忘れんぼ

亜月 氷空

忘れんぼ


 それは、ほんの些細なことだった。

 ある時ふと思いついた、すごく面白い映画脚本のアイデア。自分でも天才じゃないかと思うほどによくできた話だと、その時は思った。それがつい三時間ほど前のこと。いろいろとやることがあって、ちょっとそのことを考えないでいたら、その内容をすっかり忘れてしまった。それを「思いついた」という事実、そしてそれが「すごく面白いと思った」という感想だけは覚えているのだが、肝心の中身についてはとっかかりすら思い出せない。しばらく悶絶していたが思い出せないものはどうしようもなくて、すぐに書き留めなかったことを悔いたが、その時は「まだ若いはずなのに、年かなあ」なんて思うだけでそんなに深刻に受け止めるようなことはしなかった。


 次に起こったのは、大学の新歓で久しぶりに酒をたくさん飲んだ翌日。

 二日酔いで痛む頭を押さえて大学に行くと、さすがに具合の悪そうにしていた僕を見て、高校時代からの親友である拓斗が心配する声をかけてくれた。

「おいおい怜汰、大丈夫かよお前……。普段飲まないから加減ミスったか?」

「あー、そうかも。頭痛い……」

「ったくいつのまに、何杯飲んだんだよ。お前そんなに開けてた記憶はないんだけど」

 拓斗が呆れかえったように言う。

 何杯? えーと昨日はビールと……あれ? 僕昨日ビール飲んだっけ?

「ねえ、僕って昨日ビール飲んでた?」

「は? 新歓来てた男子で酒飲んでた奴は全員頼んでたと思うぜ?」

「あ、ああそうだったよね、ごめん変なこと聞いて」

「いや、別にいいけどよ……。そこはまだ記憶無くす所じゃなくねえか? お前今日はもう帰れよ、疲れてんだよ」

 拓斗が心配そうにこちらを見る。確かに疲れているのかもしれない。頭痛がひどいのも、昨日のことをあまり覚えていないのも、そのせいだろう。そう思って、その日はおとなしく帰ることにした。


 その次は、少し長い休みが明けた日。大学までの電車の乗り継ぎが、分からなくなっていた。休み中あまりキャンパスに行かなかったせいも、もしかするとあるかもしれないが、それにしたってどうにもおかしい。仕方なく乗換案内を検索しながら大学までたどり着いたが、その途中の道ですら見覚えが無くて、自分は一体どうしてしまったのだろうか。

 そしてその日は二つが重なった。

 拓斗と学食にお昼を食べに来た時。

「なあこないだ、地元でめっちゃ久々に駿に会ったんだよ。あいつすげー大人っぽくなってて、声かけてくれなきゃ分かんなかったわ」

「駿? って、誰? 拓斗の友達?」

「え?」

 拓斗が心底驚いているのが分かる。僕は何かおかしなことでも言っただろうか。

「え、お前、駿覚えてねえの?」

「あれ、僕も知ってる人?」

 少なくとも僕は話したことはない気がするが。

「何言ってんだよ、いただろ。高校の時にくっそ頭よくて、東応大行ったあいつ。よく遊んだり勉強教えてもらったりして、癪だけど優しくて良い奴」

 ……誰だそれは。僕だけまったく知らない砂漠に一人放り込まれた気分だ。

 頑張って思い出そうとしても、「頭のいい同級生がいた」という事実は覚えているものの、そいつと仲が良かったのか、何て名前でどんな顔をしていたのか、頭の中に靄がかかったように思い出せない。

「ごめん、……覚えてない」

 僕が申し訳なさそうな顔をしていると、拓斗は暫くあっけにとられたような表情をして、突然僕の背中をばしんと叩いた。

「どうしたんだよお前この間から、記憶力はいいほうだっただろ? しっかりしてくれよな、こっちまで調子狂うから」

 そう言いながら笑う拓斗は無理して元気を出させようとしているようで、さらに心が痛くなる。

 その場で僕は、はは、と力なく笑っておいた。


 調子の悪いことは続くもので、次に起こったのはその三日後。得意にしていたはずのパソコンによる映像編集の、やり方が分からない。映像作家を目指す自分にとって、いつもなら一時間足らずでできるはずの簡単な作業だ。それが、フォントの入れ方すらも分からず、いちいち調べていたら三時間以上かかってしまった。しかも調べている間も、「ああそうだった」と思い出すことが全くない。

 これはさすがにおかしいだろう。いくらなんでも、ただの疲れとは思えない。そう思った僕は、翌日病院に行くことにした。

 結果、若年性認知症の疑いがあると言われ、さらに精密な検査をすることになった。

 しかし、最終的に当初の病名は却下され、僕はいわゆる「未発見の病」となった。医師の話によると、若年性認知症であれば脳の血管や細胞に何かしらの損傷があり、それが機能不全を起こすらしいのだが、僕の脳は全くもって正常な状態だったらしい。医師がお手上げとなれば、僕にはもうどうしようもない。

 しかし無情にも、症状はどんどん進行していった。


 家に帰ってきて、ふと目に留まった一枚の写真。そこに映っているのは笑顔を見せる自分と、高校時代の友達……友達? 友達だった、はずだ。しかし、どんな人だっただろうか。名前は? 何をして遊んだ? だいたい、本当に友達だったのか……?

 机の引き出しを開けてみても、手帳を開いてみても、そこには全く自分の記憶に無いものがあふれていた。まるで他人の部屋にいるようで落ち着かない。頭の中に巨大なブラックホールがあって、そこに今までの記憶が次々飲み込まれていっている、そんな感覚がした。


 翌日、精神崩壊ぎりぎりで理性を保ちつつ、いつも通りに大学に行った。すると、いつも通り拓斗がそこにいる。自分の中に「いつも通り」がまだ存在していたことにほんの少しの安心感を覚え、親友と話しながら講義の場所に向かう。

「なあ、新作のあの映画、見た? あれはすごかったな、お前めっちゃ参考になるだろうから見たほうがいいぜ」

「参考? 何の?」

「……お前、まだ……。映像の、に決まってんだろ。お前、映像作家になりたいんじゃないのかよ」

 拓斗が僕から少し視線をそらして言う。その顔は苦しそうにしていて、大きく胸が痛んだ。

 なんでそんな顔をするの。僕がこんなになってしまったから、もう友達を辞めたくなった?

 映像作家を目指していた? 僕が? 覚えてない。というかここはどこだっけ、今何をしようとしてるんだっけ。大学? 僕はここの生徒なのか?

「なあ、怜汰。お前、さすがにおかしいよ。……俺にはどうしたらいいのか分かんねえけど、少しでも力になりたい。話せることは、全部話してくれよ」

 隣で親友が優しい言葉をかけてくれる。精神的にパニックになっていたのが、少し落ち着いた気がする。

「ありがとう、……っ!?」

 あれ、この人の名前、なんだっけ……?

「どうした、怜汰?」

 隣から心配そうにのぞき込んでくれる、僕の大切な……。大切な、何? 彼は僕にとっての、何者?

 ……あれ、今何を思い出そうとしてたんだっけ? 僕は、僕の、名前は……。


 僕は一体、誰なんだっけ。

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