イカ墨、蒙古タンメン、ジャズ
彼女の故郷の町はひどく寂れていた。駅前には個人商店らしき建物が並んでいたが、どこもシャッターが閉め切られており、人類が死に絶えたかのように人気がなかった。
昔はここもこんなじゃなくってね、と言い訳するように彼女が言う。
「あっ、ほら見てここ!」と指さした先の建物はやっぱりシャッターが閉まっていて、黒いスプレーで卑猥な落書きがされていた。
「今なんかこんなだけど、昔は素敵なカフェでね。店内にグランドピアノがあって、生のジャズが聴けたの。でもオーナーがウェイトレスと不倫しててさぁ」
急に彼女の声のトーンが跳ね上がり、口元がニチャッとした笑みを浮かべた。顔立ちは中の下だが歯だけは美人だな、と思う。真っ白だし、歯並びも整っている。おれは結婚相談所の職員の「ご紹介できる方の中では一番条件がいい方ですよ」という言葉をむりやり思い出した。
「最終的にこじれてウェイトレスを殺しちゃって、テンパってその死体をグランドピアノの中に入れて蓋を閉めて隠したのよ。でも蓋が閉まりきってない上に右足の膝から下がでろんと垂れてたの。オーナーは何しろテンパってたもんだから、その状態でお店をオープンさせてさ、お客さんは当然ピアノから脚が生えてるのに気づくわけじゃない。でも誰も何にも言わなかったのよ。あんまり突飛な光景だから、奇抜なインテリアだと思ったのね。かくいう私もその日たまたまママと一緒にカフェに来てたんだけど、変な飾りにしたねーって言って、アイス食べて帰っちゃった」
あーっはっはっは、と彼女は笑った。どうやら、ものすごく愉快な話をしたつもりらしかった。
「その後カフェは潰れて、蒙古タンメンってあるでしょ、あれみたいなやたら辛いラーメン出すお店になってさ、でもそれもなくなっちゃって。死んだウェイトレスの幽霊が出るんだって噂になって、誰も来なくなっちゃったのよ。やだよねぇ。激辛ラーメン食べてるときにお化けが出たらさ、すごい興ざめな感じがするじゃない」
彼女はまたあーっはっはっはと笑った。人気のないアーケードに彼女の笑い声が木霊する。
おれ、本当にこの女と結婚して大丈夫かな。両親に挨拶に来たこの期に及んで尻込みしても仕方ないのだが、ここが引き返す最後のチャンスともいえる。何しろまだ挨拶は済んでいないのだから……と言っても足はどんどん彼女の実家へと近づいていってしまう。
別れたいって言ったらどうなるかなぁ。慰謝料とか必要になりそうだよなぁ。彼女もめちゃくちゃ怒るだろうしなぁ……そんなことを考え始めると、おれはいつも尻込みしてしまう。
このままこの話の合わない、笑い方の下品な女と結婚してよいものか。でも歯はきれいだし、まだギリギリ二十代だし、実家もまぁまぁ金持ちらしい。おれのような取り柄のない三十路男には過ぎたひとかもしれない……
おれはいつもそんな風に考えて、違和感をなかったことにし続けた。今もそうやってやり過ごしている。彼女は激辛ラーメンと幽霊がいかに相性が悪いかという話を、延々と続けている。
やがてたどり着いた彼女の実家は、確かに大きくて立派だった。インターホンを鳴らすと、いらっしゃいと言いながらドヤドヤと一家が押し寄せた。歓迎ムードに、おれはひとまず胸を撫で下ろした。
「あらー、素敵なひとじゃない」
そう言ってにっこり笑った彼女の母親の顔を見て、おれはぎょっとした。歯が真っ黒なのだ。
「うちじゃ結婚した女はみんな鉄漿よ」
やっぱりねぇ、鉄漿をやめると女は駄目よと彼女は言う。靴を脱ぎながら、手を洗いながら、激辛ラーメンと幽霊の話よりずっと熱心に語っている。彼女によれば、例のウェイトレスも鉄漿をしなかったがゆえに、不慮の死を遂げる羽目になったのだそうだ。
「えっ、じゃあ君もするわけ?」
はっとしておれは尋ねた。彼女の数少ない、実家の太さといずれ失われる若さ以外には唯一といってよかった魅力は、彼女の白い歯並びだったのに。
「そりゃするわよ。いいわよね? だってあなた、鉄漿が駄目なんて今まで一言も言ったことないもの」
彼女は事も無げに言った。
そこに彼女の母親が「客間へいらっしゃい」と呼びにきた。
「今日はお寿司をとったのよ。おめでたい日ですからねぇ」
と言ってねっとりと微笑んだ未来の義母の口は、やっぱりイカ墨でも食べたようだった。
余命ってあと何十年あるのかな、などと考えながら、意気地のないおれはなすすべもなく家の奥へ奥へと、彼女に手を引かれて行くのだった。
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