八ヶ岳、オニカマス、血のついた詩集、人間国宝

 麓では初夏の風が吹いているというのに、遠方に見える八ヶ岳連峰はまだ雪化粧をまとっている。ある程度装備は整えてきたものの、不安は拭いきれなかった。登山の経験など、中学校の行事で夏の赤岳に一度登っただけだ。

 運転席でハンドルを握っている長瀬さんをちらりと見ると、どうやら彼女はぼくの不安を察したらしい。

「大丈夫。私、何度も登ってるから」

 そう言って、真剣な眼差しを前に向ける。山が近づくにつれて、彼女は明らかに口数が少なくなっていった。


 どうしても連れていきたいところがある、と言いだしたのは長瀬さんだ。

 彼女は高校の美術部の先輩で、ぼくが密かに憧れていたひとだった。背が高く、くっきりとした顔立ちの美人で、高嶺の花だと思っていたが、どういうわけか彼女はぼくのことを気に入った。というか、ぼくの顔を気に入ったらしい。美術部の部室で会うたびに「駒田くん、今日もいい顔してるね。ちょっと描かせてよ」と言われて、絵のモデルをやらさられたものだ。しまいには長瀬さんのスケッチブックがぼくの顔でいっぱいになってしまい、恥ずかしい思いをしたこともあった。

 そんな経緯があって、長瀬さんとは卒業したあとも連絡をとりあう仲になっている。もっともそこから恋人に進展したりする気配は微塵もないので、やっぱりぼくには高嶺の花のままなのだが。

「連れていきたいところって、一体どこなんですか?」

「ないしょ」

 長瀬さんはミステリアスに微笑んで、一切教えてくれなかった。ただ「山に登るから準備をしておいて」という指示は受けていた。

 そして五月のよく晴れた日曜日、ぼくたちはこうして目的地へと向かっている。

 山道の入り口の駐車場に車を停めると、長瀬さんは「ちょっと待ってて」と言って車を降り、トランクから布に包んだ細長いものを運んできた。

「これ見て」

 そう言って彼女が見せてくれたのは、全長70センチほどの水晶細工だった。口先の尖った細長い魚を象ったものだったが、ぞっとするほど精巧だった。今にも動き出しそうな迫力がある。

「何ですか、これ」

「オニカマス。バラクーダともいうね。これはあんまり大きくないけど」

「いやそうじゃなくて、誰の作品なんですか? まさか」

 長瀬さんの? と尋ねようとしたぼくを、彼女は笑いながら制した。「まさか! 確かに私彫刻もやってたけど、こんなものが作れるならとっくに人間国宝みたいなのになってるよ」

「じゃあ誰が?」

「それを駒田くんに見せたいわけ」

 長瀬さんはそう言うと、透明なオニカマスを布に包んでしまった。


 何度も通っているというだけあって、長瀬さんはなかなかの健脚だった。ぼくはついていくのが精一杯だ。山の中は涼しいはずなのに、しばらく歩くと額から汗がふきだしてくる。ヒイヒイ言っているぼくを見て、長瀬さんが休憩を提案してくれた。ぼくたちは道端に座って水を飲み、塩飴を舐めた。

「駒田くん、うちの母のこと覚えてる?」

 突然長瀬さんが言った。

 長瀬さんのお母さんには、高校の文化祭などで何度か会ったことがある。ぱっと見は普通のおばさん(もっとも長瀬さんの母親だから美人だ)なのだが、右手の中指が途中から失われているのが印象に残った。なんでも昔、事故で切断したのだという。

「覚えてます」確かそのお母さんは一昨年に亡くなっていたはずだ、というところまで思い出してから、ぼくはうなずいた。

「実は、母の遺言に例の場所のことが書いてあったの。これから行く場所」

 長瀬さんはそれだけ言うと、また口をつぐんでしまった。

 休憩を終えたぼくたちは、さらに山の奥へと入っていった。途中で登山道から外れて、獣道のようなところを歩き始める。「大丈夫大丈夫」と主張する長瀬さんについていくにつれ、道はますますわかりにくくなり、ぼくは内心(彼女とはぐれたら帰れないぞ)と不安を募らせた。

「着いたぁー。駒田くん、ここだよ」

 ようやく長瀬さんが足を止めた。

 そこには人ひとりがようやく立って入れるような洞窟があった。まさか、と思っていると、案の定長瀬さんは荷物の中から懐中電灯を取り出し、その中にどんどん入っていく。

「えーっ、まじですかそれ」

「大丈夫だって! 駒田くんもおいでー」

 迷ったが、彼女の姿を見失う不安の方が大きかった。ぼくも意を決して洞窟の中に飛び込んだ。

 進むにつれ、道は広くなっていった。思ったよりも大きな洞窟のようだ。奥に行くにつれて気温が下がり、汗ばんだ体が冷え始めた。

 どれくらい奥に進んだ頃だろうか。ふと、かすかな音が聞こえた。水の流れる音だ。それはどんどん大きくなり、やがてぼくたちはひとつの泉の前に出た。

 岩壁から噴水のように飛び出した一筋の水流が、地面の窪みに小さな池を作っている。それは息を呑むほどに美しかった。まるで透明な水晶でできているようだ。思わず手を伸ばしかけたぼくを、長瀬さんが「待って」と厳しい声で止めた。

「聞いてほしい話があるの」

 そう言って彼女は懐中電灯を地面に置き、リュックサックの中から一冊の文庫本を取り出した。表紙には『コクトー詩集』と印刷されている。ずいぶん古い本のようで、状態はかなり悪かった。何かある程度太さのある、鉛筆のようなものを栞代わりにしていたのだろうか? 本全体が歪んでしまっている。おまけに、あちこちに黒っぽい染みがついていた。これでは読めないページもあるだろう……と呑気なことを考えていたぼくは、ふとその染みが退色した血液であることに気づいた。全身にぞっと鳥肌が立った。

「母の形見なの」血のついた詩集を荷物の中に戻して、長瀬さんが呟いた。

「この泉を見つけたのは若い頃の母なの。そのとき母は、こうやって手を伸ばして水に触ろうとしたんだって。あまりに綺麗だったから」

 長瀬さんは右手の指を広げて、泉の方に少しだけ伸ばした。

「そしたら水に触れた中指がピタッと動かなくなってね。どうしたのかと思ったら、いきなり第一関節から先がぽろっと取れて、血がぱっと噴き出したんだって。足元を見たら、切れた自分の中指が、きらきら光る透明な水晶になって転がってたんだっていうの。ね、信じる? そのとき母ったら相当慌てたみたいで、その指を拾うと、何でかこの本にぱっと挟んじゃったのよ。そうやって持ち帰ってきたんだって。私がこの本をもらったとき、本当に水晶でできた指が挟んであったの。だからほら、こんなに歪んでるでしょう」

 懐中電灯の光に下から照らされ、奇妙な話を続ける長瀬さんは、得体のしれない魔女のように見えた。なぜ彼女はこんな与太話を、それもわざわざこんな山奥くんだりまで連れ出した上で、真面目くさってぼくに話すのだろう? これは与太話に違いないと自分に言い聞かせながら、ぼくの頭に浮かぶのはあのオニカマスだった。異様に精巧な、生々しいほどに美しい水晶細工。

「私、色んなものをこの泉に運んできた。さっきの魚もそうだし、花とか昆虫とか、ネズミなんかも持ってきたの。みんな水晶になって、今うちに飾ってあるの」

 ぼくの顔を見て、長瀬さんは怪しく微笑んだ。「ね、疑ってるんでしょう、駒田くん。でも本当だよ。実はこの本にもまだ、母の指が挟んであるんだから」

 ほら、と言って彼女はぼくに本を差し出した。

 ぼくはそれを受け取ろうと手を伸ばした、そのとき、長瀬さんの手から詩集がすべり落ちた。とっさに拾おうと身をかがめたぼくを、彼女が思い切り泉の方へと突き飛ばした。

「私、駒田くんの顔が好き。飾っておきたいくらい」

 長瀬さんの声が耳をくすぐる。その直後、氷のように冷たい水がぼくの額を打った。

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