冬凪の色

カフェオレ

冬凪の色

 <海、いっしょに行かない?>


 休日の朝。起き抜けに手に取ったスマートフォンには、彼女からのお誘いが届いていた。海デートのお誘いである。海デート。僕は彼女といっしょに海に出かけたことがない。つまり今、僕には初めて、彼女と並んで海を眺める機会が訪れているということだ。

 手元のショートメッセージをもう一度見直してみる。……うん、間違いなく、僕は海に誘われている。なにか僕の知らない施設の俗称だったらお手上げだけど、この文面で太平洋とか大西洋とかと同じタイプの海じゃなかったら、もうちょっと推敲をするべきだと思う。

 海は好きでも嫌いでもないが、デートで出かけるなら話は別だ。一度くらいは海水浴場で、彼女の水着姿を拝ませていただきたいとは考えていた。仮にそれを拒まれたとしても、出かけたことのない場所にいっしょに出かけるというのは、わくわく感があってよい。が。

 とりあえず、眠気覚ましに日を浴びようと、僕はカーテンと窓を開けて、ベランダに出た。晴れと言いたいけれど、お天気ニュースでは曇りと読み上げられてしまいそうな空模様だった。そんな空の下、及び僕の眼下のコンクリート上を、トレンチコートを着たサラリーマンが歩いている。


「冬なんだよな……」


 ぴゅうと吹いた風の寒さで両目はぱっちりと開き、目的を達した僕はそそくさと部屋に逃げ込む。海には飛び込めば風邪では済まない気温だ。はてさて、彼女はいったい何を考えているのだろう? 僕は彼女に困惑を伝えるために、それからその真意を知るために、再びスマートフォンを手に取った。






 *******************






 時間は流れて正午過ぎ、素朴で優しい雰囲気のカフェ。その一角で、僕は注文したカフェオレが運ばれてくるのを待っていた。カフェでカフェオレ。じゃあ家で飲んだら家オレだ! と思い込んで親に笑われた過去は苦々しいが、カフェオレは甘めでおいしい。そんな無為な思考で時間を潰しながら、僕は待ち合わせ時間に遅れている彼女の到着を待っていた。

 あれからいくつかのやり取りを経て、彼女の言う海は「うみはひろいなおおきいな」の海であることが確定した。僕は間違っていなかった。間違っていなかったので非常に困った。冬の海に何をしに行くのか、さっぱりわからなかったからだ。

 ただ、彼女曰く、最近オープンしたカフェに行くことがメインで、その帰りに少し、海に立ち寄りたいとのことだった。結局海に行きたい理由はわからずじまいだったが、考え1つ1つにいちいち理由を見出す必要はないと思ったので、僕はそれ以上の追及はやめてその提案を承諾した。デートはいつでも大歓迎なのだ。

 本来は最寄り駅で待ち合わせる予定だったが、向こうに小さなアクシデントがあったらしく、<小一時間遅れそうなので先にカフェに行っておいて……ごめ!>と連絡があった。「ごめ!」 とは「ごめん!」 の略である。なぜわざわざ、たった1文字を省略するのか。理解に苦しむことでも、目くじらを立てるようなことではないので、僕はそこを指摘せず、了承の旨を送り返した。

 そんなわけで僕は1人で電車に揺られ、数駅を過ぎてたどり着いたカフェでテーブル席を陣取り、朝食を食べていなかったのでホットサンドを注文して、それを平らげて飲み物を頼んでいる。彼女がここに来る前に、このカフェを満喫し尽してしまいそうだ。


「ごめんごめん、おまたせー」


 その心配は杞憂に終わり、カフェオレより先に、愛しの彼女がテーブルに現れた。僕は親指と人差し指で丸を作って、気にしていないとハンドサインを返す。決して、「遅れたからここの代金お前持ちな」と金をせびっているわけではない。食事についてきたお冷を口にしていたので、声を出せなかったが故の行動だ。

 海に行きたいと言っていた彼女の服装は、当然といえば当然なのだが冬の装いだった。ダッフルコートの肩口にかかる長い髪は、春から秋にかけては後ろに結んでポニーテールになっているのだが、冬になると寒さ対策の一環でおろされている。今日はその頭に、初めて見る赤いベレー帽が乗っかっていて、よく似合っていた。

 彼女が席についたタイミングで、僕の頼んだカフェオレが運ばれてきた。伝票を置く店員さんに、彼女はカプチーノとチョコレートケーキを頼んだ。


「……このカップ、私の好み」


 僕の前で湯気を立てるカフェラテ。その流動を留める白いカップを、彼女はお気に召したようだった。


「写真、撮っていい?」

「いいよ」

「ありがと」


 彼女はスマートフォンを取り出して、カシャリ、と僕の写真を撮った。てっきりカップの写真を撮っていいか聞かれたと思った――なんてことはない。彼女との付き合いは長いので、僕に確認を取ったことは理解できている。彼女はモノを撮影するときに許可を仰いだりしない。「人間は許可取らないと盗撮になるから……」と、法に則って行動しているだけなのだ。なのでその後、彼女は前置きなくカップの写真を連写していた。


「いっつもたくさん写真撮ってるけど、容量なくならないの?」

「クラウド使ってるから大丈夫」

「クラウド……?」


 常識であるかのように使われたワードを、僕はよく知らない。よく知らないが、たいていのことはグーグルで調べればヒットするので、さっそく文字列を入力してみると、どうやら「いろんなものの遠隔保存サービス」がクラウドらしい。便利……。僕の知らないサービスを、彼女はしっかり使いこなしていて、同時に自分ももう少しニュースやらで現代の知識を仕入れた方がいいのかもしれないと、危機感も抱いた。


 そうこうしているうちに、彼女が頼んだ商品もテーブルに並ぶ。人がそんなに多くないからかもしれないが、注文してから長々と待たされないのは気分が良い。ホットサンドもおいしかったし、リピーターになろうかと考えていると、またシャッター音がカシャカシャ鳴り響いた。いつか勧めた無音カメラのアプリは、まだインストールしていないようだ。


「いい資料」


 資料。彼女がモノの写真を撮るのは、SNSに載せてハートをもらうためではなく、絵の練習をするときにモデルにするためだ。彼女は自然や無機物を描くのが好きで、日常的に至るものをスマートフォンに収めている。

 資料はデータだが、描くときは現実の紙に絵の具で描くタイプなので、汚れてもいいように学校の美術室でしか絵を描かない。素人目に見ても、彼女の水彩画は立派なものだ、と思うのだが、本人曰くまだまだらしい。その向上心は留まるところを知らず、彼女の目は今日もインプット候補を探して、進化を続けるのだ。


 閑話休題。


「ここのカフェ、誰かからおすすめされたの?」

「いや、インスタでたまたま見ただけ」


 カフェの情報の出所を尋ねてみると、僕も利用しているSNSコンテンツの名前が返された。インスタグラム。彼女が僕をデートに誘うときには、8割方、このアプリで興味を持った場所が目的地になっている。海に行きたいと言い出したのも、葉も落ち切ったこの季節に、海で感動的な写真を撮影した人がいるからなのだろうか。推測は心の中に押しとどめ、僕は今のデートを楽しむことだけに注力した。

 カフェオレを口に運びながら、チョコケーキに舌鼓を打つ彼女を眺める。恋人が楽しそうに笑っている姿は心を癒してくれるが、僕はそのかわいらしい目元が、わずかにだが、腫れていることに気が付いてしまった。

 僕は、感情が表情にわかりやすく反映されるらしい。小さな動揺はすぐにバレてしまったようで、彼女は苦々しい笑みを浮かべた。


「……気がついちゃった?」


 さすがに、わくわくデート気分を続けられるほど、察しが悪いわけではない。僕は再び、気持ちを切り替えた。


「またけんかした?」

「うん」


 気を紛らわすように、彼女はカプチーノをスプーンでくるくるかき混ぜた。彼女は、現状、両親とあまり仲が良くない。しょっちゅう言い争いに発展したりするようなのだが、それをなるべく隠そうとしているのか、こうして気丈にふるまうことが多々あった。


「でも、大丈夫」

「愚痴は聞くから」

「えへへ、いつもありがと」


 はにかみの裏で、彼女はいつも闘っている。性格の合わない人間は避けて生きていくことが利口だが、家族のしがらみというものは、それを容易には行えず、他者の介入も非常に難しい問題だ。僕にできることは、雀の涙程度の手助けだけで、その中に踏み込んでいくことはできない。それでも、そのほんのわずかを、絶やさないようにしたかった。


「僕は、瑞希みずきの絵、好きだよ」

「……もー」


 見た目よりも弱っていたようで、瑞希はハンカチを目に当てた。以前は表に出すことすらなかったその姿を、僕の前で見せるようになったことを喜んでいいものか、僕にはわからなかった。

 すすり泣く彼女の隣に席を移り、手を重ねる。静かなカフェのBGMが、少しだけ僕らの心を落ち着かせてくれた。いつかの彼女の告白を、僕は思い出していた。





 *******************





「私ね、絵を描きたいんだ」


「物心ついたころには絵を描くのが好きで、その中でも特に風景画を描くのが好きだった」

「絵を描くことに制限なんてないから、暇なときは四六時中外に出て、いろんなものを描いた」

「同じ雲でもいろんな形があって、それぞれに名前がついていることを知ったときはすっごく感動したなあ」

「高校生になって、唐突に将来のことを考えるように迫られ始めて、私はお金とか名誉とかより、自分のしたいことをしていきたいなって思った」

「自分のやりたいこと、ネットでいろんな職業調べてみたり、友達にどんな夢を持ってるのか聞いたり、結構時間をかけて考えたけれど」

「したいこと、それしかなかった」

「自分が感動した自然を、絵にしていきたいって思った。だから私は、芸術大学に行こうって思った」


「でも、お父さんもお母さんも賛成してくれなかった」

「美術なんかで暮らしていけるかって、何を考えているんだって」

「絵で食べていくのはすごく厳しいことだってわかってる。それでも、私は私の表現したいことを表現できるように専門的なことを学びたい」

「できれば絵で生計を立てられたらいいなって思うけれど、食べていけなくても、満足できる絵を描くための糧にはなる」

「その時は諦めて絵は趣味にしようと思うし、もし絵で食べていけなくても後から就職が不可能になるってことはない。大学の学費は自分で何とかするし、やらない後悔はしたくないって、納得する様子のない2人の前にしぶとく居座った」

「そしたら、お父さんが言ったんだ」


「逃げてるだけじゃないのか、って」


「お前は勉強が苦手だから、学力がそこまで重要でない美術系の大学に逃げようとしているんじゃないかって」

「目先の楽に囚われて、先のことなんか何にも考えてなんかいないんじゃないかって」


「初めて、すっごくすっごく考えて、本気でしたいって思ったことが、逃げてるんじゃないかって言われて、思わずお父さんとお母さんに口汚い言葉を吐いちゃった」

「でもね、それでますます、私は本気で絵に向き合いたいと思ってるってわかった」

「この道を進んでいきたいって意志が固まった」

「このまま2人と仲違いしたまま、芸術大学を目指してもよかったんだけど、そうしたらね、あの2人はずっと、私のことを逃げた、逃げ出した奴だって思いこんだまま生きていくの」

「それはとっても、悔しいことだなって」

「血のつながりがあったって、私たちは他人でしかないから。感性も理解も、等身大でしかいられないから」

「だから、証明するしかないんだ」

「普通の大学に合格できる学力を身に着けて、私の本気を証明する」

「美術の勉強の方がおろそかになっちゃうけれど、浪人してでもまずはお父さんとお母さんに私の信念を認めさせる」


「えっとね……勢いでいっぱい話しちゃった」

「ごめんね、たぶん誰かに愚痴を吐きたかったんだと思う」

「私、頑張るよ」

「絵も、そのために勉強も」

「……」

「……君に、頼ってもいいかな?」




 もちろん、僕にできることなら。





 *******************





 気持ちは、一旦落ち着くと案外簡単に整理できる。いくらか愚痴を零したのち、瑞希は次に描こうと思っている絵の話を始めて、それからは普通のカフェデートが続いた。僕はこの普通が大好きなので、非常に有意義な時間を過ごせた。

 夕方になって、僕らはカフェを出て、近くの海辺に足を運んだ。


「寒い」

「寒いね」


 海辺であること関係なしに、日の沈みかけたこの時間帯は冷え込んでいた。


「海に行かないから知らなかったけれど、ここの砂浜けっこうきれいだね」

「ボランティアの人が頑張ってるみたい。冬はさすがに人が来ないからごみも減っているんだろうね、裸足で歩けそう」


 裸足で歩いたらプラスチックが足に刺さることはないが、冷気は容赦なく肌を刺すだろう。それは彼女も理解しているようで、実際に靴を脱いで歩こうとする様子はなかった。


「今更だけど、なんで冬に来ようと思ったの?」

「来たことがなかったから……かな、ほんとにたまたま思いついただけ」


 砂浜の上で立ち止まって、瑞希は海の方を見やった。


「夏の海はよく知ってる。お日様燦燦、開放的。油断していたら熱された砂で火傷を負ったり。でも、冬の海って行ったことないなって思って」


 どうやら、彼女は夏場には頻繁に海へ足を運んでいたらしい。次はぜひとも、僕も誘うようにと念じている間に、瑞希はその場にしゃがみ込んで、さらさらとした砂を手に取った。


「実際に来てみると全然違う。水に飛び込む気なんてさらさら起きないし、空気も乾燥してる。空気が乾燥してるから、砂の手触りもイメージと合わない。夕日もどこか暗い印象、なんだか哀愁を感じる。寒いからかな」


 ブツブツと自分が感じたことを口にしながら、彼女は写真だけでは読み取れない空気感を、新たな知識と経験としてインプットしているようだった。


「冬って強い風が吹くことが多くて、海がすっごく荒れやすいんだって。でも、今は風が吹いていなくて、なんだか貴重な経験をしているみたい」


 僕は口を開くことなく、瑞希の言葉に耳を傾けていた。瑞希の目は、憧れのヒーローを目にした子供のように、キラキラと輝いていた。


「もう沈みそうな夕日も、黒に朱色の混じる海も、目に見えないこの澄んだ空気も、ぜんぶ綺麗」


 そこには確かに、彼女にとっての感動があったのだろう。


「来てよかった」


 細められた目から、彼女の満足感が伝わった。きっと、この景色も彼女の夢の1つになって、いつかキャンバスの上に蘇る。パレットの上から筆に乗せた冬凪の色を、見てみたいと思った。


「明日、いっしょに課題やろ」

「……わからないところあった?」

「数学ほとんど……」

「サボらなくてえらい」


 そのためには、僕のできる限りで、彼女を支えていきたい。大きな夢はなくとも、僕も確かに、叶えたい夢と共に生きていた。帰路につき始める中で、僕は欲と決意を含んで、彼女の手を握る。そこにある笑顔が、僕の守りたいものだった。


 明日も、彼女が笑っていられますように。またいつか目にしたい空に、僕は願った。

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