余話
(1/2)
「で、ほんとに名前呼びでいいん?」
夕食後。たった一日でそれなりに家具や室内照明も揃ったダイニングで食休みの一服を楽しんでいる最中、宗一郎は昼間からかねて疑問に思っていたことを月夜に問う。
くどいようだが、月夜は注目を集めやすい人物だ。例え今は異世界にいて、ここは高校の教室でもないとしても、どうしても宗一郎はまだそのイメージを払拭しきれていない。
そのためか、きちんと本人に確認を取っておかないとどうにも不安に感じてしまうのだ。
「うん、大丈夫。むしろわたし的には、もっと早くやっとけば良かったって思うよ」
初めて宗一郎作の銘入り刀を手に取ったときと同じくらいの輝かしい笑顔を浮かべて、月夜は名前呼びをあっさり了承する。
ちなみに彼女は現在、市場で買ってきた芳香植物をサシェにするため、宗一郎の指導の下でリサと一緒に作業している最中である。
「ツクヨ様、自分だけ名前で呼んでもらえてないって、昼間すごく落ち込んでいましたから……」
「りっ、リサちゃんシーッ! シーッ!」
ものすごく唐突なリサの密告に、月夜は大いに慌てつつ指を立てて唇に当てながら、リサに言わないよう手遅れな注意喚起を行っている。
(あー、やっぱそれだったか……)
一応、キッチンの最終確認ということで宗一郎も月夜の調理の手伝いに入りながら、ずっと考えてはいた。
その途中で思い至ったのが、いつの間にか自分は、月夜以外の仲間全員を名前呼びしていたのだということだった。
遥香は後輩で元々名前呼びだし、リサは家名を持っていないただのリサ。有雨については本人から名字で呼ぶのはやめてくれという注文が出されていたため、必然的にほぼ全員に対して名前呼びになっていたのだ。
なお宗一郎が縁志を兄貴と呼んでいるのは、ちょっと夜更かしして男同士で色々語り合った結果、名字呼びは変で名前にさん付けは違和感が迸ったためである。ちなみに他の呼び方候補としては、先輩とか兄ちゃんとかあったのだが、どれもお互い微妙な顔になってしまったため、兄貴に落ち着いた。
とにかく、そのような流れで次々と名前呼びが定着していったのだが、一番最初からずっと行動をともにしていた月夜をこそ、宗一郎は無自覚かつ習慣的に名字呼びを続行していたのである。
「ん、しょ……」
「そうそう、イイ感じ。もうちょっと強く魔力を回転させても大丈夫」
「は、はいっ」
月夜とリサは現在、公約通りサシェを作るためのお勉強中でもある。ラベンダーを始めとした芳香植物を生活魔導で乾燥させている。ついでに付着しているゴミや虫の死骸を取り除く重要な作業だ。その後は宗一郎特製の小瓶に入れて数日間熟成させ、後日、特殊な印を縫った袋に入れれば魔除けのサシェの完成である。
「ま、月夜さんがそれでいいなら、そうさせてもらうわ。けど、俺の名前って呼びにくくない? 名字より長くなるわけで」
三文字と六文字の違いは思いのほか大きい。宗一郎も高校まで、名字のほうが呼びやすいと何度も言われてきている。
「ううん、全然? 最初はさすがにちょっと恥ずかしかったけど、わたしはいまのほうが友達感が近くなった感じがして好きだよ」
「そう? ならいいんだけどさ。いやほら、名字のほうが字数少ないから呼びやすいって何度も言われてるから、そうなのかなって」
「えーそうかなあ。まあでも気にしないで大丈夫だよ。特に長いとか思わないし呼びやすいし、平気平気」
「はい、わたしもとてもいい名前だと思います、ソウイチロウ様。響きがとても素敵です」
「……なんかそこまで絶賛されるとすげえ照れるんですけど」
そしてこの一連の会話を真横で聞いていた縁志は後日、宗一郎から鉄拳制裁を食らいつつ、ツマミにするから酒でも造ってくれと頼み込み、もう一発オマケを付けられたりなどしていた。
結局、宗一郎は歯ぎしりしながら新しい酒の醸造に着手するのであった。
(2/2)
宗一郎がキッチンの大部分を完成させたその日。有雨は宗一郎が示した通り、一階奥にある作業部屋群の一室を訪れていた。
「どうしたんですか、有雨さん」
さすがに怯えと不慣れによる吃音も取れ、スムーズに応対できるようになった遥香は、手掛けている椅子の作成作業を一時中断して有雨を出迎えた。
「少し、君にとって重要な話をしておこうと思ってな。手を止めさせて悪いが邪魔をしに来たわけだ」
「はあ、なんでしょう?」
実は未だに高校の制服をきっちりと着ながら作業していた遥香は、有雨の不可思議な言い回しに首を傾げ、
「―――君、身体が女性化しているな?」
不意打ちに核心を突き抜かれ、遥香は硬直以外の手段すべてを一言で奪われた。
目を見開き、反射、もしくは防衛本能に従ってブレザーの前部分を両手で握りしめ、遥香は二歩、有雨から距離を取った。
「ああ、気にしないでいい。周囲に吹聴して回る趣味はないよ。いま問いただしたのは単純に、そうであるかどうかの確認作業でしかないから」
有雨は今日も辛辣な様子で、まったく普段通りな態度を貫いている。
しかし遥香の側はそうはいかない。
なにせ有雨の指摘は完全なる正解で、遥香の身体は現在、恐ろしくなるほどに増えたり減ったりしている。
有雨以外の人間が気付いていないのは単純な話で、遥香が上手く隠し通せていたからだ。それもたったいま、破られてしまったのだが。
「どう、どうして、そ、それ……」
「気にするなと言っただろう。私は別に、君のその状況について弾劾するつもりもない。まあ生物学的観点で興味はあるが」
怯えた様子を見せる遥香にまったく配慮せず、有雨は今日も遠慮なく颯爽と歩を進める。
遥香の身長は百五十一センチ。
対して有雨の身長は百七十四センチ。
普段の口調や雰囲気も相まって、遥香から見れば今の有雨は、なにか恐ろしいものをもたらす厄災の巨人のようにさえ見えていた。
射貫く眼力はまったく衰えていない。全身から発散している威圧感もそのままだ。
そんな遥香の反応に対して一切反応せず、有雨は遥香の前で床に膝をつき、見上げるような視線で遥香を観察する。
「異世界転移の際に性転換……いや、性別反転現象も併発したのか。しかし、それにしてはあまりにも自然すぎる。制服は宗一郎のものと同じ男性用だというのに、君の身体的特徴は明らかに女性のそれだ。だというのに、確信を得られたのは君の反応によるものだった。……遥香、君はこの世界に来た瞬間から、身体はその状態だったのか?」
最後のほうは厳しくもありながら相手を慮る調子の声音に、敏感に察知した遥香は、未だに着ているブレザーを握りしめながら小さく頷いてみせた。
そんな遥香の様子を集中して観察していた有雨は、なにかしらの結論を出してゆっくり瞳を閉じ、立ち上がる。
「……分かった。とりあえず君が必要以上に怯えないようにここで再度確約しておくが、私は君の身体状況を第三者に言いふらしたりはしない。だが、そこまで身体的構造が反転していると、遠くないうちに日常生活に支障をきたすぞ。なにしろ君、女性の生活を知らないだろう?」
「……あ」
遥香はそこで初めて、女性としての日常生活というものを失念していたことを理解する。
遥香自身、自分がどこまで女性化しているかどうかまだ完全には把握していないが、少なくとも身体的にはほぼ完全に女性のものだ。
「その様子を見るに、自我と性格と精神は男性のままか。まったく、君もずいぶんと厄介な状況に巻き込まれたな。しかしまあ、一人くらいは理解者がいれば話はまだスムーズに進む。いつか全員に事実を打ち明ける日が来るだろうが、それまでは私がサポートに回ろう。なに、そのほうがこちらにも益が出るのでな」
これでもアパレル業界にいたからなと、有雨は少々自慢げに鼻を鳴らす。
その後、有雨は遥香と密談し、女性用の下着だのデザインだの、果ては宗一郎相手では絶対的に相談できない生理用品についての話などを進めていく。
なんのことはない。
確かに遥香の性反転現象は非常に厄介なものではあるが。それと同じくらい、もしくは上回ってしまうレベルで、女性陣にとっても厄介な状況だったのだ。
「いや、君も製造スキルを取っていてくれて本当に助かった。さすがの私も、現代の生理用品の再現などできない。知識はあっても技術がまったくないからな」
遥香の肩を叩きながらのたまう有雨。
なんだかんだと彼女は、遥香が抱えていた問題を見抜き状況を並べ直し、目下最大の懸念事項であった問題の解決に乗り出し、自分有利になるよう動き始めたのだった。
「……それにしても、な」
「?」
唐突に、有雨の視線が鋭くなる。
不思議なことに敵意は感じないので、遥香は有雨がそんな目になる理由が分からなかった。
「それだけ大きいと、さぞ苦労もするだろう。いやなに、固定だけはしっかりしなさい、という話だ」
戸惑いを見せる遥香にしかし、
「……目算でE……といったところか?」
有雨は遥香の顔になど目もくれず、ある一点を見て唸っていた。
(3/2)
『根』の深部。
黒鉄級でも上位の冒険者たちが現在進行形で探検を続けている領域にて、頭の半分まで刺青を入れた男は、息を切らして歩いている。
誤算もいいところだ。
油断のあまり弛緩しきっている遥かなる星界からの旅人二人を出し抜き、神薙を奪取するところまでは非常に順調だった。しかし、少々欲をかきすぎた。実験体の二人を一切信用せずに神薙の娘を担ぎ上げたのはいい。だが、防御手段くらいは用意してあると予想はしていても、あれほど強力な護符を持たされているとは。
左腕のほぼ全体、胸部左半分ほどまでは焼け焦げている。急ぎ呪帯を巻いて応急手当としたが、左半分はしばらくの間は使い物になるまい。
面倒なことに、実験体兼護衛として連れていた二人は、乱入してきた謎の二人組によって撃退されてしまった。実際には小柄の男が打倒された時点で逃走に入ったため、全容は知らない。が、実力が伯仲しているあの二人のうち片方が討たれたのなら、もう一人についても時間の問題だろう。
「くそ……くそ……っ!」
状況が厄介すぎる。
顛末を素直に報告すれば、間違いなく自分は消される。契約違反とか、実力不足だとか、そんなものは関係ない。
下手をすれば、成功したところで癇癪を起して殺しにくる。相手はそういう手合いだ。それを、事が途中まで上手く運んでいた優越感に酔って忘れていた。
いま戻るのは上手くない。
まさか出張ってきてなどいないだろう。それはほぼ確信できるが、アレらは、下っ端までもが同種の凶獣だ。
「しばらく身を隠すのが得策か……」
刺青の男は、本拠点をテーブルマウンテンの西区の外れ、退廃地区の廃街としていた。
転移手段は持ち合わせていない。あればとてつもなく便利ではあるが、高級に過ぎる。ずいぶん深く降りてしまったが、ここからどうにか戻るしかあるまい。
「ポーションのひとつも満足に用意できねえのか、くそ……!」
暗い道の途中、密かに用意しておいた酒瓶に不慣れな回復魔術をかける。激痛のせいで魔力の操作もおぼつかないが、それでもどうにか即席回復ポーションをでっちあげ、消毒も兼ねて火傷痕に乱暴にぶちまける。
「ぃ、ぎ――ぐ……!!」
酒精が神経を灼いていく。
激痛を超越する灼熱感。
その痛みは物理の範疇を超え、男の精神までをも犯していく。
「――……くそがよ。ああくそ、あのクソガキ二人組のせいだ。余計な茶々を入れやがって。おかげで、こんな面倒なことになっちまったんじゃねえか……!」
思考に炎がちらつく。
責任の転嫁、もしくは増設。
必死に自分にとって都合のいい話を展開させ、己を満足させる。自分にとっての不都合となる展開を、男は一切許容しない。
じくじくと燻るように痛みを発する左腕を本能が庇う。無意識に右手を火傷痕に添え、むき出しの神経に触れた。
「――あ、ぎ……!」
すぐさま右手を左腕から離す。
こんな目に遭ったのも、あの二人組が邪魔をしたせいにほかならない。
「……絶対許さねえぞ、あの二人……!」
左腕の火傷の原因は神薙の少女が持っていた護符であったはずなのに、男の中では黒髪と金髪のガキども仕業にすり替わっている。
滅裂する思考。
呼吸し、酸素を体内に取り入れるごとに火傷痕が勢力を広げていることにも気付かない。
火傷痕が広がる速度に合わせるように、感情の発露が過剰になっていく。
暗路にゆらめくかすかな陽炎。
「殺す、殺してやる」
後方の道端に転がる瓶。ラベルもなにもない、ただ無地の、技術が不足した濁ったガラス。
あるいは、あの痩身矮躯の男が近くに居続けたせいかもしれない。その瓶から零れるわずかな液体が発する臭気の悪辣さはしかし、男の麻痺した嗅覚には届いていなかった。
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