2 崩落した町と一軒のパブ
全身の痛みに顔をしかめながら辿り着いたのは小さな集落だった。
遠目には高くそびえる立派な壁に囲われた町だったが、近づくにつれ高くそびえる壁はところどころひび割れていて、ひどいと崩れて大穴が空いている箇所もある。
夜の暗闇の中でも見てとれるほど大きいのだからよほど大きいのだろう。
なんせ追剥が徒党を組んで出没するような場所だ。
崩れた壁を修繕できないほど困窮している地域なのかもしれない。
もしかして現代日本では考えられないほど、この周辺の治安は悪いのか…?
きちんと日本大使館と連絡がとれないと帰国すらままならないっていうのに…!
焦燥感にかられながら足早に門に向かう。
しかし門には扉も見当たらず、周辺を見回しても警備員らしき姿もなかった。
それどころか門の先に見えるいくつかの建物は倒壊し、人間が生活していれば絶対に必要であろう照明の灯りすら見当たらない。
おいおい…嘘だろ?
警察は?大使館は?
崩れ落ちそうな膝をなんとか動かして集落の中へと足を踏み入れる。
暗がりの中を歩いてきたせいか、それとも空に輝く星の灯りのせいか、最低限の視界は確保できている。
崩れているコンクリート製の建築物を一つ一つ確認してみるが、長い間放置されているのか室内はだいぶ荒れ果てていた。
とても人が住める状況ではない。
廃村か?
でもここに人がいないとしたら、俺はどこに行って助けを求めればいいんだ…?
「…ん?」
廃屋の角を曲がると、灯りが見えた。
崩れたコンクリートの隙間から明かりがもれている。
やった!
助かった!
これで助けを求められるぞ!
気づいたら駆けだしていた。
口の渇きも腹の虫も忘れ、裸足で大地を蹴る。
たった数十メートルの距離は一気に縮まり、俺は瓦礫の隙間から中を覗き込んだ。
「大丈夫かい?」
「あぁ…。あの野郎、思いっきり噛みつきやがって。チッ」
…ッ!
あいつら、昼間の…!
昼間の
顎の下から光が当たっているせいで、まるで三流ゾンビ映画のワンシーンのようにも見える。
だが全身の痛みがこれは映画の撮影ではないことを物語っていた。
俺は開きかけた口を慌ててつぐんで息を潜める。
見つかったら、今度こそタダでは済まないかもしれない。
「治療キッドがまた値上がりしたらしい。
南の湿地帯なら薬草も自生してるんだろうけど…」
リーダーの腕の噛み跡を心配そうに見つめながら女ミイラが見つめる。
焚き木を囲むミイラ達も申し訳なさそうな顔で何かを頬張っていた。
それだけ見れば、とても昼間の無慈悲な追剥行為をするようには見えない。
奪っていった衣服を売った金で食料を買いこみ、幾ばくか飢餓感が紛れて理性を取り戻したのかもしれない。
だが襲われた俺は忘れない。
無抵抗のまま一方的に襲われた恐怖を、理不尽な暴力を。
窮鼠だって猫を噛む。
うっすら血が滲む噛み跡だって、全身に残るいくつもの打ち身に比べれば可愛いくらいだ。
「いや、ブラックウルフの縄張りを通らずに湿地帯には辿り着けない。
仮に奴らの目を掻い潜れたとしても、赤い悪魔どもの餌になるだけさ」
リーダーの男が重い溜息をつく。
周囲もそんな重い空気の中で押し黙った。
パチパチと焚き木の音だけが沈黙を破っている。
そりゃそうだろう。
きちんと就職できていたら、誰も好き好んで追剥なんてしない。
ここまで極端にやせ細ったりもしないだろう。
「なに、傷口は浅い。
化膿さえしなけりゃ、どうということはないさ」
リーダーの男は重い空気を吹き飛ばすように明るい声を出す。
隣に座った女もつられるようにして笑みを浮かべた。
さて…俺は静かにここを離れて、誰かに助けを求めないと。
息を潜めてその場を立ち去ろうとした時だった。
足元でパキっと乾いた音がする。
どうやら地面に転がっていた小枝を踏んでしまったらしい。
「誰だっ!」
追剥集団の誰かが大声を出し、それに驚いて俺は闇雲に駆けだした。
そんな俺の気配に気づいたのか複数の気配が後ろを追いかけてきた。
やばいやばいやばい!
今見つかったら、今度こそ殺される!
俺は全速力で走った。
今までにないってくらい必死に足を動かした。
崩れた建物の角をいくつも曲がり、なんとか追剥共の追手から逃れようと試みる。
しかしやせ細っているせいで足取りが軽いのか、いつまでも複数の足音が追いかけてくる。
こんな訳の分からない国に勝手に連れてこられて、なんでこんな理不尽な目に…!!
どうして俺が…っ!
俺が何したっていうんだよ!?
奥歯をギリギリ噛み締めながら、それでも闇雲に足を動かす。
集落の中を滅茶苦茶に走り続けると、やがて開けた場所にでた。
相変わらずアスファルトとは無縁の剥き出しの道だったが、かつては人の往来がそれなりにあった大通りだったのだろう。
そんな道の先にライトアップされた《PUB》看板を掲げる建物が見えた。
あそこだ!
あそこまで逃げきれればなんとかなる!
ラストスパートとばかりにさらにスピードを上げて大通りを駆け抜ける。
店の扉を乱暴に開くと、煌々と輝く室内が俺を照らしてくれた。
「よう、いらっしゃ…ん?」
カウンターの向こうに立つ壮年の男性が俺に声をかけてきた。
立派な口ひげをたくわえる彼はきっとこの店のマスターか何かだろう。
両の腕には鎧のように筋肉を纏っていて、訝しむような目で俺を睨みつける顔つきは裏社会でも立派に通用しそうなほど尖っている。
「たっ、助けてくれ!
今、追剥に追われてて…!」
肩で息をしながらようやくそれだけを喉から絞り出す。
俺がそう叫ぶやいなや、背後の大通りから複数の足音が迫ってきた。
「ひっ…!」
俺は息を呑んで店の奥に逃げ込む。
店の外から追剥たちが雪崩れ込んでくるのと、マスターらしき男性が舌打ちしたのはほぼ同時だった。
「チッ、仕方ねぇ。
おい、お前ら!俺の店を荒らそうってんなら、容赦しないぞ!」
低いバリトンを響かせてマスターが怒鳴ると、店の隅にいた男たちも動いた。
腰から短い刃物を抜き出すと、あっという間に雪崩れ込んだ追剥たちを片付けていく。
数十分もかからぬうちに刃を血で濡らした男たちは追剥集団を倒していた。
す…すげぇ…。
唖然として言葉が出てこない。
錆びた鉄の匂いが嫌と言うほどただの悪夢でないことを物語っていた。
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