第3話 生傷は目に見えるものだけじゃない。(3)
『五十鈴が戻って参りました』
そう使用人から告げられたとき、弥生は頭を鈍器で殴られたような眩暈がした。
弥生はこの朱鷺家当主の妻。主の留守を預かる女主人だ。しかし、今は目も当てられないほどに動揺している。理由は考えるまでもなく、今の言伝。
五十鈴とは、昔、自分のこの手でこの家から追い出した女の名。十六年以上の月日が経った今、どうしてあの女が戻ってくるの、と頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「……応接間に通して。すぐに行くわ。それと、誰も近づかないよう言いなさい」
そう使用人に告げ、弥生は大きく息をついた。
ーーそうよ、私が動揺する必要なんてないわ。もう一度追い出せばいいだけの話。今更何の用か知らないけど、迂闊に戻ってきたことを後悔させてあげる。
◇◆◇
「お待たせいたしました。私が女主人の弥生ですわ」
すっと襖を開き、声高々と入ってきた女性はなんとも気の強そうな顔立ちをしていた。いかにも、と言う感じだ。茶色の髪をきつく後ろで固めて結い、杠を見下すように伏せられた目尻は上に上がっている。口元を扇子で隠し、弥生は上座に座った。
杠は弥生が廊下を歩いて来る足音を聞き、彼女が襖を開くより前に手を付き、頭を下げていた。簡単に顔を見られないように、侮られるように、この後の交渉を有利に進めるために。
「五十鈴、と言ったわね、間違いないのかしら。どうして今更戻ってきたの?貴方の居場所はもうここにはないと言うのに、本当に愚かねぇ」
あははっと楽しげに笑う弥生に、杠は少しだけ腹が立った。そして確信する。ーーー容赦する必要は無い、と。
「残念ながら、私は五十鈴ではありません。」
「は……?どういう事かしら。」
「どうもこうも、五十鈴ではないのです。」
「……っ!!顔を上げなさい!!」
弥生の動揺しきった声が響く。聞かれちゃまずい話を他人に聞かれたようなものだから仕方がない。
杠はゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに弥生を見つめる。そして、できるだけ満面の笑みを浮かべる。
「お初にお目にかかります。私は五十鈴の娘、杠と申します。」
丁寧にお辞儀をしながら挨拶をする。
騙すような真似をして申し訳ありません、と謝罪も忘れずに。
「……何ですって……!?五十鈴の娘……!?あの時、ちゃんと、」
「腹を蹴って殺したはずなのに、ですか?」
「…………っ!?」
「ふふ、そう驚いた顔をしないでください。知っていますよ。……といより、覚えています。腹の中で、貴方に、三度蹴られたこと、しっかりと。」
にっこりと微笑み、さらりと恐ろしいことを言い放つ杠を前に、弥生は恐怖に震えていた。
杠の顔は、五十鈴によく似ていた。紛れもなく親子だと証明していた。まるで、初めて出会った頃の……18歳の五十鈴が目の前に現れたかのようだった。しかも、恐ろしいのはそれだけでは無い。
ーー覚えている、ですって?あれを?では、その前のことも、後のことも?
「聞きたいことがあるのですが……」
「……何よ」
「五十鈴はこの家で奉公していて、私の父はこの家の主で、貴方は私と五十鈴を殺そうとした。このことに間違いはありませんね?」
「………………ええ。」
弥生はたっぷりと間を置いて、震える声で認めた。認めてしまった。認めてしまえば、自分の積み上げてきた全てが終わると思いながらも。
実際、”違う””知らない”とシラをきってしまおうとも思った。
しかし、弥生を見る杠の目には、”嘘をつけばどうなっても知らないぞ”とでも言うような、明らかな殺意が見えたのだ。認めるしかなかった。
一方の杠は、予想以上の反応の良さに上機嫌だった。
目の前の女は、杠と五十鈴のことを他人に知らせずに生きてきたらしい。他人に言えるわけもないだろうが、おそらく墓場まで持っていこうと思っていたはず。それなのに、突然杠という不穏分子が現れた。このままでは秘密を暴露されるかもしれない、と思い至るだろう。
実際、弥生はそう思って焦っていた。
「一体何が望みなのよ。お金?地位?何でもくれてやるわよ、何がいいの?」
「何でもいいんですか?では、この家に置いてください。」
「は…………」
ーー何を馬鹿げたことを。
弥生は思わず、立ち上がって声を張り上げた。口元を隠していた扇子は固く閉じられ、彼女の右手で握りしめられている。
「そんなこと、私が勝手に決められるわけがないでしょう!」
「では、主との交渉の場を整えてください。出来れば今、すぐに。そのくらいでしたら可能では?」
「う、……そうね、出来ない事ではないわ。でも、私は認めないわよ……!」
「そうでしょうか?では、」
弥生は口先をわなわなと震わせて、憎々しげに杠を睨む。しかし、杠は飄々とした笑顔で、更に弥生を追い詰める為の一言を告げる。
『五十鈴と私を殺そうとしたこと……いえ、五十鈴がこの屋敷にいた頃に貴方にされた事を、大勢の前で言ってしまいましょうか?』
カラン、と弥生の右手から扇子が零れ落ちた。
怒りで顔を真っ赤にして。それから告げられた内容に恐怖して真っ青になって。小娘の戯言だと切り捨てるには、あまりにも無理があった。
「大丈夫、貴方は”何も言わなくて良い”のです。その代わり、私も何も言いません。」
結局、弥生はその条件を呑み、交渉の場を整えると約束をした。
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