135 湯たんぽ


 “くれぐれも変な気は起こすなよ”と最後に念押ししてイオレットさんは笑顔で部屋から出ていった。

 いや、うん。だから、どうしてこうなった?


 頬を真っ赤に染めたニュクスィーの寝顔を眺めつつ、俺は小さく溜息をついた。

 マスターから聞いた中級治療キッドの話をイオレットさんにしておいたので、人手が足りていれば誰かをリジンに向かわせてくれるだろう。それが届いてニュクスィーに飲ませるまでは、俺が人間湯たんぽになるしかない。


 はぁ…ホント、どうしてこうなった?


 どこかで歯車が食い違ったとしか思えない。

 ニュクスィーが発熱してぶっ倒れる前に助けを求められたら違っていただろうし、そもそも俺達の襲撃についてこなければこんなことにはならなかったんじゃないだろうか。


「…め…なさ…」

「うん?」


 なにか夢でも見ているのか閉じた瞼の間から涙を滲ませながらニュクスィーの唇が動いた。

 耳を澄ましてよく聞きとってみると“ごめんなさい”を何度も繰り返しているようだった。

 あの夜、血の海にしゃがみ込んで泣きながらニュクスィーが繰り返していた言葉と同じだった。


「……」

「ごめんなさ…ごめ…なさ…」

「もう、いい」


 聞いていられなくて、ニュクスィーの体を抱き寄せた。

 腕の中にすっぽりおさまってしまうこんな痩せた体を力いっぱい突き飛ばしたのかと思うと今更罪悪感が湧いてきた。


 だから何度もついてくるなって言ったんだ…。


 苦い感情が胸にせり上がってくる。

 どうせ力づくでしか対応できないのなら、塔に入る前に力づくで追い返してしまえばよかった。殴ってでも追い返していたら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。


 “あたしは見知らぬ誰かよりも歩が大事だもんっ!”


 乱暴に突き飛ばした俺に必死にしがみついてきた細い肩を思い出す。


 あの瞬間、わかってしまった。

 ニュクスィーは襲撃を止めにきたんじゃない。俺を止めに来たんだと。

 まだ起こってもいない事件を案じた俺と違って、ニュクスィーは助けに来たんだと。

 でもそれに気づいた時にはもう手遅れで、ニュクスィーにとって最悪な巻き込み方をしてしまった。


 何度も帰れと言ったのに帰らなかったのはニュクスィーだし、1階に下りてくるなという言いつけを破ったのもニュクスィーだ。

 だけどあんな形で巻き込んで傷つけることなんて、少なくとも俺は望んでいなかった。


 やっぱりあなたを許せません、老師。

 ニュクスィーにとって幸運なんてどこにもなかった。


 涙が枯れるほど傷つけて、背負わなくてもいい罪を背負わせてしまった。

 厳しい現実を教えるにしたって段階を踏むとか時期を考えるとか、色々と方法はあったはずだ。それらを全部すっ飛ばして、何が幸運だというのか。


「んん…」


 眠りながら無意識に暖を求めたのかニュクスィーが自分から体を寄せてきた。

 ぴったりくっつくと体幹は火照っているのに、手足は驚くほど冷え切っているのが分かる。

 小さな呼吸音が未だに途切れていないのに安堵しながらそっとその背中を撫でてみた。ニュクスィーの背中は呼吸に合わせて小さく上下している。気づけばもうその唇から消え入りそうな寝言は聞こえてこなかった。


「俺を助けに来てくれてありがとうな」


 穏やかな顔で眠り続けるニュクスィーにそっと囁く。

 起きていたら絶対に言えない身勝手な言葉だ。だって俺はニュクスィーに何もしてやることが出来ないから。その罪を代わりに背負ってやることも、慰めの言葉をかけてやることも。


 あの時、あの一瞬だけ俺は確かに救われたんだと思う。

 その細い肩さえしっかり抱き締めていられたら、もしかしたら血に濡れた刀を振るわなくても俺は幸せになれたのかもしれないと、そう錯覚できてしまう程度には。


 けれど現実は残酷で、身を挺して飛び込んできたニュクスィーを一番傷つけた。最も罪のない者を奈落の底に叩きつけた。

 その片棒を担いだ俺が、今更ニュクスィーにどんな顔を向けられるというのか。


「すぅ…」


 ニュクスィーの寝顔を眺めながら、俺はいつの間にか眠りの海へ落ちていった。





「…?」


 頬に何かが触れた気がして目が覚めた。瞼を持ち上げるとまだ顔の赤いニュクスィーが不思議そうな顔で俺の頬を指でつついていた。


「あ、起きた」

「当り前だろう。何してるんだ」


 頬をつつく指をどけながら尋ねると、ニュクスィーはそれに抵抗せず指を下ろした。


「歩があたしのベッドで寝てるから、夢じゃないかと思って」


 …まぁ普通に考えればそうなるか。俺だってたぶんそう思うだろうし。


「熱を出したお前が寒いって言うから、イオレットさんに温めておいてやれって言われたんだよ。

 でももう起きたんなら必要ないよな。マスターに何か胃腸に良さそうなものを作ってもらってくる」

「だ、だめっ。まだちょっと寒い、から…」


 起き上がってベットを出ようとすると服の袖を引かれた。

 じっと顔を見つめると目をそらしながら声を小さくするくせに、摘まんだ服の端は引っ張ってみても離さなかった。


「ちょっとだけ、だから…」

「腹、減ってるんじゃないのか」

「今は空いてない」

「……」


 俺がその気になればこの手を振りほどくことは簡単だろう。病人として大人しく寝かしつけるのが本当は最善なのかもしれない。


 まぁ、病人だから…な。心細いのかもしれないし。


「本当に少しだけだぞ」


 仕方なくベッドに横になる。ニュクスィーに背中を向きながら。

 ニュクスィーはそんな俺の背中にぴったりくっついてきた。

 まだ発熱が続いているせいか体の芯だけ体温が高く、手足は多少体温が戻った程度だった。

 背中越しに感じる心拍が少し早いのは発熱のせいだろう。


「うん。えへへ…」

「なに笑ってるんだよ?気持ち悪いな」

「歩がいるな~って思って」

「しょうもないこと言ってないでさっさと寝ろ。

 早ければ夕方には中級治療キッドが届く」

「中級?何それ?」


 オレガノ以前の記憶がいないのか、それとも本当に今まで一度も見たことがないのか、ニュクスィーは不思議そうな声で尋ねてきた。


「俺もよく知らん。マスターの話だと抗生物質が付属してるらしい。

 それを飲んだら熱が下がるかもって言ってた」

「ふーん」

「ふーんって…」


 あまりに興味が無さすぎる返事だったので思わず振り返ると、“えへへ”と笑いながら抱きつかれた。


「だからさっきから何なんだよ、まったく…」

「夕方まで歩がこうしていてくれるんだーって思って」

「ちょっとだけって言っただろ」

「夕方までだって“ちょっと”だもん」


 どういう理屈だ、まったく…。


 どうやら熱を出していてもニュクスィーはニュクスィーらしい。むしろ甘ったれに拍車がかかっているかもしれない。


「どっかの誰かさんが腹出して寝てたせいだぞ。反省しろ」

「はーい」


 もう少しで死にかけていたというのに、なんで呑気に笑っていられるんだろう。俺には理解できない。

 そんな俺にぴったりくっついたニュクスィーは何がおかしいのか俺の背中に額を押し付けてクスクス笑っている。


「恨んでもいいんだぞ」

「ん?」

「恨んでもいいんだぞ、俺のこと。

 殴ってもいいからお前を追い返せばよかった」


 あまりにもニュクスィーが楽しげなので思わず言ってしまった。

 苛立ち交じりではあったが、贖罪のつもりだったのかもしれない。

 ニュクスィーが全部俺のせいだと俺を悪者にしてくれたら、少しは心が軽くなるような気がしていた。


「恨まないよ」


 ニュクスィーは俺の背中にそう囁いたが、嘘だと思った。

 あの夜の出来事を夢に見てうなされていたくせに、俺を許せるはずなどない。

 未だ心はあの血の海に取り残されて謝罪を繰り返しているくせに、俺を恨みたくないはずはない。


「歩はちゃんとここにいるから。だから恨まない」


 ニュクスィーは肘の下から回り込ませた掌を俺の胸にあて、俺の背中に耳を押し当てた。

 表情は見えなかったけど、穏やかな声と掌に嘘はないように思えた。

 もし後悔していたら、ニュクスィーはそんな行動をとらないだろう。

 ニュクスィーは悪夢にうなされながらも、守りたかったものを守れたのかもしれない。


 俺は…何を守った…?


 思えばあの夜の事を極力記憶の隅に追いやろうとしていた。

 考えないようにしていた。

 だってこれでもう盗賊に襲われる可哀想な被害者は出なくなるはずだ。

 達成感などなくても、それだけで十分なはずだった。

 たとえこの胸の中に居座っているのが空虚であったとしても。


「お前は…」


 強いな。


 それは守りたかったものを本当に守り通せた者だけがもてる満足感だったのかもしれない。




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