アメと煙草とあやつり少年

 「あぁああくっそ! 爆死した!」

 路地裏の一角、一見すると廃ビルのような、蔦の貼った建物の二階。はがれかけた「天羽探偵事務所」の看板のかかるこの部屋で、男性の悲痛な叫びが誰もいない空間に響いた。

「今回何万つぎ込んだと思ってんだよ……クソ運営が」

 彼はそう吐き捨てると目の前のローテーブルにスマホを投げ捨て、年季の入ったソファに沈み込んだ。そのまま尻ポケットからくしゃくしゃになった煙草のケースを取り出し、慣れた様子で火をつける。ふう、と息を吐くと、甘ったるいにおいがあたりに広がった。

「あー仕事したくねぇー……」

 でも金もねえしなー、金払いの良いおっさんが簡単な仕事依頼してくれたりしねえかな……なんて思考を垂れ流す。いや、実際仕事の依頼は多くあり、現在も四件ほどたまっているのだが、どれも面白くない案件なのでどうもやる気が出ない。

 不意にコンコン、とドアを叩く音がした。彼はそちらを一瞥すると、ローテーブルの上からスマホを拾い上げて再びソファに腰かける。しばらくするとまたドアがコンコンと鳴ったが、それでも彼は顔を上げない。そして三度目に鳴ったところで、ようやくその重い腰を上げた。

「はいはい天羽探偵事務所です、忙しいんだから手短に頼むよ。あとドアノックは三回、二回はトイレノックだぞ知らねえのか」

「細かい男だねー、いいじゃんそれくらい。ていうかいるなら早く出てよね」

 そこにいたのは金払いの良さそうなおっさん……ではなく、小柄な若い女性。歳は大学生くらいだろうか、明るめの茶髪とぱっちりした目がよく目立つ。

 先ほどまで座っていたソファの向かい側に座るよう彼女に促し、自分も反対側に座って話を聞く姿勢をとった。面白い案件の予感はしないが、こんな辺鄙な場所まで訪ねてこられた手前、話も聞かずに追い返すわけにもいかないだろう。

「あんたが天羽和綺?」

「そうだけど。あんたは? 依頼?」

「じゃなきゃこんなとこまで来ないでしょ。あたしは涼森明日香、K大文学部の三年。同級生に探偵やってるやつがいるって聞いて来たんだけど」

 K大といえば、そこそこ有名な私立大学だ。実を言うと探偵も一時期そこに通っていたことがある。生憎もう中退しているが、在籍していれば確かに今頃は三年で彼女と同級生だっただろう。

「げ、K大に俺のこと覚えてるやつまだいたのか……。もうとっくに辞めたし、関わりもないつもりだったんだけど」

「なんだ、あんた辞めてたんだ? 別にいいけど」

「で、そのK大生がなんでまたこんなところに?」

「あたしの彼氏のことで依頼がしたいの。どういうわけか、LINEでの彼の話と実際会った時の彼の話が食い違うというか……。浮気とも思ったんだけど、彼が嘘つける人には見えないし、とにかくよく分かんないから一回調べてほしくて」

 いわゆる素行調査の依頼だろうか。それにしては要領を得ない説明だが、真剣に話す様子を見ると、彼女なりに考えて依頼しに来たのであろう。

「……なるほどな。で、その彼氏ってのは?」

「この人、森谷光。二年のとき同じクラスで仲良くなったんだけど」

 そう言って見せてくれたのは、デートの時にでも撮ったのであろうツーショット。彼女の隣に、見るからに人がよさそうな黒髪の男性が写っている。

「で、どうなの。依頼、受けてくれる?」

「んーそうだな、受けてもいいけど……高くつくぜ?」

「……知ってるけど、それくらい。同級生割引つかない?」

「そうだな……。特別に、お前が身体で払ってくれるってんならタダに…」

「最っ低!」

 パァン、と盛大な音がして、探偵が小さくうめき声をあげた。目の前の彼女は怒りからか恥ずかしさからか、顔を赤くして立ちあがり、プルプルと震えながら探偵を睨みつけている。

「あんたみたいなやつに依頼しようと思った私が馬鹿だった! 帰る!」

「冗談だよ、悪かったって。ちょっとスマホ貸してみろ」

「はあ? あんたよくこの状況でそんなこと言えるね」

「LINEってのが気になんだよ。別に悪いようにはしないから、何だったら操作画面見ててもらってもいい」

 一転して真剣な表情で探偵が言う。彼女は一瞬だけ素振りを見せたが、しぶしぶスマホを差し出した。さんきゅ、と軽くお礼を言ってデスクのパソコンにスマホを繋ぎ、ソフトウェアを立ち上げ彼女のLINEアカウントの解析に取り掛かる。

「お前、パソコンからLINEってするか?」

「や、したことないけど……」

 横から彼女がデスクトップを覗き込むが、何をやっているのか分からないといった表情だ。

 彼氏のLINEの違和感。その原因は、端的に言ってしまえば第三者によるスマホのハッキングだった。しかも相手は相当な手練れであるようで、発信元が違うことまでは分かっても具体的には特定できない。そしてそのハッキングは、涼森と彼氏とがやり取りするLINEのみに干渉しているようだ。

「へえ……。面白えじゃん」

珍しく好奇心を誘うような案件に、探偵の目が輝きだす。

「なに、なんなの? あたしのスマホがどうかしてる?」

「……よし、お前の依頼、受けてやるよ。依頼料も調査費もいらない。成功報酬だけくれりゃいい。どうだ、悪くないだろ?」

 解析を終了し、スマホを彼女に手渡した。彼女はぽかんとした表情で探偵の方を見つめている。

「悪くないっていうか、条件良すぎるんだけど……」

「珍しく面白くなりそうだからな。んじゃ、報告用の連絡先教えてくれ。メールより電話番号の方がいい」

「分かったけど、何が起きてるのか教えてくれないわけ?」

「まあまあ、解決したら全部話すから」

 腑に落ちない様子の彼女をなだめすかし、契約書にサインと連絡先を書かせて自分の連絡先も渡す。

「結果報告待ってるから、ちゃんと説明してよね」

 バタン、と扉が閉まって彼女が出ていくと、探偵はまた煙草に火をつけ、大きくひとつ息を吐いた。


                    ※


 暗闇の中、カタカタとキーボードを叩く音が部屋に響く。大きな黒縁眼鏡をかけパーカーのフードを被り、棒つきのアメを咥えた少年がブルーライトに照らされていた。

「……兄ちゃん、また彼女できたんだ。ふーん……」

 画面に浮かぶのは複雑な英数字の羅列。背を丸め、瞬きもせずに指先だけを忙しなく動かしている。

「結構かわいいじゃん。……腹立つなぁ」

 口の中で弄んでいたアメをガリッと噛むと、彼の目が怪しげに光った。

「……どうせすぐ別れるんだから。兄ちゃんにはボクがいればいいんだよ」


                    ※


 涼森明日香の依頼の翌日、探偵は約一年ぶりにK大学のキャンパス内に足を踏み入れた。

「やっぱ現役大学生は眩しいわ……。わかってたことだけど、もう帰りてえ……」

 木の葉を隠すなら森の中。大学生の素行調査なら、せっかく同じくらいの年齢なのだから、自分で潜り込んで直接本人と仲良くなるのが手っ取り早い。彼の参加する飲み会にでも同席できればこっちのものである。

 昨日のうちに彼の履修授業は調べが済んでいる。さすがに少人数授業は潜り込めないので、大教室での講義の時だけ彼の後ろに陣取って観察を始めた。見たところは特に変わったこともなく、いたって真面目な学生という印象だ。……まあ、今回の問題はハッキングが原因なのだから当たり前と言えば当たり前なのだが。

 問題は、ハッキングしたのは誰なのか、ということだ。あれからこっそり彼女とのやりとりを見させてもらったが、ハッキングによって送信されたであろうメッセージのほとんどが「今日は予定がつかなくなったからデートをキャンセルしてほしい」というものだった。単純に推測すればこの彼にはストーカー的存在、つまりこのカップルを会わせたくない人物がいるはずだ。はずなのだが、そこまでは調べきれないので彼氏本人、つまり森谷に心当たりのある人物がいないかを聞こうというわけだ。

 授業が終わってお昼休み。どういうわけか森谷は一人で食堂に行き昼食を食べ始めたので、これ幸いとばかりにそちらへ近寄る。この年代の男子がぼっち飯なんて珍しいなとも思ったが、そういや自分も大学で一緒にお昼を食べる友達などいなかったことを思い出して妙な親近感が湧いた。

「隣、空いてる?」

「え、ああ、どうぞ?」

 にっこりと営業スマイルで話しかけると、彼は少し驚いたようにこちらを見た後、承諾してくれた。

「さっき河合教授の授業受けてたでしょ? 俺、後ろに座っててさ」

「あ、そうだったんだ」

「俺ちょっと色々と事情があって今まで休学してて、今日から復学したところなんだよね。同じ授業取ってる友達もいなくてさ、よかったら今までの授業内容教えてほしいんだけど」

 もちろん完全な嘘である。しかしこのマンモス大学で、学生が一人増えたところで違和感を持つ人などいないだろう。

「そっか、追い付かなきゃいけないの大変だよね。そしたらレジュメ送ればいいかな。連絡先交換する?」

「マジで! ありがとう! LINEでいい?」

 優しいだろうとは思っていたが、こんなにもちょろいとは予想外だ。こちらとしては助かることこの上ないのだが、この件が解決したら、知らない人と安易に連絡先を交換してはいけないと忠告しておくべきかもしれない。

「あ、俺和綺。文学部三年。よろしくな」

「俺は森谷光っていうんだ。同じく文学部三年だよ。こちらこそよろしくね」

 あまりにも人を疑わなすぎる純粋なまなざしに多少の罪悪感が生まれるが、それを気にしていては話が進まない。彼には申し訳ないが、もう少し騙されていてもらおう。

 探偵が内心ほくそ笑んだことを、目の前の彼は知らない。


 それから彼と話して分かったことは、水曜四限の富田はエグ単だということ、今日の河合の授業はとても面白いということ。この辺りはどうでもいい。そして、彼女である涼森のことが大好きなこと、弟がいてそれも大好きだということ。幸いなことに俺も彼も次の授業は空きコマだったので、かなりの時間話し込むことができた。もちろん、狙ったからであるが。

 この時間で得た情報の中で特に興味深かったのは、涼森と同じ現象が森谷にも起きていることだ。

「なあ、光ってさ、カノジョいるの?」

 わざとニヤニヤしながら聞くと、彼は分かりやすく頬を染めた。

「い、るけど……?」

「へぇ、カノジョ大好きなんだ」

「まだ何も言ってないんだけど……」

「いや、分かりやすすぎるから。今時こんな初々しい大学生カップルなんているんだな」

「うん……」

 恥ずかしそうに返事をした彼の表情が、一瞬陰ったのを探偵は見逃さない。

「なんか最近トラブルでもあった?」

「いや、トラブルって程ではないんだけど、最近彼女デートに誘っても来てくれなくて……。予定が合わないならしょうがないんだけど、ちょっと寂しいなあって」

「ふーん……。なるほどな? ちなみに大学と学部って一緒? 結構会えてんの?」

「同じ学部なんだけど、あんまり授業被ってなくて……。彼女バイトも忙しいみたいだから、LINEで話したり通話したりが多いかな」

 これは大きな収穫である。彼女の受信履歴しか見ていなかったが、これは二人ともの送受信履歴を調べた方がよさそうだ。

「で、和綺は? 彼女とかいるの?」

「いねえよ悪かったな」

「え、イケメンだしモテそうなのに」

「休学してたやつに出会いなんてあるかよ」

 苦い顔で吐き捨てると、くすくすと笑われた。

「なに笑ってんだよ。勝ち組の余裕か?」

「いや別に、和綺は面白いなあと思って」

 余計なことは聞かれたが、依頼に関係なく普通に友達になりたいと思わせられる、気さくで爽やかな人物だと思った。

 そして興味深いことがもう一つ。最近ハマっていることの話になった時だ。

「俺雫って名前の弟がいるんだけど、最近学校の授業でプログラミング始まったらしくて。面白そうだから俺も一緒になって勉強してるんだよね」

「あー、最近は小学校とかでやるらしいな。弟何年生?」

「今中一かな。雫はかなり筋がいいみたいで、自作のゲームとかやらせてくれて、これが結構面白いんだよ」

「ゲーム自作って、弟ほんとに中一? それ相当だぜ」

 プログラミングと言っても中一ならせいぜいC言語入門くらいかと思っていたが、ひょっとするとC++まで使いこなしている可能性もある。彼の弟がそれ以上の実力を持っているとすれば? ……さすがに飛躍しすぎか。

「なあ、それ今度俺にもやらせてくれよ。興味ある」

「え、うーん、俺はいいけど……。弟に聞いてみるよ」

「っていうか、そうじゃなくても俺お前に大学の話とかもいろいろ聞きたいし。こんどお前んち遊びに行っていい? 実家?」

「え、うん実家。こっから結構遠いんだけど……。筑田のあたり」

「え、マジで? 俺もその辺だから全然大丈夫! 今週の土曜とか空いてる?」

 当然これも嘘である。昨日の時点で彼のLINEの発信位置情報から住所は特定済みだ。もっとも、割り出した直後に何者か―おそらくハッキングを行った人物―に妨害を食らったのだが。ギリギリ記録できたのでよかったが、危ないところだった。

「今週の土曜か……。うん、空いてる! そしたらお昼くらいに筑田駅に待ち合わせとかでいい? うちにとくに面白いものもないけど、それでもよければ」

「おう、わかった。ありがとな」

「あ、じゃあ俺次授業あるから。また連絡する!」

 予想の数倍早いスピードで彼との距離を詰め、家に行く約束まで取り付けた。今日のところは上々だろう。土曜までに一通り下調べを終えておけば、案外この依頼も早く解決するかもしれない。

「はあ、爽やかな青年を演じるのは疲れるぜ……。タバコ一本吸ってから帰ろう」


                    ※


 ハッカーに動きがあったのはその翌日、金曜日。昼過ぎに彼から送られてきたLINEには一言、『ゴメン、明日予定入っちゃって会えなくなった』と書いてあった。

「チッ、こりゃ盗聴器も仕掛けてあんな?」

 盛大に舌打ちをして、文面上は『わかった、また次の機会に』と送りつつ、そのメッセージの発信元を探る。相変わらず完全な特定はできなかったが、先日涼森明日香のスマホを解析した際のものと同じであろうことは辛うじて分かった。

「んのハッカー野郎が、めんどくせえことしやがって」

 ハッキング勝負を仕掛けてもいいが、確実に勝てる自信もないのでこちらはこちらの手を使わせてもらう。時間割は把握しているのだから、偶然を装って直接話せばいい。

 三限終わり、何気ない風を装って、彼が授業を受けている教室のそばまで歩く。タイミングよく、彼が教室から出てくるところに鉢合わせた。

「お、光。奇遇じゃん」

「和綺。昨日ぶりだね」

「明日十三時に筑田駅な、楽しみにしてるから」

「あれ、明日都合悪くなったんじゃなかったの?」

 やはりか。おそらくだが、ハッカーは光のスマホをハッキングして、偽メッセージの送受信と彼のサーバーの送受信メッセージの削除を行っている。当たり前だがLINEは送信時に通知は来ないし、送受信後にメッセージを削除してしまえばその事実さえもはや分からなくなる。もっとも、この方法は彼がスマホを見ていない隙にしかできないため、彼の生活を四六時中把握している必要がある。そこで導き出せるのは、相当粘着質なストーカーか、もしくは……同居人である。

 ストーカーだった場合、手口からしてそもそも物理的に彼のそばにはいない可能性が高いため相当骨が折れそうだが、まあそれは同居人の線を消してからでもいいだろう。当面の第一容疑者は、彼の弟だ。

「あーあれな、結局予定変わったんだよ。明日は空いてるから、時間通りに駅行くわ」

「そうなの? わかった、そしたら昨日の約束通りに」

 爽やかに手を振って別れた後、探偵は実に楽しそうな笑みを見せた。


                    ※


 昨日の午後、ほんの一分ほど、音声にノイズがかかった時があった。いつもならさほど気にしないのだが、今回はどうにも嫌な予感がする。特にあの男、和綺とかいうやつ。知り合って間もないくせにやけに親しげで、どことなく胡散臭い。兄のLINEが一瞬ハッキングされているのを発見した翌日に現れた男なのもあって、油断できない。……兄ちゃんはボクだけのものなんだから。

 昼食を食べながらそんなことを考えていると、兄が玄関で出かける準備をする気配がした。

「あれ、兄ちゃんどっか行くの?」

「うん、今から友達が来るんだけど。いいやつだから雫も仲良くなれると思うよ」

 友達? 今日の約束は取り消したはずじゃ……。まさかあの男、くそ、どこまで勘付いてる?

「え、あ、そうなんだ。楽しみにしてるね」

 動揺をなるべく表に出さないようにしながら返事をした。ボロが出ないように、今日はおとなしく過ごさなきゃ。すっかり慣れた「人見知りのかわいい雫くん」の仮面を被って。


 結論から言うと、その日は拍子抜けするくらい何も起こらなかった。二人は光の部屋で大学の話やゲームの話、趣味の話なんかをして、ボクはというと一瞬挨拶をしたくらいだった。あれだけ身構えていたのが馬鹿らしくなってくる。変わったことと言えば……男を見送りに行った兄の帰りが遅く、少し心配していたら珍しくお土産をくれたことくらい。ゲーセンに寄ったらクレーンゲームでかわいいぬいぐるみストラップがあって、ボクに似合いそうだと思って取ってくれたらしい。兄ちゃんからの贈り物なんて、このストラップは一生の宝物にすると決めた。

 あの男も所詮ちょっと勘のいいくらいの男だったか、今日はいいことがあったなと、うきうきした気分でいつものようにパソコンに向かう。今、兄はお風呂中。この隙に兄に近づこうとするやつを排除するのが、もはや日課となっている。今までは手も足も出なかった兄ちゃんの交友関係に直接干渉できるなんて、ハッキングって素晴らしい。いつものように眼鏡をかけ、フードを被り、棒つきアメを一つ開けて咥える。さあ、今日も始めようか。

 慣れた手つきでタイピングを開始する。……あの女、性懲りもなくデートの誘いしてんじゃん。早く別れればいいのに。えーこいつは送信取消……ってあれ、操作が利かない。電波妨害されてる?

「なんだよ、ガキにしちゃ立派なスペックのPC持ってんじゃん」

 突然後ろから声がした。驚いて振り返ると、そこには窓際に足をかけ部屋の中に入ろうとする、あの男。

「ひっ……」

「おっと、声出すなよ。俺は不法侵入、お前は不正アクセス。バレたらいろいろまずいだろ?」

 一瞬にして距離を詰められて、手で口を塞がれる。こくこくと頷くと、周りを確認した後解放された。

「なんでここに、というかここ二階なんですけど」

「あ? んなもん、お前がハッキングしてる現場を押さえるために決まってんだろ。ここへはよじ登ってきた」

 そんな無茶苦茶な、というかやっぱりバレて、もしかして今操作が利かなかったのもこいつのせいで?

「あ、妨害電波流されたって、俺のこと疑ってる? 残念だけど、俺自身ではないよ。……さっき、光からプレゼント貰ったろ? あれに小型電波発生装置を埋め込ませてもらったんだよ。お前、兄からの贈り物を切り裂くなんてできないだろ?」

 目の前の男が端正な顔立ちを歪めて笑う。

「……下衆野郎が」

「言うねえ。ブラコンこじらせてるお前も似たようなもんだろ」

 精一杯睨みつけるも、「ガキに凄まれたって欠片も怖くねえな」と取り付く島もない。

「で、あんたはボクの邪魔して何がしたいんです」

「単刀直入に言う。俺はお前のそのハッキング能力を買ってんだ。お前、俺専属の情報屋になれ」

「……は? 情報屋?」

 一転して真面目な顔になったかと思ったら、中学生に向かって何を言っているんだこいつは。今までもこの男は読めなかったが、今度こそ何を言っているのか分からない。

「情報屋って職業知らねえのか。まあいい、お前にはその兄からもらったプレゼントがあるのを忘れんなよ? その電波、切ってほしかったらここに来い」

 そう言って手渡されたのは一枚の名刺。『天羽探偵事務所 天羽和綺』と書いてある。

「探偵事務所? って、場所遠いんですけど」

「贅沢言うなよ、金がねえんだよ。俺探偵やってんだ。ちょっと特殊なやつ。じゃあな、いつでもいいから来いよ。待ってるから」

 男はそう言うと、入ってきた窓から出ていった。嵐のような急展開すぎて、本当に意味が分からない。妨害電波なんて、そんなもの。

 再びパソコンに向かって兄のLINEのハッキングを試みるも、本当に接続できなくなっていた。

 これがボクの生きがいだったのに、これがなきゃ兄ちゃんがどこに行ってしまうかわからない。いやだ、そんなの。……そうだ、これさえ壊せば。

 先程もらったストラップに手を伸ばし、引き出しから鋏を取り出して、刃を下に向けて握る。ストラップを押さえつけ、大きく振りかぶったところで手が止まった。『これ、雫に似合うなと思って』とはにかみながら手渡してくれた兄の顔が浮かぶ。それだけで、ひどく兄を敬愛するボクにとって、それが壊せない理由は十分だった。

「しずくー、お風呂出たから次いいよー」

 部屋の外から兄の声がする。はっと我に返って、「はーい、ありがとう」と精一杯のいい子の声を出した。

 こんな状況が続くなんて耐えられない。あの男の言いなりになるのはこの上なく不本意だが、すぐにでもこの場所、探偵事務所とやらに行く他ないと思い知らされた。


                    ※


 あの夜から雫が探偵事務所に来るまで、さほど時間はかからなかった。少年が来たのは二日後の午後。いくらかクマを濃くした顔で事務所の扉をくぐった。いつものように甘ったるい煙草を燻らせた探偵が、にやりと笑って出迎える。

「よおハッカー。早かったじゃねえか。睡眠ちゃんととってるか?」

「誰かさんのおかげでこの上なく不快な睡眠がとれてますけど? ……情報屋とやら、やればいいんでしょ」

「さすが、話が早くて助かるわ。じゃあさっそく、この人物に関連する情報、調べてくれよ」

 探偵がぴらりと一枚の写真を見せる。そこには派手な金髪にピアスをいくつも開けた、いかにも不良そうな男が写っていた。

「誰です、これ」

「朝場商事って会社の御曹司。親が金持ちなのをいいことにいろいろやらかしてるっぽくて、昨日そのおやじさん、つまり朝場商事の社長からもう揉み消しが利かないって泣きつかれたんだよ。てなわけで、俺はそいつを一週間以内に消さなきゃなんねえ」

「……は? 消す?」

「そう。それが依頼だからな」

 けろっとした様子で言い放つ探偵を、少年は信じられないといった表情で見つめる。早すぎる展開に、脳の処理が追い付いていない様子だ。

「……この世に殺し屋なんて職業、ほんとにあったんですね」

「言っとくけど本業は探偵だからな。ただ、たまーにこういう暗殺業の仕事もやってるってだけだから、そのへん勘違いすんなよ。っていうか、目の前に殺し屋がいるのにお前は怖くないわけ?」

「まあ別に、情報屋になれって言われて、その上こんなに仕事内容話されてるボクが殺されるわけはないでしょうし、この世で兄とボク以外どうなろうと知ったことじゃないですし」

 さも当然のように言ってのけた少年に、探偵は突然吹き出すと心底面白そうに笑った。

「やっぱお前最高だわ。んじゃそいつ頼んだから。欲しい情報は……そうだな、とりあえずその息子の先週一週間の行動スケジュールだな。適当な監視カメラでもハッキングして映像盗めばいけるだろ」

「ボク監視カメラのハッキングとかしたことないんですけど」

「お前のハッキングを看破できなかった俺でもできるやつだから大丈夫」

「ならあんたがやればいいじゃないですか」

 至極当然のことを言い返したつもりだったが、何言ってんだこいつ、という表情をされる。

「嫌だよめんどくせえ。そのうち俺じゃできないこと頼むようになるから、今回は初仕事だしウォーミングアップだよ。しかも今回は金持ちの依頼だから、事後情報統制も向こうが金の力で何とかしてくれんだろ。そういうわけで、あとは頼んだ。期限は一応四日後な」

「……わかりました。そしたら仕事受けるんでこれ、電波切ってくださいよ」

 少年はしぶしぶ承諾した後、鞄から例のストラップを取り出し、探偵の方に差し出す。探偵はそれを一瞥すると、

「は、やだよ」

 と言い放った。

「はあああ!? あんたこれ、切ってほしけりゃ俺のとこ来いって言いましたよね? 約束通り来たのに切ってくれないなんてことあります!?」

「受けますって言うだけ言って逃げられたら困るだろうが。俺はそうそう人を信用しないタチなんだよ」

「ボクまだ中一ですよ? 逃げるなんてできるわけないじゃないですか」

 信じられない発言に、少年は目の前のローテーブルに身を乗り出して反発した。そんなの、約束と違うじゃないか。

「とにかく、まだ切ってやんねえよ。今回の依頼が終わったらな」

「……はぁ、わかりましたよ。その代わり、この依頼が終わっても切らなかったら、ボクあんたを殺人犯として匿名で警察に情報流しますから。それくらいわけないですからね?」

「チッ、わかったよ。それはさすがに困る」

「四日後と言わず、二日後には送りますから。さっさと終わらせてくださいよ」

 そう言い残すと、ハッカーは扉から出ていく。誰もいなくなった夕日の差し込む部屋の中、逆光を浴びた探偵は薄ら笑いを浮かべた。


                    ※


 二日後の夜、宣言通り雫からターゲットの一週間の行動を事細かにまとめたデータが送られてきた。ご丁寧にも、おそらく自作であろう強力なセキュリティつきだ。

「ほんとに二日で来るなんてな。やりゃできんじゃん」

 おそらくほぼ不眠不休で監視カメラをハッキングし続けていたのだろう。『さらにクマがひどくなりました。ボクはとりあえず寝ます。決行の日時と場所決めたら教えてください。早めにお願いします。雫』とのメッセージが彼の執念を物語る。

 探偵は少し考えた後、『決行は明後日の二十一時。場所はファイル参照』と書き、一つのファイルを添付して送信をクリックした。さて、ここからもうあと一仕事。雫を本当にこちら側にするための仕掛けを完成させるべく、探偵はある人物へ電話をかける。

「もしもし、天羽だけど。……明日な。……ああ、もちろん。よろしく頼むよ」


                    ※


 不眠不休でハッキングし続け、気絶するように眠った日から二日後。昨日一日寝たおかげでだいぶ体力は回復したが、目の下のクマは相変わらず消えない。……あれだけ目を酷使すれば、それも当然なのかもしれないが。

 いくらボクなら簡単にできる監視カメラのハッキングだって、一週間分特定の人を追うなら相当な数のカメラをチェックする必要がある。学校も通常通りある中で、効率化しつつも全てを調べるには睡眠時間を削るしかなかった。あのスリリングかつ平穏な日々をできるだけ早く取り戻すためなのだから、仕方がない。

 それにしても、返信されたメッセージをチェックして、場所を知るべくファイルを開いたら面倒なセキュリティの三重構造になっていたのには腹が立った。気づいたのが遅かったため、必死になって解いたものの思ったよりもギリギリの到着になってしまった。

 そこは人気のない、古びたガレージのような場所。とてもじゃないが、ボクみたいな非力な中学生が夜に来るところではない。そっと中を覗くと、地面に転がりもうすでに事切れた男と、それを見下ろして立つ暗殺者の姿があった。

「なんだ、遅かったな。もう終わったぞ?」

「あんたがあんな面倒なセキュリティかけるからですよ」

 こちらに歩いて近づいてくると、暗殺者が多少の返り血を浴びているのが見えた。凶器は手に持ったままのナイフのようだ。

「暗殺業っていうから、もっと静かに隠密的に殺るのかと思ってました。あと物騒なんでそのナイフ早く仕舞ってください」

「わかったよ。せっかく殺るんだったら、派手な方が面白いだろ」

「……悪趣味ですよ」

「そうかもな」

 ナイフをポケットから出した布で拭き取り、鞘に仕舞いながら暗殺者はケラケラと笑う。これが人を一人殺した後の態度だとすれば、やっぱり悪趣味だと思った。

「そんなことより、妨害電波。忘れたとは言わせませんよ」

「ああ、それな、四日前にとっくに切ってあるよ」

「……はあ?」

 拍子抜けしたような表情をする情報屋に対して、暗殺者は当然だろと言い放つ。

「お前が常に身に着けてるストラップからハッキングの妨害電波なんて飛んでたら、お前監視カメラのハッキングできねえじゃん」

「……あ」

 冷静に考えればその通りである。あのハッキングは通してこのハッキングは妨害するなんて、そんなことができる代物は知らないし、あったとしてもこんな小さなストラップにはきっと埋め込まない。どうしてその考えに至らなかったのか。

「……そういや、日課だった兄ちゃんのLINEチェック、もう六日もやってない」

 一日でもできないと気が狂いそうだったのに、最近はそれどころじゃなかった。ボクは一体どうしてしまったんだろう。

「そういやついでに、見ろよこれ。今お前のスマホに送った」

 新着メッセージを見ると、何件かの画像と動画。そこには全部、兄とその彼女が写っていた。

「兄ちゃん!? ……あの女、許さない」

「まあ待てよ。その動画、再生して音声聞いてみ?」

 しぶしぶ動画を再生する。しばらくは会話も不明瞭だったが、次第に聞き取れるようになってきた。

『……で雫が、……で、ほんとにすごくて』『へえー、光、ほんと雫くんのこと大好きだよね』『まあね、ちょっとブラコンなんだよ。で、雫が……』

 そこまでで動画は終わっていた。

「ボクのこと、喋って……? ていうか大好きって、どうしようボクもう死んでもいいかもしれない」

 半ば放心状態のようにつぶやく。動画を送ってきた相手の方を見ると、はっ、と鼻で笑われた。

「生憎だがお前は殺さねえよ。お前は俺専属の情報屋になるんだからな。……他の写真も見ろよ。お前の兄貴、幸せそうな顔してんだろ」

 彼の言う通りだった。写っている兄の笑顔はどれも眩しくて、ボクの前では見せないような表情ばかりだった。

 兄ちゃんを敬愛するボクとしては、兄ちゃんの幸せを奪ってまでボクだけのものにするのは本意じゃない。兄ちゃんに近づく危険因子を排除したくて、兄ちゃんに近づくやつはみんな危険だと決めつけて、ハッキングの技術を磨いてきた。だけど……こうしてボクがその技術で犯罪に加担した今、兄ちゃんにとっての本当の危険因子はボクなのかもしれない。

「天羽さん。……いえ、和綺さん。ボクに貴方の探偵事務所の近くに部屋をください。明日からボク、そこに住みます」

「なんだよ急に。別にいいけど」

「徹底して兄ちゃんに危険を近づけないのが、ボクのポリシーですから。両親には適当な理由つけておくので、協力してください」

「……わかったよ。これからもよろしくな、情報屋」

 情報屋の真剣な様子を汲み取ったのか、暗殺者も真剣に、優しく微笑んで言う。

「ボクには森谷雫っていう立派な名前があるので、そっち呼びでお願いします」

「はいはい」

「あ、あとボクモニターが二つほど欲しいのでそれも買ってください。仕事の効率化には必要不可欠なので。暗殺依頼って、報酬高いんでしょ?」

「はいはいわかったよ、明日以降な」

 古びたガレージの中で、呆れたような笑みを浮かべる返り血を浴びた男性と、やったあ、と年相応に喜ぶ少年。その奥には死体が一人分。驚くほどにアンバランスなその光景は、月明かりに照らされて、夜の空気に溶けていった。


                    ※


「この間は悪かったな、デートの邪魔して」

「いやいやいいよ、それも依頼内容のうちだし。で、結局? 彼のあの食い違いはどういうことだったの」

 事件から数日後。探偵事務所には、事の発端となった依頼者である涼森が訪ねてきていた。

「まあ、よくある乗っ取りってやつだな。彼の本心は直接会ったときのもので、LINEの方は関係ない第三者が介入してたんだよ。犯人は突き止めたし、もうやらないだろうから安心していい」

「ふーん……そっか。その犯人ってのは、どこのどんなやつだったの」

「ただの愉快犯だよ。ハッキング元を突き止めてちょっと脅かしただけだけど、ああいうやつはターゲットに執着のあるタイプじゃないから」

 雫の存在は最低限だけ話すことにした。念のため、なるべく伏せておいた方がいいだろう。嘘をつくときは真実も程よく混ぜるのがセオリーである。

「それじゃ、成功報酬だけ振り込みよろしく。また何か依頼あったら来いよ。まあまた割引があるとは限らないけどな。次に来る時は、せいぜい浮気調査じゃないことを願うよ」

「そうだね、ありがと。それじゃ」

 彼女が出ていくと、探偵はいつものように煙草に火をつける。ポケットの中のスマホがかすかに震えて、メッセージの受信を知らせた。見ると、情報屋からである。『先日の案件について』とだけ書かれており、添付ファイルが一件。心当たりがないことに首を傾げつつ、ファイルをダウンロードして展開すると、スマホの画面いっぱいにクレープのイラストが広がった。……画像ではない。こういう類のウイルスだ。

「くっそあいつめ、めんどくせえことしやがって」

 階段を降り、二つ隣のビルを三階まで駆け上れば、ものの数十秒で情報屋のアジトにたどり着く。

「おい情報屋! てめえふざけんなよこれ戻せ!」

「あれ、和綺さん。引っかかるの早かったですね。人は信頼しないタチじゃなかったんですか?」

 情報屋は心底楽しそうに、探偵の上げ足を取って揶揄う。

「うっせえな、なんだよこれクレープって!」

「この間の三重構造セキュリティのお返しと、ボクは今クレープが食べたいですっていう意思表示です」

「知らねえよ根に持つな! んで一人で食ってこい!」

「いやだって、ボクお金ないですし」

「……っああもうわかったよ、一緒に行きゃいいんだろ。一時間後に新規の依頼人の予約入ってるからそれまでには帰ってくんぞ」

 モニターだって買ってやったのに、俺はどこまでこいつを甘やかさなきゃいけないんだ。いやもちろん断ればいいのは分かるのだが、どういうわけか強く逆らえない。

「和綺さん、ほら行きますよ! 駅前に新しいお店できたんです!」

 こいつがまだガキなのがいけないんだ、などとぼやいて、前を急ぐ少年を追いかける。疑惑と憎しみを扱う仕事と対比するかのような、こういう時間も悪くないと思ってしまうから、俺もまだまだガキなのかもしれない。

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禁秘と月影 亜月 氷空 @azuki-sora

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