鍋・綿・作戦
「トコちゃんと呼んでいたそうです。私は全然覚えてないんですが……」
今三十代の篠原さんが、幼稚園児だった頃の話だという。
フリーマーケットかなにかで購入した人形ではないか、と彼女のお母さんは語ったらしい。なんにせよ、今となっては出処がはっきりしない。
トコちゃんは木綿の生地に綿を詰めたらしい、ごく普通の人形だった。普通の店で売っているものと違うところといえば、いかにも素人くさい造りで、顔つきや体が歪んでいるところだろうか。それだけにかえって妙な存在感があり、正直お母さんはトコちゃんがあまり好きではなかった。でも篠原さんがやけにそれを気に入ったので、幼い娘が連れ回すままにさせていたという。
ところがトコちゃんが来て一月くらい経った頃、
「幼稚園いきたくない……」
朝、篠原さんがぐずるようになった。
「どうして? 幼稚園でいやなことがあったの?」
「トコちゃんがいくなっていう……」
そう言われて、お母さんはぞわりと肌が粟立つような心地がした。子供の戯言と流してしまえることだと思おうとしても、厭な感じがして仕方がなかった。
その夜、篠原さんが寝ている部屋の前を通りかかったお母さんは、ふと、人の話す声を聞いたように思った。
そっと襖を開けた。眠っている娘の枕元にはトコちゃんが転がっている。人の姿はない。だが、囁くような声は聞こえ続けている。
(どこから声がするのかしら)
お母さんはそっと部屋の中に踏み入った。布団の側に差し掛かったとき、ふつふつ、と声が大きくなった。
「おいてかないで……おいてかないで……」
そう聞こえた。ぎょっとして身を引いたとき、トコちゃんと目が合った。
黒いプラスチックの目が、確かにこちらを見ている――そう思った。
(こっそり捨ててしまおうか、元からいやな人形だと思っていたし……)
翌日は燃えるゴミの日だった。篠原さんを宥めすかして園バスに乗せた後、お母さんはトコちゃんをゴミ捨て場に持っていった。
人形を置いて家に戻り、洗濯を始めた。ベランダで服を干していると、ふっと生温かい風が顔に当たった。
「さくせんしっぱい」
笑いを含んだような声が耳を撫でた。
夜、娘の枕元で聞いた声とよく似ていた。
はっとして振り返った途端、部屋の真ん中にある座卓に視線が吸い寄せられた。
直前まで何もなかったはずの座卓の上に、トコちゃんが座っていた。
「――母が言うには、何度捨てても戻って来たらしいんです。今はもう手元にないんですけど」
篠原さんはそう言った。一体どうしたのか聞いてみると、
「母が占い師の人に相談したそうです。で、土鍋に河原の土と一緒にトコちゃんを入れて、紐でぐるぐる巻にして……」
引っ越すとき、その家の天袋に置いてきたという。
以来、トコちゃんを見ることはなくなった。人形と家が今どうなっているかはわからない。
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