第三話「吸血鬼、ちひろを買う」

「……私ね、死んじゃってもいいかなって思ってたんだ。ちょっと考えが突飛だって人が聞いたら言いそうだけどね」


 ロベルトに吸血されたこと、そして吸血鬼の存在にパニックとなったちひろは少し落ち着きを取り戻した。ただし、相も変わらず刻まれた表情は虚ろなままで。


 穏やかではないことを唐突に言い出したちひろに対して、ロベルトは取り乱すことなくその言葉を受け止めた。


 彼は知ってるのだ。


 そういった目をした人間が自分の命に対して執着心を失いかけていることを。


 過去の記憶と重なる。ロベルトの家族の中には自殺のつもりで吸血鬼である彼の所を訪れたものも少なくなかった。


 そんな、あの頃の彼らとちひろがロベルトには重なって見えていたのだ。


「私ね、父親がいないからお母さんと妹、その三人で暮らしてたの。私は高校生だからバイトもして家計を助けて……それで成立してる感じが不幸なはずなのに、なんかちょっと良くってさ。今思えば幸せだった」


 ちひろは視線を空に預け、ただ確かに聞いてくれる存在が隣にいるだけは意識しているようにゆっくりと。誰かに聞かせるテンポでゆっくりと語る。


 同じようにロベルトも天を仰ぐ。


 夜空に釣り下がる三日月。周囲に散りばめられた星屑。心がもたれるには、この上ない光景がそこにはあった。


「幸せだった、か……つまりは?」

「この間ね、事件があったの。警察の人は事件の可能性が高いって言ってたわ。知らない? この街で二人亡くなってるの。……いえ、亡くなったかどうかに関してはまだ断定できないって言ってたっけ。少なくとも痕跡から事故じゃないんだって」

「ごめんね……僕は日本に来たばかりで右も左も分からないんだ。事件を把握する余裕はなかったよ」


 ロベルトが自らの不勉強を恥じるかのように語ると、ちひろはクスクスと心のこもっていない笑い声を漏らす。


「まぁ、知って嬉しいニュースじゃないからね。……で、その事件っていうのは道端に大量の血液が散乱。誰かが殺されたんじゃないかって」

「……つまり、そこに遺体はなかったってこと?」

「そう。ただ、あの出血量じゃあ被害者は生きていないんじゃないかって話。確定じゃないけど、ほぼって話ね。……で、今日までずーっと、帰ってきてないんだ。お母さんと妹……いのりっていうんだけど。で、犯人からアプローチもないから誘拐の可能性も低いらしいわ」

「タイミング的には合致するって言いたいのかな? でも事件の被害者が君の家族二人ってのは確定じゃないよね?」

「事件現場に車椅子が倒れてたの。血塗れの車椅子。いのりはね、小さい頃に事故で足が動かなくなっちゃって……だから、車椅子で生活してた。あの子を押して歩くのは普段、私の役目だった。ちょっとスピードを出してやると怖がりながらも喜んだりしてね……そんな車椅子を、私が見間違うはずないじゃない?」


 困ったように笑いながらちひろはロベルトに視線を移す。


 彼は真剣な表情でちひろの迷ったような表情を見つめつつ、ちひろが語った言葉に秘められた絶望と悲哀。それを受け取り、全身から力が抜けるような感覚に陥る


 自分の家族が欠ける痛み。

 あったものがなくなる喪失感。


 病床で自分の手を握り返す家族の力が抜け落ちた瞬間の絶望と悲しみを、ロベルトは思い出していた。


 ちひろの場合は事件だった。それゆえの精神的ショックから磨耗し、気力はロベルトと邂逅した時に切れた。それほどまでに心痛めた彼女の悲しみと、ロベルトの過去。


 その二つの距離はそれほど離れていないのだろう。


 自分もこんな風に困った笑みで、残った家族と思い出話をしたことがあった。そのように彼が考えていると――、


「え……えぇ? ちょ、何なのよ。……そんな、何であんたが泣いてんのよ」


 気付けばロベルトは大粒の涙を流してちひろの抱く胸中を慮り、その心を痛めていた。彼自身も指摘されるまで気付かないほど自然と、落涙はそこにあったのだ。


 そんな彼の唐突な感情の動向に目を丸くし、困惑で対処も決められないちひろ。一方でロベルトは涙を拭うことなく真剣に彼女の心に、心で寄り添おうとしていた。


 ロベルトは優しい吸血鬼である。


 自分の心に刻まれた悲しみや過去と、共振する何かに涙を誘われることだってある、ちゃんと心のある人間と遜色ない存在。……少し涙脆過ぎるかもしれないが。


 だからこそ彼は今、ちひろの抱える問題であったり悲しみを自分のことのように考えている。クールなようでいてエモーショナルなロベルトの本質は、痛々しいほどに曝け出されていた。


「……それで君は、家族を失った悲しみで後を追って自殺しようと? もう肉親がいない世界はいいやって? そう思って命を投げ出そうと思ったの? 家族が本当は生きている可能性だってゼロじゃないのに?」

「…………まぁ、そんな感じ。本気で考えてたかは自分でも分からないけど、あんたとこうして話すまでは本当に自分一人で抱え過ぎて……潰れちゃいそうだったわ。今は少しだけ楽になれたって感じもするけどね。あんたが代わりに泣いてくれたし」


 そう語ってまた、困ったように笑うちひろ。

 しかし、ロベルトは感じ取っていた。


 ちひろが強い人間であること。感情の高ぶりで簡単に行動を起こしたりしない、抑えの効く人間であること。きっと実際に命を投げ出すことはしないであろう強さを、感じていた。


 でも、だからこそロベルトのように辛いことに涙を流したりしないのだろう。きっと彼女は--泣かないのだろう。


 とはいえ、やはりショックは隠せなくて。さっぱりと諦めて、ゲームの電源ボタンでも切るかのように、あっさりと人生の幕を閉じようとする思惑が瞬間的にはあった。


 なら、それは――優しい吸血鬼が最も嫌うことである。


「ちひろ。……君は馬鹿だよ」

「え?」

「君は大馬鹿だって言ってんだよ!」


 ロベルトは不意にちひろの体を抱きしめる。

 そして何度も耳元で「馬鹿だ」と囁きを繰り返す。


 それは永遠の時を生きる彼にとっては些細なコミュニケーション。しかし思春期の少女にとってはどんな状況、境遇であろうと些末事にはならないらしく、ちひろの顔はまたしても紅潮していく。


 ロベルトに対して抵抗すべく体をもじらせるちひろだが、彼の力が上回っており彼女に成す術はなかった。


 優しい吸血鬼ロベルトは同時に、熱血とも言うべき――熱い吸血鬼である。


 彼のスイッチを入れてしまった時点で、舞鶴ちひろの敗北は確定していた。


「たかだか二十年か三十年か知らないけど、その程度を生きたくらいで完全に人生悟った気になりやがって! いくら辛くたって生きなきゃ始まらないんだよ! いつか死が訪れるからこそ……人間はそれまで必死に生きなきゃダメなんだよ!」

「ちょ、失礼な! 私はまだ十八年しか生きてないわよ!」

「十八年? そんなの僕からしたら赤ん坊みたいなもんだ。尚更、僕は怒り心頭だよ! それで死んでしまおうなんて、絶対に許さない!」

「いや、そうちょっと考えただけで死ぬなんてはっきりとは……っていか、分かった! 死なない! 死なないから離してってば!」

「まぁ僕も無責任に君へ生きろとは言わないよ。人間は生きる希望、支柱があって初めて人生を歩けるもの。僕と違って惰性では生きられない。だからこそ、君にはきちんとした希望が必要だ。それは僕があげられるものの中にないだろうか……?」


 感情任せにちひろを抱き寄せ、根性論にも等しいことを語り連ねたロベルトだったが、一旦冷静になったのか彼女への抱擁は解除。


 探偵が悩むかのようなポーズで思案顔となるロベルト。


 一方で人生に経験ない、異性にギュッと抱擁されるというシチュエーションで先ほどまで虚ろな目をしていた死にたがりは、完全にそんな思考をすっ飛ばされてしまっていた。


 ただ、体の内を反響する鼓動が早鐘を打つ。


 ――いや、彼女がそのように何か熱い感情で内側を焼かれる思いを感じ、鼓動を高鳴らせているのは単純な男女がどうという問題ではないのだろう。


 彼女を「強い」と表現したロベルトの言葉は間違っていないのかも知れないが、それでもちひろはまだ未成年。学生であり、大人に庇護される子供であることも事実。


 そんな彼女にとって家族を失った悲しみに打ちひしがれ、孤独の道が通ずるのは人生の終着駅。そのように考えていたのだ。


 そんな時にこのような酔狂な吸血鬼に巡り合い「生きろ」と言われてしまった。


 人間が百年生き、各々が人生で別の物語を歩むこの世界。


 しかし、誰かに抱擁され「生きろ」と囁かれ、死にたいネガティブな心をコテンパンにされるなんてシチュエーション、どれだけの人間が迎えられるものだろうか?


 熱烈な言葉は届く。

 確かな響きが、心を震わす。


 一度は死を選びかけたちひろの心にとって、それは僅かな灯りかも知れない。それでも、希望のようなものが灯ってしまった。


 そして、ロベルトはそれを見逃していない。

 命の灯は絶えることなく輝かせなくてはならない。


 そのための何かを考え――そして、導いた。


「もし死ぬというのなら……その命は僕が引き受けよう。買い取るといってもいい。僕、吸血鬼ロベルトはこの国に家族と呼べるコミュニティを作るためやってきた。そして、死にたがりの少女と出会った……いいね、運命的だよ」


 ロベルトは立ち上がり語った。情感たっぷりに……そう、演劇のセリフであるかのように。


 しかしロベルトは大真面目で……心から溢れる感情に全てを委ね、舵を切らせ、思い思いに言葉を紡ぐ。


 そして、語りながら思い出していた。


 トランク一つとボロボロな服。

 腫れぼったい頬が痛々しくて。

 虚ろな瞳を持った少女と出会い、迎え入れたいつかの記憶を。


 それがあの日々の始まりだった。


 そして重なっていた。

 だからこそ彼には確信がある。


 根拠のない確信が、彼の予感を後押しする。ここから始まる……そう、ここから始まるのだと。


 物語の産声。

 鼓動の第一声を聞いた気がしたのだ。

 だから――、


「君が絶望するなら、僕が希望になるよ。君の生きる支柱にだってなろう。僕が作る明日をまずは生きてほしい……それからだって死ぬのは遅くないだろう? 決めたよ! 君は生きるんだ。生まれ変わったって感覚だっていい。僕が生かすんだから――死ぬなんて許しはしない!」


 指差され、ちひろへと差し向けられた言葉。熱烈で、迷いなく真っ直ぐな言葉。それは彼女の胸を打つ。しかし、それに対して彼女が思うことは一つだった。


(いや、だから死なないって言ってるじゃない……)


 まさにロベルトという吸血鬼を表したような温度差。彼はそういうやつなのである。ただ、過去に彼と共に生きた者たちはそういう部分に惹かれたのかも知れない。


 瞳に少しの輝きが宿ったちひろの表情は、うっすら微笑みを湛えていた。

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