Bの行方
小町紗良
Bの行方
外はひどい雨だったから、ベスの両頬を伝ういくつもの水滴の、どれが涙なのか分からなかった。
たいてい、彼女は来店するなり「甘くて酔っぱらうやつを頂戴」と言う。それをちびちびやりながら、仕事の愚痴か、男の愚痴か、自分の人生に対する愚痴を言っているうち、カウンターにふせて泣き出すのだ。
はっきり言って迷惑である。ベスのことをよく知らないうちは、本当に「甘くて酔っぱらうやつ」を出していた。店のすぐ外で、自らの吐しゃ物に顔をつっこんだままぶっ倒れているのを見るまでは。
「どうした、ベス。泣きながら来るなんて、もう飲んでるのか」
しゃくりあげる彼女を見るたび、俺はなぜか死にかけのヒヨコを想像する。まっ黄色に染められた、品のないカールヘアのせいだろうか。でも、瀕死のヒヨコはこういう引き攣れた声を出すと思う。
びしょ濡れのトレンチコートも脱がないまま席につくと、ベスはよれよれになった白い封筒をカウンターに置いた。差出人はB。彼女の恋人だ。
「探さないでくれって、書いてあるの。ねえ、私バカだからわからない」
コートのポケットからウイスキーのボトルを取り出し、煽り、激しく咽せる。切れかけの橙色の電球が何度か点滅したあと、彼女をパッと照らし出した。
「それって、探してほしいの? 探さないでほしいの?」
静かに飲んでいた常連たちと順繰りに目を合わせたが、全員肩をすくめてみせた。はじから順番に、そういうラインダンスみたいに。
「そう書いてるんだから、そのまんまの意味なんじゃないか? 楽譜の記号みたいにさ」
グラスの中の氷をつつきながらそう言ったのは、いちばん奥の席のダンだ。ジャズトランペッターのくせに生真面目で――俺が知ってるジャズマンはこいつ以外ロクデナシだ――、その性格が災いし、巡りめぐってこの街で生きざるをえなくなった男だ。
「そお? あのBのことよ、ベスの性格を見越して、わざと追いたくなるような言葉を選んだんじゃなあい?」
ダンの隣のメラニーは、尖ったエメラルド色の爪で器用にピスタチオの殻を剥く。ハイブランドのパチもんの鞄やら靴やらを輸入する組織の一員だ。どこだかのデザイナーに恨みがあり、そいつの正規品より多く贋作を流出させるのに精を出している。
「ああ、あいつはお嬢ちゃんをこの街から連れ出したいんだよ。随分遠回しだがな。けっこうシャイなんだよ」
メラニーの隣では、老紳士のサイラスがぬるいビールを持て余している。彼は目つきの悪い掃除夫で、いつも黒い服しか着ない。そのせいか、真っ当な掃除夫なのに、血生臭いほうの掃除夫だと誤解されがちだ。
「んなワケないね、ありゃあ一晩の女に困らない男だ。愛想尽かしたんだよ」
何本目かのジンジャーエールに手をつけているのは、運び屋のロバートだ。何を運んでいるのかはよく知らない。ただ、ヘンな柄シャツとヘンなサングラス――メラニー曰く正規品のブランドものらしい――をいつも身に着けているし、酒はやらないが羽振りは良い。
「……意見が割れたわ。あなたはどう思うの?」
充血したおおきな目が、すがるように俺を見た。他の連中も、面白半分、同情半分で俺に注目する。
「さあ、分からないよ。真意は彼の胸のうちだ」
「ちゃんと考えてよ」
「おいおいお嬢ちゃん」と、サイラスが割って入る。「ここはそういうところだ。答えを求めたくない、事実を忘れたい奴のための場所だ。だから来てる、みんなそうだろ?」
彼の呼びかけに、ベス以外の客はしみじみと肯定の相槌を打った。内心ほっとする。
この街にいる奴は、誰もかれも、望んでここにいるわけじゃない。想像しうるサイテーの出来事なんて日常茶飯事、流れ弾――比喩としての厄介事、および実弾――に当たらず生活できりゃラッキー。こんな所に巣穴を掘ってる人間は、人生がひん曲がって最果ての地に流れ着いた漂流者だ。
つまるところ、彼らにとってはこの街そのものが“答え”なのだ。どれだけ自らの手を、躊躇わずに穢してたか。どれだけ自らの口が、頓珍漢な希望を謳ったか。どれだけ自らの足で、泥濘を割いて渡ってきたか。その突き当たりが、この土地だったというわけだ。
俺とベスは例外も例外、この街で生まれ育った。子供なんてバラされて売られるか、路上で行き倒れが関の山だが、俺たちは偶々生きながらえている。
共通するのは、親が支配階級と中途半端に仲良しだったこと。ウチのひい爺さんは、禁酒法時代の闇酒場の雇われ店長だった。ベスの母親は、ファミリーの出納係の情婦だったそうだ。
出ていこうと思えば出ていけるが、ラクなもんじゃない。誰もがそう語るが、負け惜しみだと思っていた。
一度だけ、首都圏の清潔な街に観光へ行ったことがある。路上飲酒が違法だとは知らず、酒瓶片手にフラついていたら警官に引き留められた。身分証の提示を求められ、出身地と住所を見るなり罵られ、蹴られ、3日間拘留された。フツーなら、罰金さえ払えば見逃されるらしい。
俺は特に、この街から脱却したいと思わないし、その必要も感じない。生まれた時からこうだったから。けれど、ベスは時たま、いや、しょっちゅうこの境遇を嘆く。
「もうドラッグストアの店員なんてやりたくない。セクハラ店長にはお尻撫でられるし、お客にはこの薬効かなかったから金返せとか言われるし、使い捨て注射針がよく売れるけど、何に使ってるかって言ったらそんなの……」
「どうしよう、もう生理が7週間も来てないの。遅くても5週間ごとには来るのよ、どうしよう、こんなのあの人に知られたら……」
「今日もなにひとつ良いことなんてなかった。私、一生こんな毎日を繰り返すのかな。どこか別のところへ行けば、私のことを殴らない男の人と結婚できて、私の仕事ぶりを認めてくれる職場が見つかるのかな……」
等々。いつまで経ってもドラッグストアを辞めないし、望まない妊娠だってしたことないし、付き合う男はみんなベスを甚振る。やつれた顔に崩れた化粧、安っぽい服に汚れた靴、そしてなんだか幸が薄そうな雰囲気を纏い、ここに来て、飲んで、泣く。
「俺が言うのもヘンだけどさ、酒なんかやめたら、貧乏も多少はマシになるんじゃないか。気晴らしなんていくらでもある。花を飾ってみるとか、菓子を焼いてみるとか」
店に来るたびグズグズに泣きはらす彼女を見かねて、思わずそう言ったことがある。すると彼女は、潤んだ大きな瞳をゆらし、困ったように微笑んだ。
「ううん、あなたの顔を見るのより、安らぐことなんてひとつもないの。駄目な私をゆるしてね」
ベスのそんな言葉が、ずっと頭の片隅に転がっている。
重く錆びついた錨のように。あるいは、叩き割るとまばゆい輝きを放つ、鉱石のように。
ベスだって“答え”のことなんて考えたくないはずだ。だから、いつだって“答え”につながる可能性がある質問はしないよう努めている。それがこの店の、暗黙の了解だった。けれど、今回ばかりはそうもいかない気がした。
「そもそも、俺はBのことをよく知らない。仕事は何を?」
問いかけると、ベス以外の客がいっせいに口を開く。
「曲がり角の店で、ウッドベースを弾いてる」
「“宝石箱”の用心棒でしょ」
「“宝石箱”のカジノディーラーだ」
「コールガールの斡旋業だろ」
一拍の間を置き、ベス以外の客がそれぞれの顔を見回して「えっ」と言った。
「俺が金曜に吹いてる店にいるんだよ。ここで飲んでるって話をしたら『ベスっていううるさい女がいるだろ、仲良くしてやってくれ』って」
「あたし、たまに接待で“宝石箱”に行くけど、エントランスの黒服はだいたいあいつだわ。何曜日かは覚えてないけど」
「俺は土日の閉店後に清掃に派遣されるが、たまにポーカーに付き合わされる。賭けはナシでな」
「いやあ、女の子でも呼ぶかって気分になって、仲間にすすめられた店に電話かけたらBが出たんだよ。『なんだ、ロバートじゃないか』って。すぐにバレた。小遣い稼ぎで手伝ってるらしい」
多少は落ち着きはじめたベスが、ため息をついて言う。
「みんなが言ってること、全部ほんとうよ。ウッドベースを弾くし、“宝石箱”で黒服もやるしディーラーもやるし、コールガールの紹介もする」
「ずいぶん多忙ね。あたしならブッ倒れちゃいそう」
「ああ。いったいいつ楽器の練習をしてるんだか不思議だ」
「がむしゃらに働いて、金を貯めて街を出ようって魂胆だったに違いないさ。そういう奴は何人も見てきた」
「サイラスの言う通りだ。実をいうと、身分証の偽造職人を紹介しろって頼まれた。ずっと用意してたんだろ」
「やだ、ロバートあんた知ってたの? だったら私に教えてよ!」
食ってかかるベスを、ロバートが諫める。ひょうひょうとした調子から一転し、神妙な口ぶりだった。
「余計な情報は喋るもんじゃない。それにもう、Bは決意を固めてたんだ。止める権利は誰にもねえよ」
「別に止めたかったワケじゃ……」
ベスは言い澱み、首を横に振り、頬杖をついて黙り込んだ。ふたたび彼女の両目に、涙が湧き上がってくる。狭い店内に、しばし沈黙が流れる。
「ううん、置いてかれたくなかったのかな。私も連れて行ってって言いたかったのかな。私のこと殴らなくて、バカにしなくて、ひとりのレディとして扱ってくれたの、Bだけだった。愛されてると思ってた」
ベスは俯いてカウンターにぼたぼたと涙が落とし、いかにも可哀想なかんじになってきた。辛気臭さに堪えられなくなってきた常連たちが、好き勝手にベスに声をかける。
「ベス、まだ何も注文してないだろ。なんかおごってやるよ、甘くて酔っぱらうやつか?」
「俺のせいみたいで後味が悪いな。詫びるよ。こんな店じゃなくてもっとイイとこでイイもん食おうぜ」
「ああ、よしよし、大失恋だわね。あたしにもあった。今は好きなだけ泣いたらいいわ。時間経てばケロっとするわよ」
「そうそう。こんな街だけどよ、殴らない男も探せばワンサカいるよ。こいつらみたいな気のいい連中だっているんだから」
瀕死のヒヨコを100匹集めたかのような泣き声が響く。それに呼応するように、常連たちの慰め合戦も激しさを増し、切れかけの電球が点滅する。なんだかんだで俺も絆されて、甘くて酔っぱらうやつを、いつもよりほんの少しだけ、リキュール多めで振る舞った。
それが、彼女への餞別になった。
ベスから手紙が届いたのは、それから数日後だ。
酔っぱらってくだを巻く彼女の口調をそのままに、この街での思い出や、Bへの恋心など、気の向くままに筆を走らせた便箋が数枚。そして、こう締めくくられていた。
『私をレディとして扱ってくれるのはBだけだなんて言ったけど、嘘だわ。いちばん優しかったのは、間違いなくあのお店と、あなた』
『それから、私のことは探さないでね。大好きよ』
便箋につけられたキスマークは、今にも泣きだしそうにひしゃげていた。
Bの行方 小町紗良 @srxxxgrgr
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