83 麦の運搬契約
“もう一人の護衛員の人選に関してはあたしに任せてくれるかい?”
イオレットさんがそう言ってくれたので、俺たちは人選をイオレットさんに任せることにした。どちらにしても俺にアテはなかったので、ありがたく甘えさせてもらった形だ。
カリウムには明後日の出発までに風刃を説得するように任されたので、俺はそれを約束してギルドを後にした。
「……」
「……」
俺の足音をもう一つ小さな足音がついてくる。
盗賊ギルドは廃墟が並ぶオレガノの南端に位置しているのでパブに向かうにしろ家に向かうにしろ、行く道は一つなのだが。
言葉はなかった。
何かを話すべきなのか、何も話すべきではないのか。
それすら様々な情報がこんがらがっている頭では考えられない。
そんな俺の足に追い付こうとするように後ろの足音が距離をつめ、そして俺の目の前に回り込んできた。
顔を上げると同時に懐から取り出された麻袋を胸に押し付けられた。重みをもった袋が胸にあたるとジャラリと金属が擦れる音がする。
「麦、よろしく…お願いします…」
小さな声がか細く震えていた。
頭を下げる彼女の表情をうかがい知ることはできない。
いつもの子供っぽい甘さや我儘はどこにも見当たらなかった。
「……」
今、俺は何かを彼女に言うべきだろうか。
謝罪?弁解?それとも…。
言葉は見つからなかった。
全部渡してしまったらお前が困るんじゃないかとも言えなかった。
だから。
「必ず、麦を買ってオレガノに戻る」
重い麻袋を受け取ってそれだけ言葉を絞り出した。
手の中に預けられたずっしりとした袋。
俺たちが聖王国を旅している間、ニュクスィーが大好きな酒を断ち贅沢をやめ、ヤギの世話をしながら銅を掘って稼いだ金だ。
硬貨一枚たりとも無駄にはできない。
ニュクスィーは俺が袋を受け取ると何も言わずに走り去ってしまった。
もう俺自身には何も期待してはいないだろうが、麦の到着だけは信じてくれているだろう。
俺は肺を刺すような夜の空気をゆっくりと吸い、そして吐く。
見上げた空には小さな星々が瞬いていた。
「戻ったか」
2階に上がるとベッドに座り壁に背を預けて本を読む風刃が迎えてくれた。
ずっと起きていたのか、その手の中にある本はほとんと読み終えかけている。
「あぁ、うん。
風刃もまだ起きてたのか」
「この本を読み終わったら寝る」
自分のベッドに体を横たえるとようやく体から力が抜けた。
ギルドでのやりとりでだいぶ緊張していたらしい。
しかし俺にはまだもう一仕事残っている。
のそのそとベッドから起き上がり、風刃のほうへ体を向けた。
「なぁ、風刃。ちょっと頼みたいことがあるんだけど、聞いてくれるか?」
「あぁ、俺にできることなら」
本から顔を上げた風刃は相変わらず無表情だったが嫌な顔はしなかった。
「明後日、聖王国へ発つ。
ヤギの餌の麦を大量に買い込みにいかなきゃならない。
それについてきてくれないか?」
「わかった」
…えっと?
「あの…引き受けてくれるのはありがたいんだが、そんなに簡単に請け負ってしまっていいのか?」
思わず不安になって尋ねてみたが風刃は表情を動かさずに返事を返してきた。
「俺に出来ることなら、と言った。
もしかして麦の買い付けは俺には困難なほど難しい仕事なのか?」
「いや、そういうわけでは…」
風刃には鎌風の力を使わないように気をつけてもらいながら、町や村の外で俺たちが麦を買いこんでくるのを待っていてもらえればいい。
大量に買い込むことになるので確かに荷運びは重労働になってしまうが、それ以外は特に難しい仕事はないだろう。
そう伝えると風刃は“わかった”と頷いた。まるで簡単なおつかいを引き受けるように。
「俺はこの辺りで使われている金を持っていない。
でも故郷に帰るための路銀を稼ぐためにはこの家で歩に世話にならないといけない。
家賃を支払う代わりに歩の願いを叶える。何か間違っているか?」
「あぁ、そういうことか…」
確かに風刃は金を持っていない。
発見した時点で着ていた衣服はボロボロだったし、荷物らしい荷物はなかった。
俺の頭には家賃のことなどなかったが、家賃代わりに麦運びを手伝ってくれるというのなら有り難く甘えてしまってもいいかもしれない。
ヤギを飼い続ける限り、麦の買い付けのために幾度となく聖王国へ行かないといけないだろうから。
「じゃあ、お願いする。
その代わり、俺にできることがあったら言ってほしい。
生活に必要なものとかあれば、極力揃えるよう努力する」
「今のところそれほど不便は感じていないが、何かあったら頼らせてもらう。
ありがとう」
「あぁ…」
風刃との話はそうしてあっさり終わった。
自然と笑みが浮かび、緊張し身構えてしまっていたのが馬鹿馬鹿しく思えてしまった。
ホッとしてごろんとベッドに横になった。
「何の本を読んでるんだ?」
「世界の料理を食べ歩いたというグルメが書いた料理日記だ」
「あぁ、あれか…」
俺がロットの本屋で買った一冊だ。
オレガノの周辺は荒野で農業の望めない土地だが、だからこそ俺が知らないこの世界の色んな料理を知りたくて買った本だ。
「何か美味しそうな料理はあったか?」
「いや、見知らぬ食材に見知らぬ調味料ばかりだ。
このグルメ旅行者が立ち寄った地域は俺の故郷と縁のない土地ばかりなのかもしれない。
書かれている文字も意味は分かるが、相変わらず直接は読めないしな」
「そうか…」
俺は少しでも美味しい料理の情報が知りたくて買ったが、風刃は少しでも故郷の村に繋がる情報を探している。
文字をじっと見つめていると何故か書かれている文章の意味はわかるという状況は同じなのに、俺たちは求めている情報が違う。
…故郷、か。
日本に帰れるなら帰りたいとは思う。
が、それは今の不便な生活より日本での生活の方がはるかに快適だからだ。
追剥に追い回されることもなく、野犬や野盗に怯えることもなく、排他的で歪んだ思考の隣町の闇を目にすることもない。
そんなものを想像すらしたこともなかった快適な生活に戻れるというなら、今の生活は悪夢として忘れてしまってもいい。
けれど世界を旅して帰り道を探してまで帰りたいかというと、それは少し違う。
そもそも繋がっているようには思えないんだよな、ここと日本が。
失われた古代文明、荒廃した大地、見慣れない文字とその意味を理解できる能力、そして魔法のような鎌風の力…。
この世界を知れば知るだけ、物語の中に俺一人だけ放り込まれたような錯覚が強くなる。
とても地球と同じ理の中にこの世界が存在しているように思えない。
ファンタジーの定番であれば元の世界に戻るための案内役みたいなキャラクターが出てくるはずなんだが、見当たらないしな…。
瞼を閉じると心地よい睡魔が枕元に降りてきた。それに抗うことなく身をゆだねる。
あぁ、でもせめて美味い物くらいは食べたいな。
和食でも洋食でも中華でもいい。
麦や大豆、干し魚まであるんだ。
こんなクソみたいな世界でも、頑張れば美味いものくらいは食えていいはずだろう?
あぁ、手打ちうどんが食べたい…。
そんなことをうつらうつら考えている間に、俺は知らず眠りの海に沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます