第九話-⑦



「概ね、捕捉されましたか」


 いかにも老執事といった風貌の男は、興奮した手負いの獣のような状態の刺青男の前で、なんでもないことのように口にする。


「失敗そのものは想定済みではありましたが、ここまで鮮やかに捉えるとは。いや、大樹国家の王太子の実力、少々見誤っておりましたかな」


 敵ながら素晴らしい、などと賛辞を贈る老人。その言動の内容に反して、彼は実に落ち着いている。まるでこの失敗まで含めて予定調和であるとでも言いたげに。


「ずいぶんと余裕あるじゃねえか」


 皮肉のつもりで刺青男が指摘するが、そんなことで老人が動じるわけはないと、すでに学んでいる。

 一方で、刺青男にもはや余裕はない。

 炭化した左腕は、たとえ武器に転用できようとも、自身と繋がった腕である。腕が繋がっている状態で炭化し、正気を保てるはずもなく。彼はとうに狂い果てているが、それでももう誤魔化しが利かないところまできている。


「そこまで変質したのはあなただけでしたが、まあいいでしょう。今回は失敗に終わりましたが、なに、そこから学び教訓を得るのが人間というモノです。一般人であれば容易に獣化しますが制御はできず。冒険者であれば変容は耐えられてもそこまで届かず。使えなかった、で終わりですな」


 本当に届かないことで、自分への皮肉になっていることに刺青男は失笑する。老人へではなく自分の無様な姿への、あるいは嘲笑だったのかもしれない。

 ゆえにこれは、単純な疑問だ。


「よォ。おまえの主ってのぁ、いったいなにがしたかったんだ?」


 これに尽きる。

 妙なモノをばら撒きはしたが、失敗を前提にしている節のある発言。そういう疑問もあるが、刺青男が最も気になっているのは、あの自尊心の権化のような連中が、いちいちこんな真似をするのか、ということだった。

 彼らは南区への大使館すら置いていない。そもそもマグナパテルと国交を持っていないのだ。

 刺青男は満足な教育を受けたことはないが、裏の世界で生きのびただけの教訓は身に刻んでいる。

 余程の何かが起きない限り、あの自尊の国の住民が表にも裏にも姿を見せることなどないと。

 もしも姿を見せたのなら、それはよろしくないことが起きる前兆なのだと、経験則で知っている。


「〝我が主〟はいたくご執心ですからね。ずいぶんと寄り道をしてしまいましたが、アイテールにまで届くことはないでしょう。通常業務も滞りはありませんでしたし、そろそろ戻らねば」

「……?」


 言葉の意味が分からない。

 だが、元よりそちらに頭を回すつもりはなく、そんな余裕もすでにない。

 なによりも後がない刺青男にとって、雑音を処理する意味など残っていなかった。


「まあ、いい。それで、ここにいりゃあ奴らが来る、それで間違いないな?」

「……と、そういえばあなた、まだいたのでしたか。ちょうどいいですね。あなたがそこで吠えていれば、そのうち誰かが駆け付けるでしょう。あの商会はよい隠れ場所だったのですが、撒き餌として処分したばかりでしたから。手負いの獣が暴れた、で話は充分通るでしょう」

「…………」


 刺青男は、ここでようやく気付く。この老人はずっと、独り言を呟いていただけだったのだ、と。

 だが納得はできる。確かに今の自分は手負いの獣だ。そして刺青男はこれまでの人生で一度として、檻に入れられた獣に語りかけた経験などなかった。単純に、今日は立場が違っただけなのだろう。


「持ち出せた祝福の数は多くありませんが、退廃地区のモノどもに施せば時間は稼げるでしょう。問題は、これだけの深手で逃げ切れるかどうか、ですか」


 余裕のある口調とは裏腹に、老人は刺青男に負けないほど、満身創痍だった。

 刺青男はすでに呼吸ひとつに全身の力を使う必要があるほど心身ともに追い詰められているが、老人の状態も限りなくそれに近い。

 右半身は、空中で吹き飛ばされる威力の一撃を食らって半壊状態。不幸中の幸いというべきか、右腕を盾にしたので下半身はまだ無事なほう。

 回復はすでに不能との判断を下した。魔力は生命と状態維持に回しているため、攻撃手段には使えない。よもやただ一度の戦闘で、ここまで追い詰められるとは。


「あの二人を見て与し易しと、少々油断が過ぎましたね……」


 痛み止めを打ってなお、激痛に堪えることによる発汗が止まらない。

 戻らねばとは言ったが、おそらくそれは叶うまい。この潜伏場所を、かの王太子に気取られた時点で自分はすでに詰んでいる。どれほど追い詰められていようとも、その判断を違えるまでには至っていないという自負はある。

 もはや、最高の結果は望めない。不本意な状況に歯噛みしながら、老人は最後の戦いの幕が上がるのを、性能が最低にまで落ちた状態で待つしか許されていなかった。

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