飴屋
あずきに嫉妬
第1話
飴屋
僕のおばさんは陽気な人だった。
よく笑い、よく動き、それなのに気品が所作の一つ一つに見え隠れするような人だった。
人になんと噂されようと、いつも鮮やかな着物を着て、誰よりも見事な髪を結って、どんな美しい花と並んでも、決して見劣りはしない人だった。
僕はそんなおばさんを心の底から美しいと思っていたし、おばさんと一緒に居る時はお母様と居る時とはまた違った、不思議な落ち着きを感じることができた。おばさんには、隣にいるだけで元気を周りに伝染すような力があったのだ。
小さい頃に、こんなことがあった。
よく晴れた午後に僕が縁側に座って日向ぼっこしていると、遊びにきたおばさんは柱の後ろからひょいと顔を覗かせ、少しおどけた顔で、わざとらしく「お隣いいかしら、」などと言って僕の隣に座ってきたのだ。春先の縁側は暖かく、お庭のあちこちにたんぽぽが咲いていた。キラキラ輝いて、フワフワしてそうで、あったかいにおいがした。僕は何となくおばさんが隣にいることが気恥ずかしくなって、落ち着きなく袖の裾を手で弄ったり、たまに庭に侵入してくるスズメや鳩を睨みつけたりした。
隣で、おばさんは僕のことを見て、可笑しそうにくすくす笑っていた。
「どうしたの、そんなに変に固まっちゃって。」
僕は何も言えず、ううんとただ首を振り、より一層身をかたくするばかりだった。
おばさんはそんな僕を黙ってしばらく眺めたのだが、
「あ、」
と何か用事を思い出したのか、そっと懐から小さな臙脂色の袋を取り出して、僕に見せ付けるように手の平に乗せて、光を浴びせた。
僕は極力見ないように努めたが、とうとう堪えきれずに、その小さな布袋をチラチラ見だすと、おばさんは口元だけ少し緩ませて、しかし顔はなんでもないふうにその袋をじっと見る振りをしていた。
「中身が気になるかい?」
おばさんの声が少しだけ弾んでいた。
太陽の方を真っ直ぐ向いてるおばさんの顔は、柔らかな光に包まれて、産毛でさえ一本一本がとても可愛く見えて、その垣間見えたうっすら残る少女のような幼さとさりげなく漂う色気に、僕はどきりとした。
「どうなのさ。」
袋の緒を指でつまんで、袋をゆらゆらさせていたおばさんの声が少し真剣さを含んだように、僕には思われた。
「はい。」
僕は聞こえるかどうかも怪しい程の小声でボソリ言うと、おばさんは意地悪そうに、そしてまた大層愉快そうにふふ、と笑った。そしてふいっとこちらに顔を見せたかと思えば、手のひらをこちらへひょいと差し出して、そこに乗った袋を取るように目で促してきた。
恐る恐る、僕はそれに手を伸ばし、袋をそっと持ち上げた。思いのほか重くて、少しびっくりしたが、何よりもその袋の中身が気になって気になって仕方がなかった。
「……」
「開けてもいいのよ。」
僕は、何故か背筋を伸ばしたくなって、姿勢を正してから、小さな袋を膝の上に乗せて、両手で硝子細工を扱うような手つきで丁寧にその小さい袋を開けた。
中に転がっていたのは、色とりどりな飴だった。一つ一つが可愛らしく、こぢんまりしていた。手作りだろうか、少し形がばらばらで表面もざらついていたが、光にあたると、えもいわれぬ一種の美しい光沢に包まれるようにきらきらしていて、僕は思わずそれらを凝視してしまった。
「この飴をね、ひとつ食べてもいいのよ。」
僕につられたのか、この静けさが怖くなったのか、おばさんは囁くような声で、僕を誘惑した。
「でも、普段、お母様は飴など食べてはいけませんと、厳しく仰るのです……」
内心、僕はその飴を一目見た瞬間に食べたくなって仕様がなかったが、そんなことを素直に言ってしまえばおばさんが軽蔑な目を向けてくるのではないかとくだらない邪推をしたためにくだらぬ嘘をついてしまったのだ。そして僕がそう言ってもじもじしていると、彼女は眉根を寄せ、少し困った顔をして、
「そうなの……」
と、一言言ったきり、急に元気をなくしたかのように黙り込んで、すっかりしおらしくなってしまった。
そうすると、僕はなんだか、おばさんにとんでもない程の悪事をはたらいたような気分になって、おばさんの寂しげな横顔から目を逸らしたくなった。ずっと日のよく当たる場所に座っていたはずなのに、体の芯からすっと冷めた心地がして、僕は慌てて取り繕うように「でもお母様には内緒にしておけば…」といい、素早く飴を一つつまんで、口の中に押し込んだのだった。
おばさんは、そんな僕を呆気に取られた顔で見ていたが、やがてまたいつものおばさんに戻り、お腹を抱えて笑いだしたのだった。
「ほんと、あなたって子はねぇ…」
目尻に滲んだ涙を拭きながら、おばさんは優し
く、そしてなんだか少しだけ、僕にはわからない気持ちを目の奥に映したまま、遠くの汽車の煙を眺め始めた。
僕はちょっと気になってしまったが、おばさんの顔からはそれを聞かせまいとするある種の強い意思がはっきりあらわれ、ただ口角だけに微かな角度を持たせて、穏やかな面持ちで、おばさんはオレンジ色に染まりゆく空に馴染むように座っていた。口の中で溶けていく飴は、その空と同じような、優しい味をしていた。
おばさんが帰ったあとも、僕は一人でしばらく飴のことについて考えていた。あの時のおばさんの寂しそうな顔は、いつものおばさんからしたら、とにかく、らしくなかったから、僕は不安に襲われ、つい心配になって、大した考えもなく飴を口に放り込んだが、もう少しきちんと味わえばよかったと今になって後悔し始めたのだった。でも、あの時は自分でもわからない何か大きな力に背中を押されたように、ふと魔が差したように、この飴を食べなくては、と思ったのだ。晩ご飯の時間までずっとその事について考えていたが、結局僕の頭じゃあどうにもならなくて、なかば諦めにも似た気持ちでその事を無理やり記憶の隅っこに押し込んだ。
そうして暫くはその事など頭に掠れもせずに、またいつもの平凡で、ほとんどつまらないような日々を送っていた。
またある日の夕暮れ、僕は友達との遊びもひと段落にして、帰途に着いた時のこと。曲がり角を曲がろうとして、お母様の声が微かに聞こえてきたのだった。
「あの子は一体どうしたものよ、こんなにいい話は願ってもないのに断るなんて!」
いつもの落ち着いた物腰はまるでなく、お母様の声に苛立たしさが刺々しくあらわれていた。
僕は思わずギリギリのところで足を止めて、曲がり角に隠れるようにして、耳だけそば立たせた。
「……でもあの子は……ほら、あそこの飴屋さんの……それで…」
相手の人は誰だろうか、声が小さいのにまして少し距離もあるせいで、途切れ途切れの言葉しか聞き取れず、僕はそのことに少し苛立たしさを覚えた。
「そんなこと言ったって、いまはそんな呑気なご時世ですか、待ってたって帰ってくるかどうかわからないじゃあありませんの!それなのに、縁談を考えもなしに断って、あの子はまるで先のことを考えていないんだわ!」
お母様は相変わらず昂った声で強く言ってのけた。
「そんな……でもあちらもなにか事情が……それに……飴を袋に入れて……結婚の約束だとも……」
二人はまさかこんな所で僕が盗み聞きしているなどとはつゆにも思わなかっただろうけど、僕にとって、その途切れ途切れのフレーズは、僕をあの日に引きずり戻すような、有無を言わさぬ強引さがあった。僕はソレを悟ると、顔からサッと血の気が引いたのを感じた。心臓がうるさいほどの音を上げながらも、血液を少しも僕の全身に送っていないようだった。
ああ、もしや、あの飴は……あの飴は……
僕は思わず身震いした。おばさんの寂しそうな顔が、ありありと浮かんで、僕の脳裏に焼くようにこびりついて、言葉なしに責めてくるのだった。
そして僕は地獄にでも落とされたように、ひどくいたたまれなくなり、心のうちに自分を叱りつけた。
僕はなんてばかだ!
あの飴は、甘くなんてちっともないのだった。
いいや、あれは、おばさんにとっては、きっと世界で一番苦い飴なのだ!!!
あの飴は、おばさんの全てが詰まった飴に違いないのに、その時の僕にはまったくわかっていなかった。そして、僕はおばさんから、その全てをほとんどくだらない私欲のみで奪ってしまったのだ。
僕は過去の自分の愚かさに呆れ、その鈍さを恨み、無神経な自分に煮え滾るような憎悪の情を抱いた。出来ることなら自分で過去の自分の襟を掴んで拳を何回か顔に叩きこみたかった。しかし、僕は無力にもその場に立ち尽くすよりほかの術などなく、心に悔しさと悲しさと怒りをぐちゃぐちゃに溜め込んで、顔を歪ませることしか出来なかった。
おばさんに謝りたかった。怒って欲しかった。飴を欲した自分が浅ましくて、どうにもならないほど情けなかった。
それなのに、あの日のおばさんは、僕を怒ったりもしなかったし、叱りつけたりもしなかった。
ああ、ああ、あの人のあの穏やかな顔は、どうしてだろうか、僕は全く理解出来ずに、空を仰いだ。
僕の頭はもはやほとんど思考を止めていたが、目に映る空だけは、ちょうどあの日のように、残酷な橙色をしていた。
飴屋 あずきに嫉妬 @mika1261
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます