11話 はじまりの夏

「合格か。まあ当然だな」


夕刻。小花から来たメッセージに、姫野は微笑んだ。そして返信をした。


『俺が教えたのだから当然だ』


『御礼にお食事に招待したいのですが、ご都合いかがですか』


……御礼?どうしようか。これくらいで礼とは。


『君にはウーロン茶の時に借りがあるから、礼は不要だ』


遠慮の気持ちで姫野は応えた。


『わかりました。お世話になりました』


後悔した彼はスマホから眼を離し、ベランダに出た。

 

明日も休日の日曜日。


でも月曜日が待ち遠しかった。







姫野岳人ひめのがくとは真面目な紳士だ。


そのストイックな性格で、一見冷酷にみられがちだが、そのクールさが女子社員に受けている。学生時代から交際していた彼女がいたが、仕事を優先する彼に愛想をつき、彼の元を離れてしまった。


そのショックと手間を省くために今度交際する女性とは結婚を前提にした交際をしたいと考えていた。このため、彼女選びのハードルが、非常に高くなっていた。


そんな彼は、会社が始まっても気が付けば小花の事を考えていた。


「先輩?ねえ姫野先輩!」


「あっ。て、どうした風間?」


「もう、何言っているんですか。さっき石原部長が会議室に来てくれって言ってたじゃないですか」


「おっと?そうだった」


あわてて上階の会議室へ姫野は飛び込ぶと、そこには、中央第二営業所の渡部長もいた。


「おう。忙しいところ悪かったな。まあここに座れや」


姫野は石原と渡の向かいに座った。他には誰もいなかった。


「あのよ。また社長が言い出してよ」


石原は電子煙草の煙を吐きながら、説明を始めた。


「今度、大通り公園でさっぽろ夏祭りがあるだろう。あれに参加しろって話しだ」


大通り公園の周囲を盆踊りで練り歩くもので、札幌の夏の風物詩だった。


「俺達で盆踊りをやるんですか?」


「やりたいか?」


「……できれば避けたいですね」


うんうんと二人の部長は頷いた。渡は腕を組みながら姫野に説明した。


「社長はまだ、あの祭りをよく理解してないんだな。だから、踊らなくても何らかの形で祭りにでれば良いと思うんだが。何か策はねえか?」


「踊らずに、祭りに参加……」


「ほら。お前は先日、ビール宴にブースを出したじゃないか」


「ではアレ的な販売でいいわけですね」


これに石原は足を組んだ。


「それには限らんが。こっちの手間も無く、社長も喜ぶようなものを考えてくれや」


「あの。すみません。この話し。なぜ、自分なんですか?他の先輩もいるかと思いますが」


ん?と渡が姫野に向かった。



「他の営業の奴は販売に苦労しているのに、お前は全社員の中で、売り上げも債権回収率も断トツだからな。これくらいやってくれよ」


石原は煙草の火を消した。


「そう言うわけだ。ああ、風間を上手に使えよ?」


「わかりました……」

 

肩を落とした姫野は重い足取りで営業所に戻った。





「しかし。社長も好きですね。そういうイベント」


松田女史は他人事にように笑った。


「やっぱりまたブースを出せばいいんじゃないですか?俺、親父に頼みますよ」


「それはこの前やったろう。それでは不満なので今回の話じゃないのか?そうだな。社長は派手なのがいいんだろうな。テレビに映るくらいの事をしないと」


「テレビ映りですか……。なんか冬は『雪まつりの大雪像を作れ』っていいそうですね。うちの社長」


「バカ!お前。それ、口が裂けても言うなよ!?今は夏祭りの事を考えろ」


何か目立つ事……。姫野は思い更けていた。


「失礼します。清掃です」


彼がそんな考え事をしているうちに夕刻の営業所に、彼女がモップを抱いて入ってきた。


「あ。小花ちゃん。今日、この後の予定は?」


「風間さん。私はまだ仕事中ですよ」


くすと笑った小花は、ゴミ箱のゴミを回収していた。そして丁寧に床をモップ掛けしていく様子を姫野はじっと見つめていた。


「あの。姫野さん、先日の追試は本当にお世話に……姫野さん?」



小花が話しかけているけれど、姫野はじっとモップを抱く彼女の手元をみていた。


「……それだ!」


突然。姫野は彼女の両肩を掴み、ガバと抱きしめた。


「えええ?」


「何するんですか!先輩」


姫野の背後から、風間が首を絞めた。


「う?何をするんだ!」


小花を解いた姫野は喉を押さえた。


「それはこっちのセリフ。小花ちゃん!大丈夫?」


「……はい」


真っ赤な顔で見上げる小花と眼が有った姫野は、自分のしたことを思い返し、赤面した。


「す、すまない。つい興奮して」


「何が済まないだ、こら!」


風間は上司の姫野の頭をチョップした。


「痛!」


「そうよ。いきなり抱きつくなんて、ね、驚いたでしょう?」


代わりに小花を抱きしめた松田女史は、姫野を睨んだ。


「悪かった!君をみて良いアイディアが浮かんだものだから」


「「「アイディア?」」」


三人の声が揃ったが、姫野は一人ニコニコしていた。


「ああ!夏祭りはこれでいくぞ。決まって良かった……」


嬉しそうな姫野を他所に、すっかり恥ずかしくなった小花は足早に部屋を出て行った。




「はあ、はあ」


慌てて出て来たので息が上がってしまった。


男性に抱きしめられたのは初めてだった。


今まで男性といえば父しか知らない小花にとって、衝撃的な出来事だった。


彼女は落ち着こうとトイレの清掃をする事にした。




「……ね。今日こそ、行ってみない?」


「あ、小花ちゃんだ。お疲れー」


総務部の女子社員二名、蘭と美紀がお化粧を直していた。


「お疲れ様です」


「そうだ。小花ちゃんに聞いてみようよ。あのさ、中央第一の風間さんと姫野さんってまだ営業所にいる?」


「さっきまでいました」


「やった!ね、行こう!玄関で待っていればいいよ」


「ありがとう。小花ちゃん!」


そういって嵐のように去って行った。


……蘭さんと美紀さんは、あの二人をデートに誘う気かしら……。


小花はトイレットペーパーを補充し、ゴミを回収した。そして雑巾で鏡を磨いた。鏡の中には、清掃員の自分がいた。




……しっかりしないと。私には私しかいないんだもの。

 

そして鏡の自分にニコと笑顔を作った彼女は次のトイレのドアを開けた。




会社を出た姫野と風間は、玄関で総務部の女子社員に捕まった。彼女たちの誘いをさらりとかわした姫野だったが、来るもの拒まずの風間は二人と食事に行った。



しかし。


先ほどは取り乱してしまった彼は今更、事の重大さに落ち込んでいた。小花に抱きついてしまったのは、サッカーでシュートを決めたような感覚で、愛情表現ではないつもりだった。


……でも……あの様子。謝っておくか。



『先ほどは済まなかった』


送ったメッセージ。姫野は返信が無いスマホを見つめながら、地下鉄に乗った。


しかし自宅マンションの階段を上がっている時、返信音を感じた彼は思わず手に取った。


『そうですね』


……どういう返しだ?


姫野は急いで部屋の鍵を開けて、部屋に入りメッセージを送った。



『会社から難問をいわれて悩んでいたんだが、君のおかげで助かった』


『よかったですね』


……どうしたら許してくれるんだろうか?


『本当にごめん』


『勉強中なので。これで失礼します』




……完全に振られた?っていうか。俺、何してるんだろう……。

 

真っ暗な部屋で、姫野は床に座り込み、この夜は何も手に付かずに床に付いた。






「おはようございます。ってどうしたんですか先輩」 


「何が」


「顔色めっちゃ悪いですよ」


「そうか?そうだろうな」


するとみんなのデスクにプリントを配っていた松田女史が冷たく言い放った。


「風間君。昨日の小花ちゃんの件じゃない?姫野係長、これでも気にしているのよ」


「これでも、とは。松田さん。ひどいじゃないですか」


「ほらね。これでもでしょ」


姫野を見やると風間は自身の机に座り、カバンの中身を出した。


「小花ちゃん。昨日飛び出して行ったもんな。せっかく先輩の事、信用してくれてたのに。あーあ。これで男嫌いになったら先輩のせいですからね」


「うるさい」


「どうでもいいですけど。姫野係長?得意先からメール着てますよ」


「わかってる……」



お盆前の長期休暇の前のこの日。医薬品の注文の相談が来ていた。午前中、姫野と風間は午前中営業所で雑務をこなしていた。


しかし。あまりにも元気の無い姫野に、さすがの風間も見かねて来た。


「先輩、俺、ちょっと出かけて来ます」


「どこにだ」


「社内にいるんで」


姫野の返事も聞かず、風間は五階の立ち入り禁止のドアを目指した。


「こんにちは。小花ちゃんいる?」


「……やっぱりあんたの仕業かい」


流し台で手を洗っていた清掃員の吉田は、ドスの利いた声を発した。


「違いますよ!うちの先輩が、て。あの、小花ちゃん、どうかしたんですか」


「……バケツの水をひっくり返す、集めたゴミをぶちまける、窓を拭いている時に雑巾を外に落とす、ソファに洗剤をこぼす……まだ教えて欲しいかい?」


「十分です。で、彼女は」


「あんたも知ってる所じゃないかい」


返事を待たずに風間は屋上へ走った。





つづく



 

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