131 星空の下で -前編-
◆
「ここにいらっしゃったんですか、老師」
盗賊ギルドのオレガノ拠点ボスであるイオレットはギルドの屋上でようやく探し人を発見した。灯台下暗しとはこのことか、と彼女は胸を撫でおろす。
元は聖王国軍の兵舎兼見張り台として使われていたというこの建物の屋上には砲台が取り付けられていた跡が残っている。取り外されて久しいため外壁に僅かに日焼けの後が残るのみだが。
月明りだけが見下ろす屋上で老師と呼ばれる男はただ黙って冷たい夜風に吹かれていた。夜空を見上げているものの、その視線はどこか遠くにあるようだった。
「なに、星を愛でておったのよ」
老師と呼ばれた男はそう呼ばれるにはまだ早い。小柄なため背後から見かければ勘違いされるかもしれないが、その腰は決して曲がっているわけではない。しかし年齢の割に顔に刻まれた皴は深く、背中側に両手をもっていって佇む姿は本物の老人のようにも見える。
「もう3日です。
そろそろ何があったか話してくれませんか?」
スクラ盗賊のアジトに向かうと老師たちが出かけて4日。
全身血まみれで歩たちが戻ってきたのはその翌朝だった。ニュクスィーに至っては泣きはらした跡まであり、見かけたギルド員やパブの常連たちが随分と気を揉んでいた。
歩と風刃は1日だけ休暇を挟んだものの、その翌日からはそれまで通り銅採掘で日銭を稼ぎ始めたと連絡を受けている。
ニュクスィーのほうはこの3日、パブの2階から降りてこないとパブの警護を任せているギルド員達から連絡を受けている。常連客達も何度かドアをノックして様子を窺っているらしいが、反応はないらしい。
スクラ盗賊たちのアジトで何かありましたと言っているようなものだ。
「ほっほっ。相変わらず過保護じゃの」
「面倒見が良いと言ってください。
あたしの自慢の部下たちなので」
イオレットと老師も昨日今日の仲ではない。
イオレットのギルド運営がどういうものかを老師は長らく近くで見てきて知っている。我が弟子ながら心地よい場所を作ってくれたと、密かに思うこともしばしばあった。
「放っておいても腹が減れば勝手に出てくるじゃろう」
「でももう3日です。
屋内に引きこもっているとはいえ、水すら口にしなければ死んでしまいます」
もしかしたら部屋の中で倒れているかもしれないと青ざめて心配する部下をなだめるのが大変だった。
イオレットとて放っておいても大丈夫であればここまでお節介は焼かない。だがさすがに3日も飲まず食わずで反応がないとなると、最悪の事態も想定できる。水入り水筒や干し肉の備蓄を持ち込んでいるなら明日まで放っておいても平気かもしれないが、それすら確認する手立てもない。
「ふむ…。ニュクスィーが連れ帰ってきたブランダーの男はどうしている?」
ブランダーとは歩や老師たちと違い、肌が極端に黒い人種だ。ここまで世界が荒廃してしまう前にあったとされるブランドという名の国の人という意味で、手先は器用だがルールに縛られることを好まない。一般的に金や銀といった虹彩の者はほぼブランダーしかいない。
スクラ盗賊のアジト2階でポールに括りつけられていた男は銀目で、当人もダグという名のブランダーだと語った。ピッキングによって解放したニュクスィーに一生ついていくと宣言してからずっと傍から離れていない。
「ずっとニュクスィーの部屋のドア前に控えているようです。
パブのマスターが参っていましたよ。金をもっていない相手じゃ水も干し肉も渡せないと」
パブのマスターは強面だが、1コマンも支払わうずドア前待機をしているドグを店から追い出す気はないようだ。
デートに一張羅を着ていったら金持ちと勘違いされ、身代金目的で盗賊に誘拐されたとおしゃべりなドグは自分の身の上を語った。その真偽のほどは分からないが、陽気で悪人のようにも見えないので追い出せないのかもしれない。
「マスターも人がいいのぅ」
「マスター本人が頻繁に客室に様子を見に行くわけにもいきませんから。
誰かが傍にいて様子を窺ってくれていた方が安心なんでしょう」
老師の隣までゆっくりと歩み寄ったイオレットはその横顔を見つめた。
皴の増えてきた彼の横顔は常のものと寸分変わらない。
けれどそれは年の功のなせる業だということを彼女はよく知っている。
「あの夜に何があったのか話してくれますか、老師」
脱線しかねない話の筋を改めて戻し、彼女は師と仰ぐ男を見つめた。
彼女の見立てが正しければ、老師は歩の事を大変気に入っていたはずだ。
イオレットがボスとなってこの拠点を仕切るようになって以来、老師はずっとギルドの事務作業ばかりこなしてきた。けれどそれは老師にとって自らが磨いてきた技を指南するに値する者がいなかったからだ。
かつて世界中を旅した経歴のある老師は元来現場の人間で、荒事に精通している。椅子に座って日がな一日書類に埋もれるような生活を好む人ではない。
オレガノに家を購入したものの歩の身元は未だ明らかになっておらず、この世界の常識について知らなさすぎるため老師に預けた。フットワークが軽いくせに無知な歩はあまりに危うく、ギルドやオレガノに害を及ぼすかもしれないと危険視したためでもある。
老師は小言を言いつつもイオレットの要請を聞き入れ、聖王国から戻ってきた時には歩を鍛えると息巻いていた。歩のあまりの弱さに呆れ、怒りながらも、とても楽しそうに鍛錬を続けていたはずだ。傍から見ていたギルド員達にも10歳は若返ったと言われて笑っていたほどだ。
それがあの日以来、老師は再びギルドの事務室に籠るようになってしまった。その理由について老師はあまり多くを語らなかったが、あの夜に何かがあったのだろうことは火を見るより明らかだった。
「あの2人はいずれ世界の厳しさを知らねばならんと思うとった。
自らの意思で決断し飛び込んでゆけるのであれば、それは幸運なことじゃよ」
命さえ失わなければ、人間はたとえ四肢を失い心が壊れても生きていける。一生奴隷として飼い殺されようとも、ドラッグに逃げて現実逃避しようとも、サボテン製の噛み棒で空腹を紛らわせて生きていける。
死を望めばすぐ背後に巨大な奈落が口を開いているこの世界で、生と死の均衡はあまりに危うく、常に背中合わせだ。
雛鳥とていずれ居心地のよい巣を自らの翼で飛び立ち、凍える空へ身を投じるものだ。
他の雛に巣から蹴落とされたり、大きな鳥に餌として食われないならそれは幸運なことと言える。
それを食わねば己も死ぬという状況で狩りをしなければ待っているのは死。そのせいで他者の命が失われても、それは仕方のないこと。
守りたいものを守る為ならば、時に他者の命を奪わなけらばならない。その現実をいずれ2人は知らなければならないと思った…老師は静かな声であの夜の出来事をそう語った。
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