百日紅、鰤、絶望、太陽

 おちうど水族館はわが町唯一の水族館である。田舎にしてはなかなかの規模と人気を誇っているのだけど、たまにペンギンやコツメカワウソなんかが脱走しては、町中に遊びにやってくる。

 今も実家の小料理屋にコウテイペンギンが現れたというので、お客さんはざわざわ、ちょっとした騒ぎになっている。

「いいじゃないの、ちょっと飲ましてよ」

 そう言ってペンギンは鰤かま焼きをつつく。涼しい顔である。

「食べ過ぎ飲み過ぎはいけませんよ。うちが飼育員さんに叱られるんだから」

 カウンターの向こうで渋い顔をした父が、それでも焼酎のお湯割りを差し出す。ペンギンはそれをわかってる大将わかってるってと言いながら受け取る。

 私は仕事の合間をぬってスタッフルームに引っ込み、水族館に電話をかけた。

「おたくのコウテイペンギンのヤマトさん、うちに来てます」

『またヤマトさんですか』

 受話器の向こうから絶望に打ちひしがれたような声が聞こえた。

『一杯でやめろと伝えてください』

「父さん、一杯までだって」

 そう言いながらもう一度店内に顔を出した。ペンギンは私とも顔見知りである。

「ひどい。こんなに立派な鰤かまがあるのに?」

 ペンギンは焼酎をすする。「せめてあと一杯」

「駄目です」

「このお店ひさしぶりなのにぃ」

「そういえば前に逃げていらしたの、いつでしたっけ?」

 父が声をかける。

「夏だったかなぁ。店先の百日紅が咲いてたの、覚えてるよ」

 ペンギンは鰤かまをつつく。「そういえば、今日なみこさんは?」

「祖母は亡くなりました。十月に」

 私が答えると、ペンギンの箸が止まった。

 ああ彼は祖母の訃報を知らなかったのだな、と知った。ひとたび水族館に戻れば、店のことなどペンギンの耳には入るまい。まして祖母は亡くなる前日まで店に出てくるような人だったから、余計驚いたのだろう。

「そうかぁ、なみこさん亡くなったか」

 ぽかんとした声で、ペンギンは呟く。

「もう九十でしたから」

「なみこさん、いいひとだったねぇ」

 ペンギンはしみじみと呟いた。「太陽みたいなひとだったよね」

 鰤かまをきれいに食べ、焼酎をゆっくり飲み干すと、ペンギンは立ち上がった。いつものように「もう一杯」などとゴネなかった。羽根の下からビニール製の財布を取り出し、お釣りを返そうとすると「少ないけど、なみこさんに花でも買ってあげて」と受け取りを拒んだ。

 ペンギンに付き添って店の外に出た。寒空の下、すでに水族館のスタッフがワゴン車のドアを開けてスタンバイしていた。ペンギンはしずしずと乗り込んだ。

「お疲れさまです」

 スタッフに声をかけると「こちらこそすみません」と、疲れた様子で頭を下げられた。これからゲームセンターに行って、カワウソを二匹回収するのだという。

「また来るわ。お父さんに元気でって伝えて」

 ペンギンが後部座席から手を振る。スタッフがため息をつきながらワゴンの窓を閉めた。

 ワゴンは暗い道を遠ざかっていく。角を曲がってその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、私は白い息を吐きながら店の中に戻った。

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