鍋
紫鳥コウ
鍋
春菊に白菜、肉だんごに
「おいしそうなにおいね」
洋子は帰ってくると、そう言った。
「おかえり」
「ただいま」
洋子は自分の部屋に戻り、さっさと着替えて食卓に入ってきた。
鍋はぐつぐつと音をたてている。
「
静夫がどうぞと首で
たゆたう湯気で、洋子の姿がうっすらとしてしまった。それが消えてしまうと、ふたりの目と目が再会した。
「食べようか」
「うん」
静夫は春菊と白菜と肉だんごを
「あ、鶏肉だ」
「うん、明日は唐揚げを作るね」
「そこの菜箸かして」
空のボールの上に
「うん、おいしい」
静夫は自分のぶんを取りわけて、肉だんごを半分に割ってからかじった。火はちゃんと通っていた。
「あったかいし、幸せだなあ」
洋子はきらきらとした笑顔で静夫を見つめた。静夫は、新婚のころのふたりに戻ったような気がした。
「どんどん食べてね。そうだ、魚の切り身をいれようか」
下ごしらえはすんでいたのに、台所に置き忘れていた。
立ち上がったとき、静夫は、洋子の髪がこんなに伸びていたのかと、ようやく気づいた。
「コンロの火力をあげるね」
洋子がスイッチをひねると炎が
静夫は魚の切り身を菜箸でひとつずついれた。春菊と白菜をどけて切り身の場所をつくったせいで、少し色味がくずれてしまった。
すると洋子は、もうひとつの菜箸で具材をならして、鍋を温かみのある彩りにした。
「糸こんにゃく食べたい」
オタマを渡すときに、洋子の指に静夫の指が触れた。お互いの身体に触れるのはひさしぶりのような気がした。
「だしがしみすぎてて、食感がよくないね」
肩の方に顔をかたむけて苦笑した洋子を見て、静夫は、どきりとした。
静夫も糸こんにゃくを取ろうとしたが、うまくいかなかった。
「とってあげるよ」
静夫は洋子に自分のお椀を渡した。今度は手が触れなかった。
「これくらいでいい?」
お椀が返されて、静夫は自分の箸で糸こんにゃくをつまんだ。つるつるとすべって、数本しか残らなかった。
洋子は菜箸で魚の切り身を取った。
「ほくほくで、やわらかくて、おいしい」
もう一口切り身を食べると、洋子はごはんをくちに運んだ。
「ビール飲んでもいい?」
静夫がうなずくと、洋子は冷蔵庫へと歩いていった。
魚の切り身には、つゆがしみこんできていた。
「白菜が
席に着いた洋子は菜箸で白菜をつまみ、自分のお椀に盛ったあと、静夫の手の上にあるお椀にも入れた。
「コンロの火は消したの?」
「うん、さっきね」
洋子は缶ビールを開けた。ビールの匂いがふわっと広がり、鍋の香りに溶けていった。
人参の色が増えはじめていた。静夫は人参をみっつ自分のお椀にすくい、洋子のお椀にひとついれた。
「働いたあとのビールは格別よね。しかも、今日は鍋なんだもんね」
「お疲れさま」
静夫は自分のコップに冷たいお茶をいれた。洋子はごくごくと半分くらいまで缶を空けてしまった。
「肉だんごと鶏肉を入れるね」
「おねがい」
洋子は菜箸で入れられる肉だんごを見ていた。そして人参を口に運んだ。
「春菊がひたひたになってる」
洋子は春菊を菜箸でたくさんつまんだ。多く盛りすぎたので、自分の箸で静夫のお椀に分けた。
洋子は、晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「おいしいね」
静夫は春菊を歯で千切った。
「ビール、もう一缶飲んでいいかな?」
「いいよ。でも大丈夫?」
大丈夫よ――そういって洋子は、冷蔵庫までしっかりとした足取りでビールをとりにいった。
静夫はまた鍋をしたいと思った。冬が明けきらないうちに、洋子が喜んでくれるおいしい鍋を作ろうと決めた。
鍋 紫鳥コウ @Smilitary
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