88 ボーンウルフの群れ


「歩、起きろ」


 揺り起こされたのは夜中だった。

 全身を包む草の香りの中で覚醒し、目をこすりながら起き上がる。

 酷使された全身の筋肉が悲鳴を上げていて、なかなか酷い目覚めだ。


「すぐに荷物を背負え。移動するぞい」


 寝ぼけた俺の耳に老師の鋭い声が届く。

 先に目覚めたらしいカリウムが焚き木に土をかけて消している。

 恐らく何者かにこちらの存在を気づかせるのを遅らせるためだろう。


 俺はそれを見て理解すると黙って木製のバックパックを背負った。

 全身が痛い上に手足が鉛のように重いが、麦をここに残して逃げるわけにはいかない。

 これは必ず持ち帰ると約束した大事な麦だ。


「こっちじゃ」


 俺がしっかりと左右の腕に木製バックパックを抱えると、老師の合図で全員静かに走り出した。

 完全無音に近い老師とは比べるべくもないが、それでもやらないよりはマシだろう。

 夜の闇の中を老師の背中だけ見て走る。明かりは何一つなかったが、小さなその背中は何より頼もしい目印だった。

 しばらく黙って走っているとさっそく息切れしてきた。寝起きに重い物を抱えてのダッシュはキツイ。

 そんな俺の様子を振り返って確認した老師は片眉を吊り上げながら減速した。


「フン。まったくなっとらん。

 この程度でヘバっておってはいくつ命があっても足らんぞ」

「はは、すみませんね…」

「悪いと思うならさっさと筋肉をつけい。

 こうも弱くては警備の仕事すらやりきれまい」


 そりゃ実際やってませんし、やるつもりもないですが。


「歩は俺らがビシバシ鍛えるんで、そのへんで勘弁してやってください、老師」


 殿を走るカリウムが苦笑いでフォローを入れてくれたが、全然嬉しくない。

 4人の中で一番体力と筋力がないのは俺らしい。

 老師とカリウムは仕方ないにしても、まさか風刃ともここまで違うとは。

 風刃は軽く息を上げているが相変わらずの無表情で、今日一日の疲れはほとんど見せていない。

 あの引き締まった体を見た時から気づいてはいたけど、こうまざまざと思い知らされるのは面白くないものだ。


「ところでさっきは何がいたんですか?」

「なにぃ?小僧、そんなことも知らないでついて来とったんか」

「まぁまぁ」


 俺は別に誰かが教えてくれるだけで良かったのだが、それを聞くなりさらに老師の眉が鋭角に吊り上がった。それをカリウムが宥め、俺のすぐ後ろにいた風刃が教えてくれる。


「ボーンウルフの群れ。2つ以上近づいてきてた。

 斬られた盗賊の血の匂いに引き寄せられたのかもしれない」


 俺は遠目にしか見たことはないけど実際に追い回されたことがある風刃ならよく知っている。その風刃が断定するのであれば、おそらくその通りなんだろう。


「ほほう。そっちの小僧の方がよう見ておるじゃないか。

 正確には3つじゃ。そのうちの1つが今もこっちを追ってきておる。

 足を止めるんじゃないぞ。食いつかれるでの」


 老師は簡単に言うが、なかなか笑えない状況だ。

 こっちは丸一日大荷物を抱えてのダッシュ移動で消耗している。軽く睡眠はとれたが、それでも体が回復するほどではない。

 いずれは追い付かれるに違いない。

 だが、追い付かれたとしてどれだけ戦えるだろう?

 俺は自分がお荷物になる未来しか見えない。

 一周回って笑い出したくなってくる。


「もし追い付かれたらどうしますか?二手にでも分かれます?」

「ばっかもん!お前と組まされた方に死ねと言うとるんか!」


 足手まといにしかならない自覚はあったのでちょっと自虐めいて提案してみたのだが、元から俺を見捨てるという選択肢がないらしい老師に本気で怒られた。

 その剣幕に負けて俺の真意を口にすることはなかったけど、たぶん言ったらもっと怒られていたと思うから言わなくて正解だったのかもしれない。

 そうして再び誰も喋らなくなり、ひたすら老師の後を追って足を動かし続けた。


「老師、ダメです!追い付かれます!」

「チッ!」


 殿を走るカリウムが背後を振り返りながら叫ぶや前方を走っていた老師が舌打ちしながら抱えていた木製バックパックを脇へ放り投げた。あっという間に背中のバックパックも同じように投げ捨てると、俺達の脇をすり抜けてカリウムの背後へ回り込んだ。

 俺が振り返ると老師はボーンウルフたちが走ってくる方を睨んでその場で足を止めていた。


「老師!?」

「お前らは先に行けい!

 こいつらを撒いたら合流する!」


 俺達に背を向けて立つその背中は月明りを浴びてとても大きな影を作る。

 老師と入れ替わるように俺達の前に出たカリウムが俺達を先導して走り続ける。

 その表情は緊張に強張っていた。


「カリウムさん、本当に老師一人で大丈夫なんですか!?」


 ボーンウルフは群れで狩りをする。奴らが獲物として俺達を狙っているのであれば必ず群れ単位で襲ってくるはずだ。

 いかに老師の足が人並外れて早くても、俊足の獣たちに囲まれて果たして無事に逃げおおせるだろうか?


「大丈夫だろうがなかろうが、お前らを逃がさなきゃあそこで死ぬだけだろうがっ!」


 走りながらやけくそ気味にカリウムが叫ぶ。

 そのきつくよせられた眉が、何よりも俺に質問の答えを教えてくれた。


「カリウムさんが戻ったら、勝率はどれくらい上がりますか!?」

「はぁっ!?おまっ、何ふざけたこと言って…!?」


 カリウムが怒っていた。老師の雄姿に泥を塗る気かと青筋を立てて。


「二手に、別れるんです!

 後ろのボーンウルフ以外に何も出なければ、カリウムさんは老師の援護に行けますよね!?」

「バカ言ってんじゃねーぞ!この辺にゃウルフの巣も盗賊の根城も腐るほど点在してんだ!

 それをお前らが全部かいくぐれるわけねーだろ!」


 怒鳴り声の応酬だった。

 大きな声を出したせいで息切れが余計にひどくなり、俺はついに足を止めた。

 けれどそれは疲れて力尽きたからじゃない。


「じゃあ俺が戻ったら、引き返しますか?

 俺を守らなきゃいけないですもんね、カリウムさんは」


 イオレットさんは俺を負傷させたことをひどく気にしていた。

 依頼人の身辺警護が護衛の仕事だと。

 俺が自分からラプターに突っ込んだのに、それでも自分達の落ち度のように。


 だったら、俺が引き返せば依頼人である俺を放ってカリウムは走れないはずだ。


「寝言ぬかすなよ、歩。お前はここで引き返して全員に死ねって言うのか!?」


 木製バックパックの片方を足元に投げ捨てたカリウムが掴みかかってきた。

 その目が怒りに血走っている。

 だが俺は何も無策で言っているわけじゃない。


「一つだけ、あるじゃないですか。この状況を打開できるかもしれない力が」


 俺の胸倉を掴むカリウムの目を強い気持ちで見上げる。

 彼らがずっと暴走を恐れていた力で、風刃がまだ操りきれていないと悔しがっていた力が。

 ぶっつけ本番で試そうなんて、我ながらどうかしているのかもしれない。


 だけど今ここで俺達だけ逃げて無事にオレガノに帰りつけても、老師の墓は作ってあげることすらできないだろう。

 それは俺達が骨を拾いに来れないという意味ではない。

 腹を空かせたボーンウルフたちに食い散らかされ、俺達が再びここを訪れても老師の体として骨を見つけることは難しいという意味だ。


 俺の胸倉を掴むカリウムの奥歯がギリギリと奥歯をたてそうなほど軋んだ。

 きっとその胸中には俺には察することができない葛藤があるのだろう。

 老師の後輩として、俺の先輩として、護衛として決して踏み越えてはならない一線。

 けれどそれでも諦められないものがあるはずだ。守りたいものがあるはずだ。

 自分達と群れたウルフの力量差を知っていても、なお。


 俺の胸倉を掴んでいるカリウムの力がほんのわずか緩んだ。

 それが護衛として曲げれないルールに縛られたカリウムの精一杯だったのかもしれない。




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