ピアノと両親

眠れずに目が覚めた。 眠気が消えてしまった、1階へ降りる。


冷えきった床の冷たさが足裏を襲った。



「冷た....無理」


堪らず靴下を履いた、冷たさが嘘のように無くなる。





1階にあるグランドピアノ、今年に入ってからたまに弾く事があった。 ピアノの感覚を少しずつ思い出していた。





ピアノを弾く事は、休息の一つだった。 精神安定剤だ。


弾く時だけは、全てを忘れることが出来た。



ストレスを感じる日々にとって、無くてはならないもの。




仕事を始めてから、ストレスを感じやすくなった、好きでもない仕事を永遠とする毎日が辛かった。



ほんの些細な事にも、酷く苛立つこともあった。 自分に嫌気がさした。



よく演奏する曲があった、月光。


ピアノソナタ第十四番。 月光ソナタ。




ヴェートーベンが作曲した名曲。



この曲を知ったのは高校生のときで、当時はそこまで思い入れなど無かった。


ユズハが19歳になった頃、その出来事は起こった。







私は思い出す。


一年前、私は仕事帰りだった。


夜も近い夕暮れ時で、駅から少し離れた場所にある公共施設の軒先で、急な雨に降られて雨宿りをしていた。


街灯がまばらに点いていた。




雨粒がずっと落ちているのを眺めながら、私は何かを考えていた。大事なことだったと思う。




雨音を聞いている内に、雨音以外の何かが聞こえてくることに気がついた。





ピアノだった。 その音は自然に混じって溶けていた。 私はその時耳を澄ませて聴いた。



施設の内側から鳴っている。


ゆっくりと施設へ足を踏み入れた。


そこは長い通路が通ってあった。奥へ奥へと進んでいく。


すると、小さな扉があった。


扉を開けると、そこには室内に大きなグランドピアノがあるだけだった。


そこには、黒髪の長い女性が座っていた。薄暗い部屋だったのでその顔は見えない。


指がなめらかに動いていた、静かな熱があった。



私が扉を開けたことも気づいてなかったみたいだった。




彼女は次々と曲を演奏していく。


一つ曲が終われば、また新しい曲を始める。


そしてある程度時間が経った時、月光へと移った。



月光へ移ると同時に、雲に隠れた月が彼女を照らして、すごく綺麗だった事を覚えてる。



そしてうっすらと、彼女が涙を流している事もわかった。


あまりの美しさに、私も涙が溢れた。



それから数日、あの光景を忘れる事ができなかったの。




同じ女性とは思えない程に綺麗で美しかった。



嫉妬すらもあった。あの日聴いた月光の音色が、ずっと頭の中で鳴っていた。


近い日、もう一度あの場所を訪れようと思った。



その次の週の週末に、もう一度あの施設を訪れた。


私はピアノの前に座って、鍵盤を押した。


私は記憶に残る月光のメロディを一つ一つ探った。


躊躇うように続くメロディを見つけた。




それから、見様見真似で足元のペダルを踏み込んだ。途切れ途切れだった音が、空気を包みながら伸びていく。



不思議な感覚が胸を支配した。



私はその時、少しだけ満たされたように思った。


ずっと乾いていた。 お金でも、男でもない、豪華な食事や、夜景でもない。満たされた何かが、ほんの少しだけ満たされた。




ピアノが好きになったきっかけでもある。



私は幼少期に、ピアノを習い始めた。



両親の影響で。



両親二人ともピアノの先生をしていたから、ずっとピアノを教え込まれた、やりすぎなほどに。



寝ても醒めても、ピアノの事ばかりを教えられた。


楽譜の事、メロディの事、音階やスケールなど様々。



発表会にも何度も出た。 その度に賞を貰った。 成長するにつれてピアノの事を両親から話す事は少なくなった。




高校生になる頃には、音楽を通じて私は一部の音楽家の間では有名人だった。




何度も賞を取り続けたから、何も驚くことは無かった。



だが、正直そこまでピアノを好きでは無かった。



与えられた課題を演奏するだけだった生活のせいで、自分が本当にやりたかった曲を演奏できなかった。



息苦しい生活だな、と思った。




そして、高校生になった頃、両親は離婚した。




私は父親の元に行く決断をした。



母親が不倫をしていた。 つまらない理由だった。



いい歳にもなって不倫をする人間が、私はとても憎かった。



ピアノも、辞めてやろうと思った。



それから数年経って、あの女性が弾く月光を聴いた。


今まで聴いたどの演奏よりも遥かに美しくて、純度が高いものだった。



何を考えずとも、ただ美しいと思える感覚、この感覚をまた味わうことが出来るなんて思わなかった。



そこからまたピアノを始めた、家にあるグランドピアノを弾き続けた。



しかし、私がどれ程弾いたところで、あの時の月光には程遠いものだった。



もっと上手くなりたかった。



理想に追いつきたかった。 自分の下手さに悔しさがあった。




「あの女の人...誰だったんだろう」


「綺麗な人だった」


それからは、その人を見ることは1度もなかった。




何度も施設を訪れた、日中、夕暮れ時、夜、いつ行ってもその人は姿を見る事はなかった。



でも、あのメロディは、ずっと頭の中に残っている。残響のように。



忘れる事はできない、忘れてたまるものか。



人生が変わる程の旋律を、人生を変えようと思った楽曲を、簡単に忘れてはいけない。




まだ足りない、まだ足りない、何も満たされない。




私という存在が何一つ満たされない。そんな世の中はつまらないの。




私という存在が満たされる作品を沢山作りたい。



満たされたあとで、全てを失って見る夜はどのくらい綺麗なんだろう。



今ならカヲルが言っていたことがわかる気がする。




人生は芸術を模倣するなら、私の人生だって芸術を模倣した物がいい。





私は芸術家になるために生まれてきたんだから。

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