自転車・ムンクの叫び・抹茶カスタードアイスプリンモナカ胡瓜味


 それは去年の夏のことだった。


 蒸し暑い夜だった。その日は大学の軽音部の演奏会があり、俺と南波は設営を手伝った縁で打ち上げに参加したのだった。盛り上がった俺たちは結局三次会のカラオケまで居座り、出てきた頃にはとっくに終電がなくなっていた。

 俺たちは仕方なく、南波のアパートを目指して線路沿いの道をふたりでのろのろと歩いた。酔っぱらった南波は、乗ってきた自転車を引いていた。

 辺りには人っ子一人おらず、時々どこか遠くから犬の鳴き声が聞こえた。俺の胸には祭りの後、というような寂寥感が漂っていた。

「柴ちん、抹茶カスタードアイスプリンモナカ胡瓜味って、結局何味だと思う?」

 南波が突然そう言った。

「ごめん、今なんつった?」

 南波は片手で器用に自転車を引きながら、スマートフォンの画面をちらっと見た。「抹茶カスタードアイスプリンモナカ胡瓜味」

「ちょっと待って、脳が追い付かん」

「姉ちゃんからLINEが来て、『抹茶カスタードアイスプリンモナカ胡瓜味って結局何味だと思う?』って」

「お前の姉ちゃん、なんでこんな時間にそんなLINE送ってくんの? そんなん胡瓜味じゃん。結局」

「胡瓜味ね」

 南波は「きゅうりあじ、と」と言いながらLINEを送り返し、スマホをポケットにしまった。

「今何時?」

「午前二時四十分とかなんか、その辺」

「あ、そう」

 どうせ今日は土曜日で何の予定もないし、まぁだからこんな時間になるまで遊んでいたのだし、何時でも構わなかった。ただ、まだまだ夜だな、とは思った。

 電車の来ない線路を時々眺めながら少し歩いた頃、南波が「おい」と言った。

「なに? またLINE?」

「そうじゃないんだけど、あの女、さっきから俺らの前にいるよな?」

 南波に促されて前方を見ると、いつの間にか俺たちのほんの5メートルほど先に人影があった。ほっそりしたシルエットはどうやら若い女性のようだ。長い髪を背中に垂らし、ひらひらしたスカートをはいている。

「全然気づかなかったけど。さっきっていつから?」

「××寺の辺りから」

 その寺にでかい霊園がくっついていることを思い出して、俺は少しだけ嫌な気持ちになった。わざとそっけない風に「で? それがどうした?」と南波に尋ねると、

「いや、こんな時間だし気になって」

 という答えが返ってきた。

「たまたまだろ」

「そうかもしれんけど」

 南波は言いにくそうに口をモゴモゴさせた。その時俺たちは街灯の下を通過し、さっきまで酔って真っ赤だった南波の顔が、いつの間にか白く戻っていることに気付いた。

「あいつ、足だけこっち向いてない?」

 誰かに聞かれることを怖れるように、小声で南波が言った。

 俺は前方を向いて目をこらした。どう見ても普通の人間じゃんと思ったその時、女の姿が別の街灯の下にさしかかり、スカートの裾が灯りの下で翻った。こちらを向いた膝小僧と、地面を蹴り上げた真っ赤な靴の爪先が見えた。

 背中に冷水を浴びたような気がした。

「あいつ、さっきはもうちょっと先にいたんだよね……」

 南波がひそひそ声で囁いた。

「このまま行くと俺たち、あいつに追いついちゃうんだけど」

「追いついちゃうんだけどってお前……」

 道変えようぜ、と言おうとしたその時、南波が「あっ!」と叫んで自転車を放り出し、そのまま来た方向に走り出した。

 前方にいた女がこちらを振り返り、関節の壊れたような動きで俺たちの方にバタバタと走り寄ってきていた。

 何かを訴えるように大きく口を開けた顔には、瞳がなかった。目の位置にはただ黒い穴が空いていた。

 俺は踵を返し、南波を追いかけて走った。ようやくコンビニを見つけて飛び込むと、一足先にたどりついた南波が、炭酸飲料の入った冷蔵庫の前で息を切らしていた。

「み、見た?」

「見た……」

 おそるおそる窓の外を見ると、もう女の姿はなかった。

「お兄さんたち、ムンク見た? ムンク」

 突然話しかけられて、俺は心臓が口から出そうになった。髪を真っ黄色に染めたコンビニの男性店員が、ニヤニヤしながら俺たちを見ていた。

「ムンクの叫びみたいな顔の女、見たでしょう。よく逃げてくるんだよねぇ、ここに」

 店員はそう言うと愉快そうに笑った。


 俺たちはそこから24時間営業のファミレスに移動し、日が高く昇るまで粘った。ようやく南波の自転車を拾いに行けたのは、昼間になってからだった。

 自転車のハンドルには、長い髪が一束巻き付いていた。


(おわり)

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