ミモザの香りと木漏れ日の影
カランカラン、と小気味いい音が響いて、少し重めのドアが開いた。中を覗くように顔を出すと、奥のカウンターに立つ男性に「いらっしゃいませ」と声をかけられた。「お好きな席にどうぞ」
誰かと一緒というわけでもないので、カウンターの端のほうに遠慮がちに座る。こんな場所にこんなに素敵なカフェがあるなんて知らなかった。木目で統一した内装とかわいらしく飾ってある観葉植物、名前は何というのだろうか。薄暗い室内に、わずかに開いた天窓から木漏れ日のように差し込む太陽の光がなんとも心地いい。
「ご注文は?」
「ええと、カフェラテと…… 何かおすすめ、ありますか?」
「そうですね、甘いものはお好きですか? でしたらパンケーキはいかがでしょう。みなさまにご好評をいただいているものの一つです」
「じゃあそれで、お願いします」
「かしこまりました、少々お待ちください」
ふわりと微笑んだその男性は端正な顔立ちをしていて、コーヒーを淹れる姿は背景も相まってとても絵になる。ほかに店員は見当たらないが、一人で回しているのだろうか。店内は主にカウンター席だがテーブルもいくつかあり、広いとはいえないがそれがかえって落ち着いた雰囲気を出していた。こういうのを隠れ家的な店というのだろうか。人影もちらほらあって、パソコンを開いて作業をする女性や新聞を読みながらコーヒーを飲む男性、学生の二人組や小学生の女の子と高校生くらい男の子という二人も見える。
「お待たせしました」
目の前にコトリと置かれたカップの中はシダの葉のような模様が描かれていた。パンケーキはシンプルで、半ば溶けたバターと添えられたアイスクリームが食欲を誘う。一口食べるとふわりと控えめな甘さが広がった。そういえば、甘いものを食べたのは久しぶりかもしれない。
しまった写真撮っておこう、とスマホを探していると、ふふ、という笑い声が聞こえた。声のした方を見ると、男性が可笑しそうに笑っていた。
「すみません、あまりにも幸せそうな顔をされていたもので…… そんなに喜んでくださったのなら何よりです」
その笑った顔がとても綺麗で、一瞬息が詰まった。それと同時に、そんなに間抜けな顔だったのだろうかと途端に恥ずかしくなる。
「お気に障ったようでしたら申し訳ございません。でも、かわいらしくて素敵だと思いますよ」
「……っありがとう、ございます」
お世辞なのか、天然たらしか。どうやら人を乗せるのが上手な人らしい。
「晴綺さん、ちょっといいですかー?」
近くのテーブル席に座っていた、少女と一緒の青年が男性に声をかけた。男性は呼ばれたほうに歩いていくと、注文を取るでもなく彼らのテーブルに広げられた紙を見て何かを話し始めた。
「ここが、……だと……で……」
「それはこれが……たら……いですか?」
中身はほとんど聞き取れないが、何やら真剣な相談のようだ。他人の話を勝手に聞くのも悪いし、そういえばあの二人組兄妹にしては似てないな、などと思いながらホットケーキに視線を戻した。うん、やっぱりおいしい。
しばらくして、ちょうど食べ終わったくらいで男性が戻ってきた。何だったんだろうなあと見ていると、視線に気づいたのか目が合ってしまった。
「気になりますか?」
「え、あ、すみません。そんなつもりじゃなかったんですが」
「いえ、いいですよ。実はここ、私立相談所も開いてるんです。今の方たちは常連さんで、よく相談を受けさせていただいています。内容は顧客情報なので、秘密です」
唇に人差し指を当てて、彼はにっこりと微笑んだ。
「何かあったら、いつでもご相談ください。恋愛、勉強、仕事、人間関係など、なんでもお聞きしますよ」
せっかくなので、と渡された名刺には、「私立コンサルタント 天羽 晴綺」とある。
「てんう、さん?」
「ああごめんなさい、読みにくいですよね。あもう、です」
「あ、すみません……」
「いえ、よく間違われますので、お気になさらず」
確かに珍しい名字だろう。自分の名字は平凡なので、ちょっと羨ましい。
「こんな場所で、どうして相談所を?」
「理由は分からないのですが、うちの店、なぜか悩み事を持った方がご来店されることが多いんです。ご覧の通り狭いカフェですから、お客様とお話するうちに、いっそ相談所を開いた方がいいのではと思いまして」
皆様のお役に立てているようなのでいいんですけどね、と彼はまた笑う。よく笑う人だな、と思った。しかもその笑顔はどれも綺麗に整っていて、色々な意味で目に毒だ。
「あなたも何か、悩み事があってここに辿り着いたのではないですか?」
相変わらず笑って、しかし私の心の奥まで見透かしたような瞳に射抜かれる。
少しの間言葉が出せずにいると、彼はふっと目を和らげた。
「なんて、冗談ですよ。もし何か本当にあるようなら、あなたが話したくなった時にまたお越しください。少しは気持ちも楽になれると思います」
「……ありがとうございます、そうします」
ふと時計を見ると、少しの休憩のつもりが一時間を優に過ぎていた。会計をお願いして、店を後にする。
「またのご来店、ご相談、お待ちしております」
雰囲気もいいし、店員さんも素敵だし、また来よう。そしてその日は、そう遠くないかもしれない。
少し軽やかな足取りで歩けたのは、久しぶりのことだった。
精神的に疲れることがあって、今夜は久しぶりにあのバーに行くことにした。少し重めのドアを押すと、軽快なドアベルが響く。室内は前来た時とほとんど変わらず、ほの暗い明かりが木目調のカウンターを照らし、落ち着いた雰囲気を出していた。
「いらっしゃいませ。……瀧川さん、お久しぶりですね」
少し驚いた表情をした後、彼はにこやかに言った。
「ちょっと聞いてほしいんですけど、いいですか? ……晴綺さん」
「ええ、もちろん。そのための相談所です」
「じゃあ、お言葉に甘えて―――」
「―――だから、俺は悪くないんですよ!」
「まあまあ、話は分かったので落ち着いてください」
途中で出されたジントニックを飲みながら話していると、いつもはこの程度なら平気なのだが、疲れていたからか酔いが回ってきてしまった。これはよくない酔い方だなあと思うが、どうにも自分では止められない。
「つまりは、あなたは彼女と別れたつもりで、別の方と付き合ったんでしょう? ところが向こうはそうではなくまだ付き合っていると思っていて、別れるなんて許さないと言う。女性の嫉妬は怖いですから、怒らせないのが一番なのですが…… もう手遅れでしょうね」
「晴綺さん、どうしたらいいですか……」
「そうですね。まずあなたは、どうしたいんですか?」
「俺は……」
前の彼女のことは嫌いではない。でも今の彼女のほうがかわいいし、でも前の彼女は怒らせると何をされるか……
「……ああもう、聞いてらんない! アナタね、いつまでもそうやってうじうじしてるから面倒なことになるのよ! 男なら誠心誠意謝って、一人だけを愛しなさい!」
晴綺さんの問いから目を逸らした俺に、そばで聞いていたらしいマスターからお叱りが飛んだ。
「……だそうですよ。瀧川さん。この手の相談は、私よりマスターが適任かもしれませんね」
確かに、彼の言うことはいつも理にかなっていて、そうできたらどんなに楽かと思う。でも、俺にそんな勇気は……
「勇気がない、なんて思ってないでしょうね? 勇気なんて、あるかないかじゃない。出すか出さないかなのよ」
「……っわかり、ました。ちょっとだけ、頑張ってみます」
言い返す言葉も出なくて、でも少しだけ気も晴れたので、俺はそのまま店を出て、少し軽くなった気分で帰路に就く。
明日にでも彼女に会って話してみようと思いながら。
「お前、相変わらずみみっちい相談によく付き合うな」
カウンターに肘をつき、ロックのウイスキーを傾けながら今の一部始終を見ていた男性が言った。
「そんなこと言わないでくださいよ。皆さんのお話には平等に耳を傾けるのがこの相談所です」
少し困ったように笑って、晴綺が返答する。マスターは気づくとほかの常連客の相手をしていた。
「んなこと言っても、あいつ前に来た時も同じような女がらみの相談してなかったか?」
「よく覚えてますね」
「まあ、記憶力はいい方だからな。ていうか、毎回毎回その敬語やめろよ。むず痒くなる」
「一応ここではバーテンダーと客なんだけど…… まあいいや。そういえば、変わり者が好きそうなトニックがあるんだけど、飲む? 兄さん」
「変わり者って言うな。飲む」
少しむくれた兄――和綺に対して、晴綺は笑って準備を始める。
「まあでも、瀧川さんの話は聞いておいて損はないかな。あの人の元カノから別れさせてほしいって相談来てるし」
つい先日、相談を受けた相手がその元彼女だった。彼女は、彼氏とその浮気相手を別れさせてほしい、と依頼をしてきたのだ。
「僕はコンサルタントであって、別れさせ屋とかじゃないんだけど……」
「だからそんなもん、ことわりゃいいって言ってんだろ。人が良すぎんのも問題だと思うぜ?」
「それができたら苦労しないんだよなあ……」
はいできたよ、と和綺の前にグラスを差し出す。「シャルトリューズのヴェール、ロックが好きでしょ?」
一口飲んで「悪くねえな」と言った和綺に、バーテンダーは満足気な表情をした。
「まあもうちょい甘ったるくてもいい」
「またそんなこと言って…… 今度チョココラーダとか作ろうか」
「チョコか、いいな。じゃあ今度頼む」
僕は甘すぎてあんまり好きじゃないけど、と晴綺は笑いながらグラスを拭く。
「まあそういうわけで、彼女の依頼を遂行しないといけないわけだけど…… 瀧川さん、たぶん今の彼女を選ぶだろうね。明日くらいには話をつけようとするかも。どうしようかなあ」
「無視するとか依頼を断る、ってのは選択肢にないんだろ? じゃあちょっと手荒な方法使ってでも、依頼人の望みは全部叶えてやるべきだろ」
「まあ、兄さんならそう言うだろうと思ったよ。彼女、向こうが別れるまでは口きかないって言ってたし、もうちょっと猶予はあるかな。で、その別れさせる相手が、今朝雫くんから結果の連絡が来てたんだけど」
雫はこのあたりで一番の、腕利きの情報屋だ。年は若いが引きこもりで、甘いものに目が無い。依頼は受けたものの、肝心の相手の手掛かりが「莉菜」という名前であること、最近頻繁に会っているようであることくらいしか分からず、さっそく難航したため人物の特定を頼んだ。早くなんとかしてほしいとのことで、報酬プラスこのカフェのホットケーキ一週間分で結果の報告を急いでもらったのだ。
雫から送られてきた画像には、茶色がかったショートヘアに大きめの瞳、スポーティな恰好がよく似合いそうな大学生くらいと見られる女性。
「実は今日の昼、このお客さんが来てくれたんだよね。びっくりしたけど、たぶん怪しまれてないから大丈夫。カナタくんたちの相談に乗ってたらずいぶんと不思議そうな顔するから、僕の名刺渡して『いつでも来てください』って言った」
「……まじかよ。お前もまあめんどくさいことに巻き込まれてんなあ……」
「まあいつも通り、悪いようにはしないよ」
困ったように笑ったその瞳は、実に楽しそうに光っていた。
あの素敵なカフェを見つけて、店員さんの相談所を紹介されたのがつい昨日のこと。昨日までも、最近付き合い始めた彼氏が何か隠していて気分が落ち込んでいたのだが、今日はその現場が明らかになってしまった。電話口で必死に弁明する彼の口から出ていたのは、知らない女のファーストネーム。
浮気の片棒を担いでいたなんて、これはもう彼と一緒にいることはできない。そう思って別れ話を切り出そうとするも、どうにも言い出せずそのまま日の沈む時間帯にかかってしまった。
あてもなく道を歩く。彼と連絡もつかないし、どうしようと途方に暮れた私は、気づくとあのカフェの前に来ていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしていましたよ」
ドアを開けると、晴綺さんはまるで私の来訪を知っていたかのように笑いかけた。
「ご相談、ですか?」
「―――そうですか。それは大変でしたね。……それで、あなたは彼と別れたい、と」
「そうなんです。彼を嫌いになったわけじゃないんですが……」
どうぞ、と言って目の前に置かれたのは、オレンジの添えられたカクテル。「サービスです」
「ありがとう、ございます」
そっか、ここ夜はバーになるんだ。一口飲むと、甘いオレンジの香りとぴりっとした炭酸が広がった。度数も高くないみたいだし、甘すぎない感じがちょうどいい。晴綺さんを見上げると、目が合ってにっこりと微笑まれる。
あ、今その瞳をされるのは、異性から優しくされるのは、よくないかもしれない。
「晴綺さん、私……」
「そうだ、いっそ今電話してしまうのはいかがでしょう? ご協力しますよ」
私の言葉を遮るように、晴綺さんが提案してきた。少々面食らったが、まあそれも悪くないかもしれないと思い直して電話をかけてみる。
『なに、莉菜?』
長いコール音の後、やっと出た彼は疲れきったような声をしていた。
「幸弘? 悪いんだけど、私あなたとはこれ以上付き合えない」
先程飲んだお酒のせいか、いつもよりすんなり言葉が出た。
『はあ!? 何言ってんだよおま…… ちょ、やめろって美玲』
彼女であろう女の名前と、電話の後から聞こえてきた甘ったるい声。自分の気持ちが一気に冷めていくのを感じた。
「彼女の名前、美玲って言うんだ? ……お幸せに。二度と私に関わらないで」
『待てよ莉菜、ぅあ』
最後までは聞かずに通話を切る。何か叫んでいた気もするが、あんな男がどうなろうと知ったことか。
「……うまくいったみたいですね」
「はい、ありがとうございます。だいぶスッキリしました」
電話したことといい、ここまで思い切った行動ができたのは初めてのことだった。もしかして、この人には何か不思議な力があるから、悩みを持った人が集まるのかもしれない。
「晴綺さん、好きです」
気づくと口から言葉が零れていた。自分でも驚いたが、一度溢れてしまうともう歯止めは効かないようで。
「私、あなたが好きになってしまったみたいなんです。どうしたらいいですか?」
「それも、ご相談ですか?」
彼は少し困ったように笑って言った。そしてグラスを吹いていた手を止め、少し身を乗り出すと、私の唇に人差し指を当てて優しく微笑んだ。
「彼氏と別れて数分後に告白とは感心しませんね。自分は大切にしてください。あなたには、私よりもふさわしい人がきっといますよ」
ああやっぱり、この人にはかなわないな。振られたけれど、不思議と悲しくはなかった。短すぎる何度目かの恋は、はっきりと自覚する間もなく儚く散った。
そろそろ帰りますね、と軽く挨拶をして外へ出る。
「カクテル、美味しかったです。本当に、サービスにしていただいていいんですか?」
「ええ、もちろんですよ。あなたが新たに一歩踏み出した、その私からのささやかなお祝いです」
お上手なんですから、と笑うとふわりと微笑み返された。そのまま晴れた気持ちで帰路に就く。
雰囲気も店員さんも、とてもいい場所だった。でも、ここに来ることはもう無いかもしれない。ここでの出来事、この場所は、ひっそりと胸に留めておこう。少し惜しい気もするが、これでいいんだと思えた。
「相変わらずモテるわねえ、晴綺ちゃんは」
「……マスター、僕が女の子の接客してる時にいっつもどこかへ隠れるのやめてくれませんか?」
気づくと、今まで消えていたマスターが戻ってきていた。
「やあねえ、たまたまよ」
どうだか、と思うがこの人には何を言ってもあまり意味が無いのでやめておく。
「それに、誰にでも愛想よく微笑みかけるのがバーテンダーの仕事です」
「とか言って、優しいのは根からでしょ」
本当に、この人にはかなわない。「そんなことないです」と少し不貞腐れて言うと、可笑しそうに笑われた。
「ああでも、たぶんうちにはもう彼女も瀧川さんも来ないと思います。すみません、せっかくのお客様を減らしてしまって」
「やあね、そんなこと気にしなくていいのよ。でも、あの子は分かるけど、瀧川ちゃんはどうして?」
「たぶん彼、しばらくは例の元彼女に捕まって動けないでしょうから。これに懲りたら、もう相談しには来ないでしょう」
別段明確な根拠があるわけではない。先程の電話越しの様子から推測しただけだ。あの彼女も馬鹿ではないから、しばらくしたら別れるのではないだろうか。そうすれば全ての相談の望みをかなえたことにはなるのだが。もちろん、もしかすると一生捕まったままの可能性だってある。
「まあ、僕の知ったことではないですけどね」
青年は、これ以上ないほどのさわやかな顔で微笑んだ。
カランカラン、と控えめに音が響いて、木製の大きめのドアが開く。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「あの、相談所さん、ここですか」
疲れ切った目で店員を見つめ、高校生くらいのその青年は口を開いた。
「好きな子が、学校に来なくなっちゃって」
「わかりました。お話、聞きますのでお座りください」
この青年には、どんな飲み物がいいだろうか。バリスタとして、バーテンダーとして、相談を受ける相手には心を癒す一杯を提供することを信条としている。
「それで、あなたのご相談は?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます