15話 静かに眠れ
「ん?今なんか、黒い物が動かなかった?」
「気のせいじゃないの?」
昼休み。総務部の蘭と美紀は、女子用の休憩室の和室で昼食を食べていた。他の社員は忙しくしていたが、本日は総務部長もおらずダラダラしていた。
「ところで。美紀の彼氏の仕事って見つかったの?」
「セイコーマートのバイト始めた。何もしないよりはいいかなって」
美樹の出身である利尻島。ここで仕事をしていた彼と遠距離恋愛をしていたが、彼は仕事が嫌で辞めてしまい、札幌に住む美紀のアパートに転がり込んでいた。
「廃棄のお弁当とかもらってきてくれるしさ。前の仕事よりも生き生きしてるし。天職っていってるよ」
そういって美紀は三個目のコンビニおにぎりの袋を開けた。
「そうか。でも将来を思うとちょっと不安だよね」
「私の事よりも。蘭の彼氏って、例の彼女と別れたの?」
「……そう言っているけど。なんか分からないんだよね。もう、別れようかな」
浮気現場を目撃した全日空ホテル。入った部屋に突撃アタックした蘭は、相手の女性が自分よりもぽっちゃりだったので、そっちの方がショックでまだひきづっていた。
「付き合って何年?」
「学生時代からだから、五年かな」
「そろそろ結婚の話があってもよさそうだしね……お互い」
下を向いた蘭の目線には、やはり黒い物がさっと走り去った。
「うわ?部屋にバッタがいるよ」
「マジで?窓を開けて逃がそうか」
美紀は窓を開け放し、そっと座り直した。
「こうしておけば、勝手に出て行くっしょ」
その時、部屋のドアがゆっくりと開いた。
「失礼します。あ。まだお食事中でしたね」
そこにはゴミ袋を持った小花が立っていた。
「小花ちゃんだ?いいよ、あ、お菓子あるから一緒に食べようよ」
「私もお二人にお話しがあったんです……」
そういうと、小花は靴を脱ぎ、畳みに正座をした。
「窓を開けていますが、冷房が効いていないのですか?」
「いやさ。バッタがいたから逃がそうと思って……え?」
小花は急に立ち上がると、腰に下げた掃除セットの中から、スプレーを取りだし構えた。
「お二人とも。ここからお逃げ下さい!」
そう言うなりテレビの後ろにスプレーを容赦なくかけ始めた。
「うわ!何か出た?」
「ギャー?こっちに来たー」
「はっ!!」
出て来た虫を、小花は持っていたハタキで仕留めた。
「ふう……」
額の汗をぬぐう彼女を、二人は抱き合って見ていた。
「え?これが例の虫なの?」
小花はうんと頷いた。
「そうです。本来は北海道にはいてはならない虫ですね。私もまさかこのビルにいるとは思っていませんでした……」
「どこから入って来るんだろう」
びびる美樹に対し、小花は怖い顔で答えた。
「いいえ。美紀さん。これはお客さんではありませんわ。ここの住人です」
「うえ!?勘弁してよ」
「最近、給湯室やトイレでも見かけておりましたが、まさかここまで勢力を拡大していたなんて」
他にも部屋の隅にスプレーをしている小花に、蘭は恐る恐る尋ねた。
「全然わかんなかったし」
「そうか!皆さん、この虫の事がそれだと知らなかったんですね。それで理解しました」
小花はそっと部屋のゴミ箱を掴んだ。
「このように。食べたものをそのままゴミ箱に入れたりすると、奴らの思うつぼですわ」
「嫌だ!ねえ。どうしたらいいの?小花ちゃん」
「もう見たくないよ!」
「それを御相談しようと思っていました」
にっこり微笑む小花に、二人はほっとした。
「要するに。ゴミの管理と、駆除の薬か」
「はい。総務部には給湯室用にしっかり蓋ができるゴミ箱を購入していただきたいのです。ゴミは全てそこに入れていただいて。後は、駆除の薬ですが」
小花はすっと美文字で書かれたメモを差し出した。
「この薬剤が一番効果あるのですが。札幌では需要がないせいか一般の薬局には置いてないと思います」
「はあ?何言ってんの?小花ちゃん」
「うちの会社が何屋さんか忘れたの?」
「あ?」
蘭と美樹はどや顔で立ち上がった。
「薬局の薬はうちの会社で卸しているんだもの。うちに無い物は無いわ!」
「……私とした事が?さすが夏山愛生堂ですわ」
任せとけ、と胸をトンと叩いた蘭と、親指をビシと立てた美紀に、小花は嬉しくなった。
翌朝。
小花の休憩室には、早速、駆除剤が届いていた。小花はこれを開封していた。背後では吉田が老眼の目を細めた。
「それはホイホイとは違うのかい」
「はい。これを置くと現れません」
これを掃除用のワゴンに搭載した小花は、吉田よりも先に社内の清掃に出動した。そして危険箇所に仕掛けていった。
「トイレはOK。給湯室にも置いたし……。あ。そうだわ」
宿直の男性社員が寝泊まりする和室。
ここも危険と判断した小花は、宿直室の部屋のドアを開けた。
「スースー」
「ひい?」
そこではしっかり布団を敷き、若い男性社員が背を向けて眠っていた。
小花は驚きで腰を抜かしそうになった。
……今は午前十時。社員の方はお仕事中のはずなのに?場合によっては、上司の方に報告した方が良いかもしれないし……。
小花は誰かと思い、そうっと顔を覗いた。
……どうしてここに?
彼女は驚いたが、思わず笑みがこぼれた。
彼の枕元にはスマホが有り、アラームがセットされていた。
小花はその柔らかい寝顔に微笑みながら、ずれた布団をそっと彼に掛けた。
その日の昼休み。
小花はお弁当を持って女子休憩室に向かった。女子社員が勢揃いしていた。
「小花ちゃん!こっち」
十畳の部屋。蘭と美紀と一緒に食べる約束をしていた小花は、他の女子社員の後ろをごめんなさいよ、で通り、同じテーブルに座った。
「さ、食べよう!いただきまーす」
三人は仲良く箸を進めた。
蘭と美紀の恋バナで話は盛り上がった。これに財務の良子が入ってきた。
「そっちは楽しそうね。あのさ。小花さんは中央第一の清掃をしているんでしょう。あのイケメンの姫君と風間ちゃんて。実際どんな人なの?」
財務の良子部長五十九歳はきゅうりの漬物をバリバリ食べながら聞いてきた。
「実際と言いますと?」
「ほら。風間ちゃんはいつもニコニコしているでしょう?あれはいつもなの?」
「はい。気持ちが優しくて親切で。場を和やかにする方ですわ」
ヒューと誰かが口笛を吹いた。
「じゃあ。姫君は?イケメンだけど、神経質っぽいじゃないの」
「それは言えると思います。真面目な方なのでそう見えますわ。でも常に最先端の医薬品の勉強をされて、お医者様から慕われている方ですわ」
「トップセールスっていうのはそう言う事なのね」
歯につまようじを指しながら話す良子部長に、蘭はつぶやいた。
「仕事ができる男はカッコいいな」
「姫野さんや風間さんに比べたら、うちらの彼氏は霞むよ」
そういって美紀はセイコーマートの「ようかんパン」にかじりついた。
美紀は肘をつき、大きく溜息をついた。これに小花はミニトマトを食べながら微笑んだ。
「……そんなこと有りませんよ。夏山さんは、みなさん、頑張っておいでですわ」
そう小声でつぶやいた彼女はお弁当を終え、すっと立ち上がった。
「皆さま。そちらに張り紙をしてありますが、どうぞゴミの処理についてご協力下さいませ。これで事態は沈静化すると思われます」
「わかったよ。はい。みんなゴミは持ち帰るよ」
良子部長の一声に、女子一同は片膝を立て、おう!という威勢の良い返事を揃えた。
「ありがとうね。小花ちゃん、色々と」
「いいえ、蘭さん、美紀さんも。私をお食事に誘ってくださいまして、ありがとうございました」
そういって部屋を出た彼女は廊下にいた男性社員に声を掛けられた。
「あのね、小花ちゃん。社長を見かけなかった?」
「秘書の野口の話によると。社内にはいるようなんだが、どこにも見当たらないんだ」
「……社長にはお急ぎの予定があるんですか」
「いや。夕刻に会食があるらしいが、なぜだ?」
「姫野さん。ひそひそひそ」
小花は背伸びをして姫野に耳にささやいた。風間は廊下の花瓶の中を覗き込み、必死に社長を探していた。
「なので。……もう少し休ませてあげたいのです」
目を潤ませる小花。姫野は目を伏せ優しく小花の頭を撫でた。
「わかった。行くぞ。風間。俺達は仕事に戻る」
「え?社長を捜さなくてもいいんですか?」
「いいから!来い」
二人の足音は、廊下の奥へ消えて行った。
その頼りになる背中を見届けた彼女は、鼻歌を歌いながら仕事部屋へと歩いていった。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます