私に気に入られようと必死だ。

慌ただしい中もうすぐ婚約披露式を控えた私は新しい両親とのんびりした日々を送っている。

本来なら皇妃になる人間として皇妃教育を受けるべきところなのだけど幸か不幸かアディス王国で妃教育を受けていた私には不必要だった。

レオンスに用意してもらった教師全員に「教える事がありません。素晴らしいです」とお墨付きをもらった。自分が出来た人間だとは思わなかったがこうも全員に褒められると嬉しいものがある。

それは良いとして今の私には悩みが一つある。


「陛下は私に甘過ぎると思わない?」


お持ち帰りされてから二週間、自分が駄目人間にでもなった気分だ。その理由はなにもさせてもらえないから。皇妃となるのだからなにか手伝いでもとレオンスのところを訪れてみても「座っているだけで良いぞ」と公務と婚約披露式の準備で忙しい彼を眺めることしか許されていないのだ。


「アリア様を気遣っているだけですよ」


私の言葉に返事をしたのはエクレール公爵家に仕えている侍女のクロエだった。幼い頃より遠縁である公爵家に身を置いて過ごしてきた子爵家のご令嬢。歳も近く昔から顔を合わせてきたこともあり信頼出来る相手として私の専属侍女となった。


「私はお飾りの妻や愛玩動物になりたいわけじゃないのだけど」

「陛下としては甘やかし足りないと思っていそうですけどね」

「よく知ってるのね」

「情報収集は侍女の基本ですから」


楽しそうに鼻歌を奏でるクロエは近頃とても楽しそうだ。再会した時は「アルディの屑王子を暗殺しましょうか?」と殺気立っていたのに。発言を聞いた母が愉快に笑ってその場で私の専属に任命したのだけど。


「楽しそうね、クロエ」

「アリア様の侍女になれたのですよ!楽しいに決まってます!」

「それくらいで…」

「ご謙遜なさらないでください!公爵家の屋敷でアリア様を慕っていない使用人など居ませんよ!ですから奥様にこの大役を任された時は死んでも良いと思ったくらいです!」


帝国の人たちはやっぱり色々と大袈裟な気がするのだけど慕ってくれているのは素直に嬉しい。


「何を盛り上がっているんだ?」


部屋の扉が開いて中に入って来たのはレオンスだった。クロエが席を立つのと同時に隣に腰掛けてくる彼に腰を抱き寄せられる。


「せっかく会いに来てくれたのに待たせてしまってすまないな」

「いえ、こちらこそお忙しいのにお時間を頂いてしまって…」

「気にしなくて良い。アリアの顔を見れるのは嬉しいからな」


相変わらず甘ったるい台詞を並べるレオンス。慣れたかと聞かれたら最初の頃よりはと答えが決まっている。でも人前でこういう態度を取られるのはやっぱり慣れない。クロエは気にしていないみたいだけど。


「それで何の話をしていたんだ?」

「それは…」

「アリア様が公爵家の使用人に慕われているというお話です」

「そうか。ならそちらの人間を全員皇城で働かせるのもありだな」

「駄目に決まっています」


輿入れの際クロエがついて来てくれることはすでに決まっているけど他の人を連れて行くことは出来ない。

否定すると「冗談だ」と揶揄うように笑われてしまう。


「今日はどんな用があって来たんだ?」

「やっぱり私もレオ様のお手伝いをしたいんです。それをお伝えに来ました」

「嫁ぐまで何もしなくて良いんだぞ」

「このままでは駄目人間になってしまいそうで」

「アリアは向こうでずっと働いていたのだろう?数ヶ月くらい休んだくらいで堕落したりしないはずだ君がどんな人間でも私は愛する自信があるけどな」


二週間経ってよく分かったことがある。

私と一緒に居る時のレオンスはよく喋るし、よく笑う。だから他の人が見た時に物凄く驚かれる。そう今のクロエのように。

誰、この人。

そう言いたそうにレオンスを見る彼女は口をぽかんと開いている。


「レオ様、人前ですよ」

「なら二人きりにしてもらおう」


レオンスが片手を挙げるとクロエはなにかを察したように頭を下げて部屋から出て行く。

婚約が決まっているとはいえ二人きりになるのはどうなのだろう。今更だけど。


「お手伝いしてはいけませんか?」

「そういうわけじゃない。私は君にゆっくり休んでもらいたいだけなんだ」

「もう十分休みましたよ」


母とのお茶会は楽しいけど毎日それだけというのは正直言って窮屈というか退屈というか。レオンスが忙しくしているのに自分はこんなに暇して良いのだろうかという罪悪感がある。


「分かった。そこまで言うのなら君にも手伝ってもらおう」

「本当ですか?」

「ただし無理は禁物だ。破ったら結婚式まで大人しくしていてもらうぞ」


無理させるような仕事を渡してくれないくせに。分かってるのよ。

言ったところでまた笑って誤魔化されてしまうのだろう。


「分かりました」

「良い子だ」


額に落とされたキスが擽ったくて身を捩ると離れないように膝の上に横抱きで乗せられてしまう。他に誰も居ないのを良いことに好きにしてくるレオンスを私も拒めていない。


「重くないですか?」

「もう少し太ってはどうだ?」

「レオが抱きかかえないと約束してくださるのでしたら太りますよ」


あなたがすぐに抱っこしてくるから太らないように気をつけているんですよ。重いと思われたくないから。


「それは嫌だな。せめて痩せないように気をつけてくれ」

「心配なさらずとも痩せるようなことはありませんよ」


新しい両親も「もっと太りなさい」と美味しい物をすぐ食べさせてこようとするから。痩せるに痩せられない。

安心したように笑うレオンスの顔をじっと見つめる。やはり忙しいのか目元に疲れが滲んでるように見えた。


「ちゃんと休めていますか?」

「大丈夫だ」

「レオこそ無理しないでくださいね」


皇帝というだけで膨大な量の仕事を抱え込んでいるのにそこに婚約披露式と結婚式の準備まで重なっている。今こうして私の為に時間を取ってくれていること自体かなり無理をさせているはず。


「言われなくとも倒れるような真似はしない」

「それなら良いですけど…」

「心配しなくとも婚約と結婚式の件は前々から準備してあったからそこまで大変じゃないんだ。そこまで心配しなくても良い」


どれだけ前から用意していたのか今も知らないままだ。いつか話を聞けたら良いのだけど。


「私を元気づけたいのならキスをさせてくれ」

「…っ、それは…」

「そう怯えなくても無理にとは言わないから安心してくれ」


きっとその言葉に嘘はない。でも我慢させてしまっているのもまた事実だと思う。恋愛に関して鈍感な私でもレオンスがそういう風に求めてくれていることは分かる。結婚までもう三ヶ月もない。だから少しずつでも彼に応えられるよう準備はした方が良いに決まってる。


「嫌じゃないです…」

「アリア」

「ですがレオもご存知の通りこういったことに不慣れなので…その、一日一回というのはどうでしょうか?」


あまりにも自分に都合の良いような提案だ。もしかしたら断られるかもしれないという杞憂は彼の顔を見たらすぐに消えた。

耳まで赤く染めた顔を手で半分だけ隠しながら「情けない顔を見ないでくれ」だなんて皇帝らしくもない弱気な発言。男性に使うには嫌な気分にさせるかもしれないが可愛らしく映った。


「本当に良いのか?」

「レオが良かったら…」

「嫌なものか。嬉し過ぎて耳まで熱くなったぞ」

「真っ赤ですね」

「恥ずかしいからあまり見るな」


連れて帰った日はあんなにも強引だったのに。

レオンスの首に腕を回すと頬を優しく撫でられる。大きな手が熱くてずっと触れられていたら溶けてしまいそうだ。


「目を閉じろ」

「は、はい…」


ぎゅっと目を瞑ると唇に熱い息がかかる。背中に回った腕に力がこもり、頰に添えられた手のひらが少し汗ばんだ。

ゆっくりと唇に柔らかく熱いものが重なる。

人生二度目のキスは一度目よりもずっと脳の奥を揺さぶるものだった。


「アリア」


名前を呼ばれて目を開くといつもよりずっと柔らかく笑うレオンスが視界いっぱいに広がる。

彼が触れてくる全てが熱くて、心臓の動きが速くなるのを感じた。


「好きだ」


いつか私も好きと返せる日が来るのだろうか。

来たら良いなと彼の肩に顔を埋めた。

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