第3話 恐怖を前にして

 飛ばされてきた人影が岩山に激突し、砂塵が舞う。

 揺れを感じるほどのその衝撃に、俺は思わず腰を抜かしてしまった。


 口をポカンと開け、固まっていると──。


『ヴァァアアアアアアアアアアッ!!』


 後を追うように大地を震わせ地面を砕き、姿を現した── 一体の魔物イノシシ


 夜闇を思わせる黒毛に包まれた巨躯に、成人男性の腕ほどはあるであろう一対の大きな牙。目が、血走っている。

 開いた口からはドロッとした唾液を落とし、鼻の穴からは緑がかった煙を荒く吹き出す。


 ────怖い。


 俺はその、を前にして慄然とした。


「チッ、なんでこんなところに平民が……!? おいアンタ、早く逃げろッ! さあ走──」


 砂埃の中から姿を現した人物が、岩山との衝突によって手放してしまった剣を拾い上げ、俺に向かってそう叫ぶ。

 燃えるような深紅の髪を肩まで伸ばした、背の高い女性だ。


 しかし、言葉の途中で彼女に向かって突進する獣。


 女性は剣でそれをいなしたが、衝撃が凄まじかったようで痛苦の表情を浮かべ、後方に飛ばされまた別の岩にぶつかった。傷だらけの装備が外れ落ちる。


 逃げ、ないと……!

 そう思って少しでも後退しようとする。


 ──が、恐怖で脚に力が入らない。

 全身の筋肉を使い、立ち上がることができない俺がようやく出来たのは、ただ……無様に地を這い後ろに下がることだけ。


 それでも時間は進み、魔物は再び狙いを定め、女性に向かって最後の突進をしようとしている。



「た、隊長ッ!? 弓兵、射て──ッ!」


 しかし、そこでザッザッと音を立てて走ってきた十名ほどの兵士たち。

 その中の一人が固い声を上げると、瞬時につがえられた矢が一斉に放たれた。


 一直線に飛んでくる矢の数々を避けるため、方向転換するイノシシ。


 何筋かが当たったかに見えたが、黒黒とした体毛が身を硬く守っているらしく、決して刺さることは叶わない。


 俺は額に汗を浮かべ、乾燥した土の上で手と足を使い、必死にこの場を離れようとする。体に力を入れかなり動いたはずなのに、実際に移動できた距離は息を上げてようやく二、三歩分といったところだ。


「──くたばって、たまるかよォッ!!」


 隊長と呼ばれた最初の女性が剣を振りながら叫びを上げ、後から駆け付けた人たちもそれに加勢する。

 魔物は剣や槍を使って戦う兵士たちに強烈な体当たりを繰り返す。

 数人は倒れたきり、再度立ち上がることがない。


 ──逃げろ! 早く……早くっ!


 戦う力を持っていないのだから、俺は今この瞬間──全速力でダッシュして逃げるべきなんだ。背中を見せてでも少しでも遠くへ。


 だというのに──怖くて、


 畜生ッ、どれだけ臆病なんだよ!?


 兵士たちが一人、また一人と戦闘不能に陥っていく。

 地獄のような景色を前に動転していると、ちょうど──剣を構えた兵士が魔物に突撃を喰らった。


 彼の体が宙を舞う。


 落下地点にいたのは──



 ────俺。



「うぐぅッッ?!」


 布の服を着た俺が、金属製の装備を身に付けた兵士とぶち当たる。

 骨が、軋んだ。


 兵士の腕が顔に当たって意識がぽあっと遠くなり、「うぅ……」と呻き声を上げて蹲る。

 乱れた呼吸。

 苦しい……。


「ハァ……ハァ……ッ」


 鼻血を垂らしながら確認すると、隣で倒れている兵士は完全に気を失っていた。でも、幸い息はある。


 狼狽し腰を抜かしていた俺は、顔面に残る痛みによって恐怖から意識が逸れ、ようやくふらつきながらも何とか立ち上がることに成功する。

 膝の震えはいまだに収まらない。自分の脚だというのに満足に動かすことができず、やっとの思いで右足を前に運ぶ。


 と──そこで。

 ふいに隣で倒れている兵士に目が行った。


 このままこの人を放置すれば、あとで魔物に殺されるだろう。他の兵士たちも皆、全く知らない赤の他人だ。俺はまだ死にたくない。一秒でも早く次の一歩を踏み出して、この場から逃げ出す──


 いや、わかってる。

 逃げることが正解で、それ以外は間違いだと。


 けれどこの人を近くの岩の裏まで引きずって、隠すくらいなら……!


 愚かな俺は、この状況で『人助け』を選ぼうとした。何か計算があるわけでも、信念に従うわけでもなく──ただ、から。理性ではなく馬鹿な感情を優先して。


 もしかするとクリスタに何もできなかった後悔があるから。

 死ぬ前に最後、のかもしれない。


 半ば自暴自棄になって、男の脇の下に腕を通す。そして引きずる前に、顔をパッと向け戦況を確かめ────




 魔物と、目が合った。

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