2話 ノーニュウヨク
「♪シャワーを浴びてっと」
夜勤の風間。電話番は同僚に任せ社内にある宿直当番用の風呂に入っていた。
先に誰かが入れた入浴剤で真っ赤な色のバスタブのお湯。彼は疲れた身体を体育座りで沈めた。
「おお?これはピリピリするな……て?痛い。うわーーーー!」
慌ててお湯からでた風間は、またシャワーを浴びた。
「先輩。なんなんですか。あのお湯!」
「そうか?俺は何も感じなかったぞ」
先に風呂を済ませた姫野は、当直室で最新医療の雑誌を読んでいた。風間はまだぷんぷんと怒っていた。
「誰ですか?これを入れたのは」
「俺だべさ?最初から置いてあったな。この袋……」
今夜一緒に当番をする西営業所の反町。彼の手中には赤い袋があり『発汗 唐辛子』と書いてあった。風間はその袋を奪った。
「ちょっと。これって。……本当に唐辛子が入っているじゃないですか?目に入ったら危ないですよ」
「ああ。これメーカーさんがくれた試作品だべ。
「もしかして……反町さんは入らなかったんですか?」
呆れる風間に反町はしれと答えた。
「ああ。お湯に入れたんだけど、それ真っ赤だしよ。俺、怖くて入んなかったべ」
そういって彼は、ノートパソコンで売り上げをチェックしていた。
これに風間は拳を振るわせた。
「もういいです!緊急の電話が着たら起こして下さい。俺は仮眠します!」
怒った風間は先輩二人を指し置き部屋の戸を閉め布団に入ってしまった。
これを姫野がため息まじりで見ていた。
「……すまない反町。うちの風間は寝不足になると不機嫌なんだ」
すると姫野と同期の反町は気にするな!と白い歯を見せた。
「まあ。まだ入って半年だから仕方ねえべ」
新人の風間。今は仕事の疲れや理想と現実の違いがちょうど出てくる時期だと姫野は語った。加えて最近、仕事を一人で任されるようになってきた風間は、そのストレスでイライラして姫野に八つ当たりをしていた。
「あいつは今までチヤホヤされる側で、今は真逆だから……俺達よりも辛いかもしれないと思って」
「そうか?でも風間は誰とでも仲が良くて、親しみやすいべや。なんとかなるっしょ」
「……ハハハ。お前もな。反町!」
気心知れた二人はこうして夜勤を過ごしていた。
翌日の宿直明けの朝。
風間はまだプンプンと怒ったまま中央第一営業所に顔を出した。
「ひどいんですよ。松田さん。『発汗 唐辛子』って。僕を殺すですよ」
「でも姫野係長は何でも無かったんでしょう」
「ああ。汗がでて気分が良かったぞ」
「先輩が毎晩あれに入ればいいんですよ。全く……あれ?」
風間が気がつくと、窓を拭いていた小花が自分を見つめていた。
「ごめんなさい……」
「ど、どうしたの?」
彼女は下を向いて俯いた。
「もしかして。あの入浴剤を置いたのは小花か?」
姫野の声に、うんと彼女は頷いた。
「メーカーさんからサンプルを頂戴したので」
おずおずと彼女はお掃除の時に浴室に置いておいたと打ち明けた。
「すいません。まさかそんな危険なものとは」
「いくらなんでもさ。『唐辛子』は無いだろう!」
怒った風間は、営業所を飛び出した。
「あ、風間さん?」
「ほおっておけ。小花のせいじゃない」
「でも」
「そのうち……帰って来るさ」
そして夕刻。
不貞腐れて営業所に帰って来た風間は、姫野の運転する車で供に得意先のクリニックに向かっていた。
「……先輩。営業ってなんなんですか」
「なにが」
助手席の彼は夜の石狩街道から創成川を見ていた。
「俺達は薬屋でしょう?基本、必要なものだから売れる事は売れるけど、どこの卸会社から買うのかは、医者の気分次第です」
そのために医者のご機嫌取りをするのは、嫌だと言い出した。
「先輩はどうしてそんなにプライド捨てて、仕事ができるんですか?」
「医者のご機嫌取りとお前は言うが。俺は信頼関係を築くための作業だと思っているぞ」
「ペットの葬儀を手伝って?引っ越しを手伝ってですか?それも信頼関係ですか」
「……ああ。信頼関係だ。畑に種を蒔くようなものだ」
「ばかばかしい。俺はそういうの、もう限界なんです」
そんな風間に姫野は諭すように呟いた。
「お前。風間社長がぎっくり腰で休んでいるから、薬局の方も手伝っているんだろう?夏山の方は有給を使え」
そんな言葉が欲しかったわけじゃない風間は斬るような目で姫野を見た。
「は?先輩は本当に冷静で残酷ですね……。俺は先輩のそういうところが嫌いです!」
助手席から夜景を除く風間の横顔を横目で見た姫野は、黙って国道を西へ進めた。
車中に風間を待たせて医者と打ち合わせた姫野は、彼の家の薬局前で降ろした。
そして自宅のマンションへ帰って来た。
気付くとスマホが点滅しており彼女も風間を気にかけていた事に姫野は胸が痛んだ。
……風間は本当に辛い思いをした事がないから、恵まれている自分に気が付かないんだ……。
家族を無くして一人ぼっちの小花は昼は働き、夜は学校に通い自分のできる事を精いっぱいやっている。姫野は風間の甘さが歯がゆかった。
人を怨む事も無く、今は幸せだと俺に言った小花は自身の事よりも風間の事を心配している。彼は年長として申し訳ない気持ちになっていた。
そんな思いを押し殺し、この夜、姫野は小花に心配するなと連絡した。
翌日。
風間は普段通りに出社してきたが、同僚に対して言葉は無く仕事を淡々と進めていた。
そして夕刻。
清掃をしに小花が現れた。
「風間さん。昨日の入浴剤はすみませんでした。あの、これ。私が調合したオリジナルの入浴剤ですけど。良ければお使い下さいませ」
小さな瓶の中にはピンクの液体が入っていた。
「今更こんなのもらってもさ……」
机に肘を付き、風間はそっぽを向いた。この不貞腐れた態度に松田女史が先にキレた。
「風間君?言い加減にしないと」
「松田さん。いいんです!ごめんなさい。風間さん……」
こんな様子にトイレから戻ってきた石原所長は間に入った。
「なした!喧嘩か。こっちへ来い!」
それを見ていた何も知らない石原は、姫野と風間をデスクの前に呼び寄せた。
「いいからお姉ちゃんはすっ込んでな!お前らの喧嘩の原因はなんだ?」
「別に。喧嘩はしておりませんが」
姫野の冷たい声。風間は苛立ちを抑えていた。
「そうか……風間は?何か言いたい事があるならはっきり言え!」
「別に……何もないです」
「じゃ!仲良くしろ。ほら……手を繋げ!早く!微笑んで見つめ合え!」
「お話中、すみません!姫野係長。内線2番です」
姫野が出た電話は、得意先の先生からだった。
「娘さんが?分かりました。私が現場に向かいます。おい、風間……」
「なんですか、先輩」
すると姫野は、机の引き出しから封筒を取り出し、風間にすっと差し出した。
風間を見つめる目は真剣だった。
「風間。これはお前が以前書いた辞表だ。誤字や脱字が多いので、今まで俺が預かっていた」
「……」
真剣な様子。石原と松田と小花は息を呑んだ。
「このままでは受け取れない。出すなら書き直してくれ。だがな……」
風間は顔をすっと上げた。
「出すまではお前は夏山愛生堂のセールスマンだ。社会人なら、その責務を全うしろ!」
「……わかりました」
風間は辞表をギュウと掴むとポケットに押し込んだ。出て行った二人の背を、小花と松田と石原は見つめていた。
「……どこに行くんですか、一体」
大雨の中。姫野の運転する車は石狩街道を南に走っていた。
「ライラック外科の先生の娘さんが一人で運転していて、石狩街道で立ち往生しているそうだ。先生はご夫婦でドクターをしているし。娘さんは免許取り立てなんだ」
「……何で俺達そんな事を?JAFを呼べばいいのに」
「初心者の女の子だから……それさえも分からないんだろう。あ。あれか?」
歩道には、初心者マークを付けた赤い車が停まっていた。姫野はその車の後ろに停めた。
「後ろのタイヤがパンクか……風間はここで待て」
姫野は大雨の中、赤い車へ走っていた。
「嘘だろう?マジかよ……」
傘をさして立っていた女の子に話かけた彼は、濡れながらトランクを開け、スペアタイヤを取り出し、交換を始めた。
これに思わず、風間も傘をさして、姫野の傍に立った。
「俺はいい!風間。濡れるから娘さんを俺達の車に乗せてくれ」
「でも」
「いいから!早く!」
風間は彼女を助手席に座らせると、傘をさし姫野の元に戻った。
「ボルトを……締めているんだが、雨で濡れているから……よっと」
「大丈夫ですか」
びしょ濡れの姫野はあっという間にタイヤを交換した。
「風間!この車はお前が運転しろ。いいか?あそこのスタンドに寄って、ガソリンを入れるついでにこのスペアタイヤのボルトのチェックと、空気圧を見てもらえ!」
「先輩は?」
「こんなに濡れて、この車に乗れるわけないだろう!さっさと彼女を連れて来い」
姫野の迫力に押された風間は、彼女を助手席に乗せ赤い車を発進させた。ルームミラーには、ずぶ濡れの姫野が映っていた。
「……すみません。私のために」
車中。助手席の彼女は下を向いていた。風間は優しく声をかけた。
「あ?いいんだよ。そんなこと」
すると彼女は涙をぽろぽろこぼし始めた。
「パンクしたの、分からなくて。なんかハンドルが取られるな、って思ったんですけど。後ろの車からあおられるし、雨で前が見えないし……」
「怖かったんだね。初心者だから仕方が無いよ」
しかし、彼女は首を横に振った。
「さっきの人。あんなに親切にしてくれたのに、私……ちゃんと御礼も言えなくて。あんなに濡れていたのに。本当に……ごめんなさい」
ガソリンスタンドに着いた風間は、彼女にタオルを渡し、車を下りた。そして、姫野の指示通りに店員に頼んだ。そして、スマホを手に取った。
風間はそのまま彼女を得意先へ送り届けた。車を置くと先に到着していた姫野と合流し、無言で営業所に戻ってきた。
「姫野さん!風間さん。お疲れ様でした」
遅い時間なのに、小花はタオルを広げて玄関に立っていた。姫野はニコニコ顔の小花に戸惑いつつ、タオルを受け取った。
「汚れ防止か?」
「……それもありますけど、どうぞ!」
ニコと笑った小花は、ふざけて彼の頭の上にタオルをふわと乗せ、背中を押した。その先を風間が先導した.
「おい?」
「先輩。こっちです!……宿直室のお風呂を沸かしておきました」
姫野の着替えは松田さんが置いたと小花は背を押した。
「そう言うわけです。では、ごゆっくり!」
彼女はウィンク一つ決めてそう言うと、風呂場のドアを閉めた。
確かに、ロッカーに置いてあった夜勤用の着替えが入ったバックとスーツが置いてあった。
濡れて重い服を脱ぎシャワーを浴びた彼は冷たい身体をお湯に入れた。
……いい湯加減だな……。
ピンクの入浴剤は、いい匂いがした。
……どこかで嗅いだような。バラかな……ラベンダー?……
姫野はわかった。
……これは小花の匂いだ……
急に心臓がドキドキして来た彼はお湯を手で掬った。匂いを嗅いだ。
……やばいぞ、これ……
彼女と同じ香りのお湯の中は彼女に優しく包まれているようだった。
……落ち着け、俺……
こんなピンクの湯に浸かっていた姫野は体育座りで、じーーーーとこれに身を預けていたのだった。
そして風呂を上がった姫野はそっと中央第一の営業所に戻った。風間は残って仕事をしていた。
「先輩。ずいぶん長湯でしたね。顔が真っ赤ですよ」
「そ、そうか?」
戻っていた風間は笑顔で姫野に水を差し出した。松田も仕事の手を止めた。
「係長。勝手にロッカーから出してごめんなさいね」
「いいんです。松田さん。助かりました」
こんな姫野に風間は立ち上がった。
「先輩……。すんませんでした!」
風間はすっと頭を下げた。髪が濡れた姫野はタオルを被ったまま見つめた。
「今まで本当、俺、ガキでした!でも今日の先輩みたく、人を助ける人になりたいです」
「そうか……」
姫野は目を細めた。そんな彼に松田が捕捉した。
「それに係長?お風呂の手配は風間君です。お風呂の用意は小花ちゃんだけど」
「ああ。ありがとうな、風間。これからもよろしくな」
姫野は何もなかったような笑顔でポンと肩にー手を置いた。風間は目をウルとさせた。
「……先輩。姫野先輩……」
風間は姫野の首に抱きついた。
「ううう」
「おいおい?風間どうした」
泣き出した風間に姫野は優しく呟いた。
「ううう。さっきの辞表の時の顔マジ怖かった!……」
双子の弟がいる姫野は広い胸にすがる後輩を優しく愛でていた。
「わかってくれたなら、それでいいんだ」
「うう……ん?あれ?先輩から、滅茶苦茶いい匂いがする?」
「気、気のせいだろう?」
姫野から離れた風間は匂いを嗅いだ。
「これは……どこかで嗅いだな?すんません。耳の裏の匂いを嗅がせて」
「バカ!寄せ?くすっぐったいじゃないか」
するとそこに石原が帰って来た。目を見開いていた。
「お前達は……そういう仲だったのか……」
明らかに誤解した目付きの石原は、ニヤニヤしながら二人を見た。
「俺は理解がある方だからな。そうか、風間は姫野を」
「ち、違います?俺はこの匂いを……あ?小花ちゃんがくれた瓶が無い?どこ」
ここで松田は仕事に戻り、姫野もふうと息を吐いた。
「さあな?」
「さ。そろそろ会議を始めましょう」
誤魔化しムードの姫野に風間はずいと迫った。
「ねえ先輩!そのお風呂のお湯は残っているんですか?」
「抜いて掃除しておいた」
「バカ?何やってんですか!」
「おいおい?もうわかったから、痴話喧嘩はそれくらいにしろー」
「違いますって!」
騒ぐ男たち。松田が夜のブラインドを閉めた。
「『雨降って、地固まる』か……」
そうつぶやいた松田女史は窓を開けた。
札幌に降ったスコールは止み、星が光っていた。
続く
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