おあずけ・モンハン・量子力学・氷


 うちで飼っている雑種犬はペスという名前で、「おあずけ」というと5分でも10分でもヨダレをだらだら垂らしながら、それでも律儀に餌皿の前に座っている。

 それが面白いし可愛いなぁと思っていたあまりよくない飼い主の私だが、それでも今日、試しに12分30秒経ったところで「よ……し幾三!」と古典的なギャグをやったら、突然立ち上がったペスに体当たりされて倒れたときには「ああ本当にごめんペス」と思ったものだ。

 頭を床に打ちつけて視界がブラックアウトし、気が付くと頬が冷たいものに触れていた。体を起こそうとすると皮膚が引っ張られて痛い。それでもようやく体を起こしてみると、そこは一面雪と氷の世界だった。資料映像で見る北極だの南極だのといった風景とほとんど同じである。目の前の海を、大小の氷の塊が次から次へと流れていく。

 バカみたいに口をあんぐり開けて辺りを一通り見回してから、私はようやく「寒い」と呟いた。それはもう大変寒い。部屋着のモコモコパーカーでは、とてもこの寒さを防ぐことはできない。私が一体何をしたというのだろう。ペスに無理なおあずけを強いたことが、これほど重い罪であったのか。

 真っ青になって震えていると、前方に見える海に一羽のペンギンを載せた氷塊が流れてきた。ペンギンは私を見つけると、氷塊から下りてヨタヨタとこちらに歩いてくる。何ペンギンというのだろうか。意外とでかい。身長1.2メートルはあるだろう。

「これをやろう」

 ペンギンは私に、赤い液体の入った瓶を差し出した。

「ななな、なにこれ」

 歯をガチガチ言わせながら尋ねた私に、ペンギンは「これを飲めば寒くなくなるぞ」と言った。「モンハンのアレか、アレみたいじゃん」と、寒さのあまりホットドリンクという名称が出てこなかった私だが、ええいままよと瓶の中身を一気に飲み干した。カッとする感覚が喉を通っていき、途端に全身の震えが止まって、寒さもまったく感じなくなった。

「すごい! ありがとう!」

「これが量子力学の力である」

 ペンギンはくちばしをクイッと上げて言った。たぶん人間でいうドヤ顔をしているのだろう。低学歴の私には量子力学なんてさっぱりわからないが、まぁなんかすごいことができる学問なんだろうな、と思うことにした。

「ここはどこ?」

 私の質問に、ペンギンは「ここは10万年後の沼津市である」と答えた。

「うそ、沼津がこんなことに……」

「そう。ほら、あれを見なさい」

 ペンギンは羽根を上げ、向こうに見えるひときわ大きな氷山を指した。

「あれはかつて深海水族館だった建物だ。未だ多くのダイオウグソクムシが閉じ込められている」

 ペンギンは私に頭を下げ、「どうかダイオウグソクムシを解き放ってもらえないだろうか」と言うなり、羽根の下から片手剣と盾を取り出した。

「こんなもの、どうやって持ってたの?」

「これも量子力学の力である」

 ペンギンは私に武器を装備させ、小瓶がたくさん入ったポーチをくれた。

「薬とか入ってるから」

「やっぱりモンハンなの? これ」

「モンハンは知らないが、すべては科学で説明できる。氷山の中には異常進化を遂げたメンダコがいるから、倒しながら進みなさい」

「やだなぁ」

 メンダコにははて、何属性の武器が効くのだろう……そんなことを考えながら右手に持った剣をふと眺めたとき、遠くから犬の鳴き声が聞こえた。あの迫力のない声はペスに違いない。

「しまった。眠りの深さが足りなかった」

 ペンギンが叫んだ。「せっかく戦士を見つけたと思ったのに……」

 途端にペンギンの嘆きは遠くなっていき、気が付くと私は自宅の床に倒れていて、ペスに顔を舐められていた。

「なんだ、夢だったのか」

 私は起き上がると、まだ律儀にヨダレを垂らしていたペスに「よし」と言い、それからふと窓辺に近づいた。そういえば寒波が近づいているらしい。空は灰色に曇り、よく見るとみぞれ混じりの雨が降り始めている。

 窓を開けてみた。冷たい風が顔に吹き付け、全身が震えた。やっぱりホットドリンクの効果も夢の中だけのようだ。

 私は窓を閉めながら、ダイオウグソクムシを救う戦士がいつかあのペンギンの元に現れるといいな、と思った。


(おわり)

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