10話 真っ赤な女の子
開院したばかりで患者の少ない外科で、待ち時間無しで診察を受けた小花は、顔の骨に軽いひびが入っていたが、激しい運動さえしなければ問題無かった。
「そして、君は台上前転が出来たのかい」
ドクターは面白半分で彼女に質問をした。
「先生。あれはオリンピック選手のする技ですわ」
憎々しげに話す小花を、背後に立つ姫野は笑い飛ばした。
「跳び箱の高さを腰くらいにして、頭を付けるようにすれば自然に回っていくものだがな」
「みなさんそう簡単におっしゃいますが。実際はとんでもない大技です」
「して?君はできたのか」
彼女の肩に手を置き、姫野は面白そうに彼女の横顔を見つめた。
「まあ、できたといえばできたんでしょうね。丸はもらえましたので」
こうして二人は病院を後にした。
しかし、帰りの車中。
助手席の彼女はやはり彼女は元気が無かった。
「そうか。君ののっぴきならない事情って、試験の事か」
彼女はこくん、とうなずいた。
「期末試験です。体育はなんとかお許しいただきましたが、はあ。どうしよう……」
「は?」
「頭の良くなる薬はないですよね。はあ」
そういって彼女は窓の外の人波を眺めていた。
「……夏山愛生堂の方には親切にして頂きましたが、もう。仕事ができないかもしれない……。あの?姫野さん、今日も含めて、今までありがとうございました」
まるでこの世の別れのように寂しく頭を下げている小花に、姫野は動揺した。
「おい、待て!俺が勉強をみてやるぞ。科目はなんだ?」
「お気持ちは嬉しいですが。私は姫野さんの会社の人間ではありませんので。自力でなんとか乗り切ります」
眼を瞑って彼女は椅子に背持たれた。
眼の周りに青あざをつくっているパンダ目の女の子。
昼は仕事、夜は学生。
この健気な彼女に姫野は思わず、胸が熱くなった。
「あのな。部外者だから面倒見ないとか、俺はそんな心の狭い人間ではない!だからその教科は何なんだ!」
「数学ですが……追試は明日ですもの」
今日は金曜日。明日、会社は休みだった。
「俺は学生時代、家庭教師をしていたんだ。一夜漬けでも何とかするしかないだろう」
一瞬考えた小花は、顔をあげた。
「本当によろしいんですか?」
「ああ」
「では今夜、私の家に来て下さいますか?お夕食は私が用意しますので」
「バカ者。夕食の支度などしている暇はないだろう。今から会社に戻るが、私は車だから夕食は帰りに一緒に済ませて、君の家に行くぞ。それまで掃除をしていなさい」
「わ。わかりました!」
姫野の運転する車は、大通り公園のライラックの香る道を、東へ駆け抜けていった。
姫野の言葉に背筋を伸ばした小花は、少し心が軽くなったのか。会社へ戻ると鼻歌交じりでモップを掛けた。
こうして帰りにラーメンを食べた二人は会社の営業車で小花の自宅に向かった。
「質問ばかりで済まないが。君は実家住まいなのか」
「正確に言うと叔父の家で、一人暮らしです。私、両親は他界しておりますので、祖母と暮らしていたんですが、認知症がすすんでしまって。この春ようやく施設に入れたんです」
「若いのに、苦労しているんだな」
「まあ色々ありましたけど。祖母も施設で元気に暮らしているし学校に通えるようになったし、夏山の方も親切にして下さいますし、今は幸せです。あ、あのコンビニを右に……」
会社から南へ進み、車は中島公園のそばにやってきた。小花の家は一戸建て、姫野は玄関前のカーポートに車を駐車した。
「どうぞ、中へ」
通されたリビングで姫野は腕を組んだ。
「この家は、君一人じゃ広すぎるだろう」
「叔父夫婦が戻って来るまで留守を預かってるんですわ。それに……祖母が元気なうちはここを残してあげないと」
「他に親戚はいないのか」
「……私だけです。これ飲み物です。今、教科書持ってきますね」
部屋を出て行く彼女に、姫野は上着を脱ぎながら声を張り上げた。
「それよりも!間違えた答案を持ってこい!」
そしてリビングのテーブルに広げられた小花すずと美文字で記名された答案に、姫野は息を飲んだ。
「そうだな。これは一夜漬けでなんとかなるレベルではないのが良く分かった」
「笑っておいでですが」
「そんな顔をしている君が悪い。いいか。明日の再再試験はこれと同じ問題がでる。学校だって鬼じゃないからな。これから俺は君が解ける問題だけを選ぶから、それだけをやるぞ。全部は無理だ」
「そうして頂けると助かりますわ。あの、私。着替えて参ります」
真っ赤な答案を前にした姫野は小花の声も耳に入らず、ただひたすら問題を選んでいた。
姫野の選んだ問題は小花がもう少しで解けそうなものばかり。家庭教師をしていた姫野は公式で簡単に解ける方法を彼女に伝授していた。
「なるほど。これでしたらゆっくりやれば私にも解けますわ」
「だから!ゆっくりでは駄目だ。時間制限があるんだぞ?」
必死でシャープペンを動かす彼女の白い腕には、他にも青あざが有った。きっと跳び箱でぶつけたのだろう。
一生懸命な彼女を何とか合格させたい気持ちになった姫野は、心を鬼にして特訓を続けた。
「今何時だ。あ、もう十二時か」
若い女性の家にいてはいけない時間だった。
「俺は帰るぞ、っておい?ここで寝るな」
「スースー……」
テーブルに突っ伏して彼女が寝てしまった。
ゆすっても起きない。
そうとう跳び箱で疲労が溜まっているのだろう。仕方なく姫野は彼女を抱き上げるとソファに寝かせた。
布団を掛けたいが、ここにはない。止むを得ず姫野は隣室の和室を見ると洗濯物が干してあった。下着を見ないようにしてここにあった大きめなバスタオルを小花に掛けた。
吐息を立て眠る彼女のあどけない寝顔を眺めていた姫野は、部屋の電気を暗くした。
……この家で一人暮し。日中は仕事をして夜は学校か。
そっと帰ろうとしたが、鍵を掛けて帰りたかった姫野は、彼女の鍵の束から自宅用の鍵を取り出そうと思った。
しかし、この家には鍵を返そうと思った郵便受けは外にある。これでは反って不用心と彼は考えた。
それに彼女はこのまま明日起床できるのか不安であったし、これは朝起こして勉強させた方が良いと暗闇で一瞬悩み決断した彼は、彼女の鍵で施錠すると、営業車に乗り込み、椅子を倒し、スマホのアラームを6時にして、寝た。
「……おい。起きているか」
リビングの小花は、まだ寝ていた。
寝起きの姫野は小花に声を掛けた。
「おい。試験は何時からだ?」
「8時。今は……」
「6時だ」
「寝ます」
「駄目だ!起きろ。ほら」
非情な彼は彼女の肩を叩き、カーテンをさっと開き朝日を室内に入れた。
「ほら、二度寝は駄目だ。試験に合格したいんだろう?」
すると彼女はゆっくりと起きた。
寝ぼけているし長い髪も滅茶苦茶だった。
「俺はもう帰るから。君はシャワーを浴びてすっきりしろ。じゃあな」
「ふぁい……。ありがとうございました」
玄関まできた姫野は夕べ彼女のキーホルダーをいじった事を思い出し、リビングへ戻った。
「あのな、夕べ君の鍵を、あ?寝るんじゃない!」
小花はまたソファに寝ていた。
「もう……こら。起きろ、ほら」
姫野は彼女を抱き起し、座らせた。
そして冷蔵庫を勝手に開け、見つけたミネラルウォ―ターを取り出し、彼女に飲ませた。
「飲んだか。よし。今度はシャワーを浴びて来い」
「姫野さんは……お帰りですか?」
寝ぼけ顔で自分を呼ぶ声に、姫野は思わずドキとした。
「いや。俺はここで待っているから。早く浴びて来い」
頷いた彼女は、ふらふらと廊下の奥へ歩いて行った。
帰ろうと思っていた姫野は、この様子に試験会場まで送る覚悟をした。
テレビを付けた。
今日も暑くなると出ていた。
シャワーを浴びて出ていた小花は、朝食を作ると言って聞かない。
これに根負けした姫野は、料理を手伝い早く終わらせ、ぎりぎりまで彼女に勉強をさせた。
そして顔の青あざをメイクで隠そうとした彼女を制し、そのままの顔の方が試験官の同情を誘うと助言した。
こうして用意を整え先に自宅を出た姫野は車のエンジンを掛けて彼女を待っていた。
その時回覧板を手にした老女が姫野に挨拶をした。
「あなたはすずちゃんの御兄さんでしょ。やっと迎えに来てくれたんだね。いつまでも一人じゃ可哀想だものね」
そう言うと隣の家に入って行った。
……なんだ御兄さんって?家族はいないはずなのに。
「お待たせしました」
「ああ。これ回覧板」
受け取った小花はさっと目を通し、隣の家の郵便受けに入れた。今は試験前なのでこの話しはしない事にした姫野は、学校まで車を走らせた。
こうして彼女の学校まで送った姫野は自宅のマンションへ帰った。時刻はまだ九時だったしせっかくの晴天なので布団カバーを洗濯した。
ベランダからは大倉山が見えた時、今度の夏の休暇は久しぶりに実家に帰ろうと姫野は一人、笑みを称えていた。
つづく
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