三題噺

尾八原ジュージ

婚約破棄・ヒアルロン酸・弩

 フミヨは激怒した。軽い気持ちで涙袋をイイ感じにしようとヒアルロン酸注射の治療を受けた結果、縦2センチ横3センチ、幅およそ3センチの庇のような物体が目の下にできてしまったのである。視界が地味に狭くなっただけではなく、彼女の思うところの「美人」とは程遠い顔に仕上がってしまったことに、彼女は憤りを隠せなかった。このままでは再来月に控えた結婚式どころの話ではない。下手をすれば婚約破棄である。

 美容整形を受けた病院を訴えることも考えたが、訴訟には時間がかかるらしいと聞いた。明らかにおかしな施術をしたというのに、病院の対応はまさにのらりくらりを地で行く始末、ついには同じだけ治療費を払ったら元に戻してやるなどとふざけたことを言い出し、フミヨの怒れるハートには完全に火が点いた。三千世界を焼き尽くす程の大火事である。もはや直接あの病院に乗り込み、あの院長のそっ首を獲ってやらねばおさまらないというところまで思いつめた。

 翌日、くだんのクリニックの前にはフミヨの姿があった。乗ってきたピンク色の軽自動車のトランクを開けると、そこにあったのは古代中国で実際に使われた弩であった。トランクだけでなく倒した後部座席のスペースまで使って鎮座するそれは、異様な重圧を放っていた。

 この大弓は、フミヨの亡くなった祖母が「先祖代々伝わるものよ」と言って遺してくれたものであった。これがあんたをきっと幸せにしてくれるわ……そう囁いて、病院のベッドの傍らで泣くフミヨの手をとり、そのまま微笑んで事切れたのである。今こそこれを使う時とフミヨは悟っていた。

 診察開始前のクリニックは自動ドアを閉ざし、その上にシャッターを下ろし、その手前になぜか金属製のバリケードまで物々しく備えている。フミヨは弩に重く巨大な矢をつがえ、まずは第一射、バリケードに向けて放った。三射目でバリケードにはだらしなく穴が開いた。次の矢でシャッター、そして自動ドアが同時に破壊され、フミヨはダンビラと中華包丁を手にクリニックに押し入った。

「なんの騒ぎだ!」と無防備にも出てきた院長を一刀のもとに斬り伏せたフミヨが、その首を斬り落として肩で息をしていると、奥からゾロゾロと人が出てきた。クリニックのスタッフの他、数人だが入院患者も混じっているようだ。その中に見慣れた人物の見慣れない姿を見つけて、彼女は息を呑んだ。

 婚約者のサブロウである。しかしかつてごくごく普通としか言いようのなかったはずのその鼻は、いまや縦4センチ横1センチから3センチ、高さおよそ5センチの三角定規のごとき物体に変わり果てていた。

「フミヨちゃん、まさか……」

「サブロウさん」

 フミヨは院長の首をよく磨かれた床に放り投げ、さめざめと泣き始めた。涙は彼女の庇状となった涙袋に一旦溜まり、それからぼたぼたと下に落ちた。こんな血みどろのはしたない姿を見られては、いよいよ婚約破棄である。そう覚悟したとき、彼女の肩を抱く者があった。サブロウだった。彼は何も言わずにフミヨを抱きしめた。

 抱きしめ合うふたりを見た看護師や患者たちは一斉に拍手した。

「キース! キース!」

 囃されるままにふたりはくちづけをしようとしたが、サブロウの高さ5センチの鼻がそれを許さなかった。さながら切り立った崖を持つ山脈のように、それはふたりの間に立ち塞がった。

 今度はサブロウが激怒した。


(おわり)

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