138 麦の成長期間


「随分と慣れてきたな。そろそろ交渉事は全部任せちまっていいかね」

「まだまだ何があるか分からないので、ご指導いただけると嬉しいです」


 青空の下、畑までの短いあぜ道を歩きながらカリウムが鼻歌を歌いがながらそんなことを言い出したので、とんでもないと笑顔で軽く頭を下げてみせた。


 カリウムはあのニヤニヤ笑いさえなければそこそこ頼りになる男だ。

 少し前にリジンでやらかした件にしても、俺がまだこの世界の常識を分かっていないから起きたことだ。

 特に聖王国での失敗はギルドやオレガノに直接的な被害が及ぶ可能性が高い。傍について見ていてくれる人がいるなら、頼んでおいて損はないだろう。


「俺は護衛料しかもらってないんだが?

 指導料は別途手当てが欲しいもんだね」


 口の端を緩く持ち上げたカリウムが横目に俺を見る。

 本気で言っているのではないのだろう。目の奥が笑っている。


「そうですか。ではそれをお支払いする代わりに夜のお遊びは控えて頂くということで」

「なっ、何!?」

「いつ何があるかわかりませんから。

 追加料金をお支払いする以上はずっと見ていていただかないと、ねぇ?」

「ぐぬぬ…」


 あっさり了解した俺がそれを言い出すとは思わなかったのか、カリウムは目を白黒させ押し黙った。羽根を伸ばせていたので夜遊びは案外いい息抜きになっていたのかもしれない。


「冗談ですよ。その代わり追加料金の支払いはベーカリーのパン1つということで」

「おまっ、それはさすがに安すぎるだろ!?せめて3つはつけろよ!」


 3つか。うーん…今後ずっとかさみ続けるとなるとちょっと高いか?。


「出来高制ということでどうです?フォローした交渉事ごとにということで」


 どうせ基本の護衛料は支払っているんだ。付き添いだけなら護衛に含まれるだろう。

 指導料というからにはそこからのプラスαの部分につくべきだろう。

 つまり俺がヘマをしない限りは支払わないくていいことになるわけだ。


 ま、土産用に買って帰るパンを3つ多めに渡すくらいならいいか。


「よし、言ったな?忘れるなよ、それ」

「もちろん」


 カリウムが片手を上げてきたので、その手に軽く掌をあてて音を立てた。

 日本だと約束事と言えば指切りだが、こっちの世界では…少なくともオレガノ周辺ではこれが約束や合意の時にするハンドサインのようだ。


 カリウムの方も追加報酬が増えるということで悪い気はしないらしい。

 神とか兄弟とかの単語が当たり前に飛び交う会話はそれだけで地味にメンタルにダメージを喰らう。そのくらいのご褒美はあってもいいだろう。


「それにしても麦が随分と育ってますね?

 確かラプターの被害を受けたのって先月だったはずなのに」


 風に吹かれて揺れる畑の麦は既に穂をつけていて、穂の部分だけすでに小麦色になっている。

 買い取っている麦は茎まで全部が小麦色だから、もう少ししたら収穫なのだろう。

 しかしあれからまだ2月経っていないはずだ。ちょっと成長スピードが速くないだろうか?

 それとも俺が知らないだけで実は3カ月もあれば麦というのは育つのだろうか?


「農作物なんて数日もあれば育つだろ?」

「えっ?」

「え?」


 俺達はしばしその場で固まり、互いを見つめ合ってしまった。

 しかしいくらなんでもそんなに早く植物が育たないことくらい俺だって知っている。

 学校の花壇に植えたチューリップや観察日記を書かされた朝顔だってそんなに早く芽を出さなかった。それなのに数日なんて、さすがにちょっとおかしくないか?


「えっと…カリウムさんは農家だったことが?」

「いや、違うけど。でもそんなもんだろ?

 でなきゃ農業ができない土地までパンが行き渡るはずないじゃないか?」

「それは畑の数が多いからじゃないんですか?」

「多いったってまともに麦を育ててる地域なんて限られてるぜ?

 聖王国産の麦が大部分占めてるんじゃなかったかな」


 カリウムは記憶を引っ張り出すように眉を寄せて唸っているが、どうやら本気で言っているようだ。

 俺もこの世界は農業に向かない土地が多いという話は聞いたが、まさか農作物が数日で育つというのは言い過ぎだろう。


「まぁいいか。正解は農民あいつらに訊けばわかるだろ」

「そうですね」


 俺もまだ半信半疑だったが、確かにこんな場所で2人であれこれ言い合っていても埒があかない。直接畑の世話をしている農民たちに訊けばすぐに答えはでるだろう。

 俺達は足早に畑仕事をしている農民に駆け寄った。


「すみません、ちょっといいですか兄弟!」

「え?あ、俺の事でしょうか…?」

「作業中にすみません、兄弟。今日も慈悲深きローレン神の加護あらんことを。

 この麦畑で偉大なローレン神の恵みを賜れるのは何日おきですか?」

「慈悲深き兄弟にローレン神の光あれ。

 日にもよりますが早ければ2日、遅くとも3日目の朝にはもう麦は黄金色になっております。

 でも、それが何か?」


 水の入った桶を小脇に抱えながら彼は心底不思議そうな目で俺を見つめた。

 その表情からは嘘をついて騙してやろうとか、悪意のある他意はまったく読み取れない。


「な?」

「……」


 俺はこの世界を甘く見ていたのかもしれない。

 太陽が西から昇るのはまぁよしとしよう。オレガノ周辺は昼は真夏のように暑いのに夜は真冬のように冷え込むのも、ほぼ砂漠に近い荒野だからだと思えば我慢もできた。

 けれどまさか山一つ越えた聖王国の土地で農作物がそんなスピードで成長し、刈り取られているとは。


 失われたという古代文明がそれだけ発達していて品種改良が進んでいたのか、それとも魔法が実在する世界で地球の常識が通用しないだけなのか…。

 いや、ホントこの世界は色々と俺の度肝を抜いてくるな?


 しかしだからなのかと理解もできる。

 食料不足なこの世界で麦の価格が恐ろしく安いのも、それだけのペースで収穫し続けられるからなんだろう。市場に出回る家畜肉の値段が安いから干し肉が携帯食として重宝されているのだ。…味はともかくとして。


 でもそんなペースで収穫できるなら、藁も余ってるかもしれないな。


 俺は気分を持ち直して目の前で首を傾げている男に向かって再び口を開いた。




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